ニール
あなたは、「あなたの視点が、あなたの認識を創るのだよ」とおっしゃいます。
でも、よく分かりません。
神
葬儀を例にとって、説明しよう。
あなたが、葬儀に参列しているとしよう。
あなたは、とても悲しいかもしれないし、密かに喜んでいるかもしれない。
それは、あなたの見方によって(この死をどう見るかによって)、左右される。
あなたは視点によって、葬儀を「悲しい体験」にも「楽しい体験」にも出来る。
あなたの「視点の選択」が、あなたが何者なのか、何を経験するのかを、決める。
どんな状況でも、「それをどう見たいか」を変えれば、視点は変えられる。
何を見たいかを決めて、見たいものをそこに置けば、それが見えるのだよ。
すべては、あなたが決める。
あなたは見たいものを見るし、見たものを得る(見たものを認識する)。
ニール
では、自分自身の葬儀が近づいた時、「死はすばらしいものだ、この死は私が自ら選んだのだ」と見れば、そう認識できるのですね。
神
そうだ。
私が言っているのは、正にそういう事だよ。
「自分と神は一つであり、一緒になって死ぬ事を決断した」と知っていれば(その視点に立てば)、それを認識できて、安らかな死を迎えられる。
ニール
「自分自身が、自分の体験の絶対的な原因」なのですね。
神
そういう世界(宇宙)に、あなた方は生きている。
ニール
でも私には、そんな風には見えないです。
神
あなたが視点を変えるまでは、そう見える事はない。
あなたが見ないものは(選択しないものは)、見えはしないのだよ。
「それを見れば、信じられる」と言う人が多い。
だが、『信じれば、それを見られる』と、私は言おう。
(『神へ帰る』から抜粋)