神
あなたは「エッセンス」と合体した後に、やがて「エッセンス」から出る。
そして、アイデンティティが再創造されて、「自分の存在の核心」に立つ。
ニール
アップルオレンジの芯にある小部屋に、戻るのですね?
神
そうだ。
今度は、大きな部屋を想像してごらん。
その部屋の壁には、あなたが「時間の回廊(今回の人生)」を通る中で見た壁画たちが、絵として飾られている。
その絵は、回廊を通りすぎる中で、あなたが目を向けた(注目をした)部分だ。
絵たちは、展覧会のように壁にかかっていて、あなたは1枚1枚を深く見つめていく。
そして、絵(出来事)の中で起こった、すべてを経験する。
あなたに起こった事だけではなく、その絵(出来事)の中の全員に起こった事だ。
あなたは、それぞれの瞬間(出来事)に起こった事の、「全体像」を初めて知る。
多くの場合、全体像はあなたが認識した事とは違う。
ニール
お話を聞いていたら、エリザベスという女性の「臨死体験の物語」とそっくりですね。
その物語を、ここで読み上げましょう。
(※しばらくは、エリザベスの臨死体験談になります)
エリザベス
私は、大手術の後に眠りに落ちると、激しい渦にさらされて、次々に何十もの体験にぶつかりました。
それぞれの体験は、1秒にも一生にも感じられました。
ある瞬間には突き刺され、次にはイヌを轢き殺し、今度はマスタード・ガスで肺を焼かれながら沼地を必死に逃げている、といった具合です。
それぞれの体験は、イメージだけではなく、はっきりと身体に再現されていました。
どれも記憶にはありませんでしたが、なぜか自分に起こった事だと確信していました。
神
「あなたが輪廻転生を信じていたら、死後の第2段階では前世の瞬間を経験するだろう」と、私は言っただろう。
エリザベス
その後、「ぱらぱらアニメ」が始まったのです。
ぱらぱらめくると人間が動いている様に見える、あれです。
それは、「私の人生の映画」でした。
私は、ぱらぱらアニメの1つ1つのシーンを感じ取って、魂の底から衝撃を受けました。
1つのシーンは一瞬で過ぎ去るにも関わらず、もう一度それを体験し直しているみたいでした。
しかも自分だけではなく、関係者全員の受けた影響をも体験していると感じたのです。
それは、私が憶えている人生とは違いました。
すぐに思い出せるような、印象的な出来事はほとんどありません。
大きな事件を拾って綴る自伝ではなかったのです。
それは、あらゆる感情が詰め込まれた回想シーンの集まりで、どれもが神性のある側面を自分が見せたか見せられた場面でした。
ほとんどのシーンは、ドラマチックな出来事ではありませんでした。
ちょっとした意地悪な言葉が引き起こした痛み、初めて補助輪なしで自転車に乗れた時の達成感。
私は、1つ1つのシーンに込められた感情と真実を、自分に刻印されていたかの様に思い出しましたが、どんな出来事にまつわるものだったかはよく思い出せないのです。
それぞれの価値が理解されると、物理的な出来事そのものは意味を失うかのようでした。
私は、批判されているとは全く感じませんでしたし、ただ本当の自分を見ているのだと分かっただけです。
ニール
不思議でしょう?
エリザベスの体験は、死後の体験と近いのですか?
神
死後の体験は、対話の中で話したとおり、人によって違いがある。
だが、どの人にも共通して起こる事もある。
『人生の復習』は、その1つだ。
ニール
人生の復習って、つらそうですね。
神
苦痛だとか気まずさは、ぜんぜん無いのだよ。
「自分の精神への同一化は、死後の第2段階で捨てられる」という事を、思い出してごらん。
あなたは死後の第3段階で、自分の人生経験を眺めて、芸術作品を鑑賞するように客観的に見る。
あなたはそれぞれの瞬間を、充分に理解したと思うまで鑑賞する。
そうやって、展覧会をぐるりと巡る。
そして、それぞれの瞬間が自己を創造するために使われたと理解し、まもなく『自己をどう新たに再創造したいか』を決める事になる。
ニール
1つ訊きたいのですが。
どうして、エッセンスと合体して安らぎと至福を経験した後に、またエッセンスと離れるのですか?
なぜ、エッセンスと溶け合ったままで居ないのですか?
神
それは、「生命」は自らを表現しようとする性質を持っているからだ。
それが、「生命」の発現なのだ。
そうせずにはいられないし、そうしたい。
この言葉の「生命」には、代わりに「神」や「エッセンス」「エネルギー」を入れても同じだ。
どんな言葉を使おうとも、結局は「生命」について言っているのだ。
生命は、自己を表現する。
つまり、生命自身から生命を押し出し(生み出し)、新たな一側面として誕生させる。
誕生させるのは、「生命」を生命自身の体験として、知って経験するためだ。
ニール
それが、生まれる事の本当の意味なのですね。
神
そうだ。
あなた方は、本当の自分を知って経験するために、『自分の存在の核心』から出たり入ったりしている。
(『神へ帰る』から)