「裁き」という、第6の幻想

 神

あなた方は、「何かを手に入れるためには、課題を果たさなければならない」と考えた。
(課題という第5の幻想)

そして、「課題を果たしたかどうかは、何によって決まるのか?果たせなかった者はどうなるのか?」という難問にぶつかった。

この問いに答えようとして、あなた方は『裁き』という幻想を発明した。

あなた方は、「課題を決めたのは神だから、課題を果たしたかを判断するのも神だろう」と考えた。

あなた方は長い間、「神を喜ばせる事が出来なければ、それなりの報いを受けるはずだ」と考えてきた。

そんな結論を出すのも、無理はなかった。
周りを見れば、上手く行っている人生もあり、上手く行っていない人生もある様に見えるからだ。

(本当は、失敗は存在せず、上手く行かない人生などない。

すべてはプロセスであり、失敗とはそのように見えるだけです。
視点を変えれば、失敗ではなくプロセスだと分かります。)

あなた方は、「神々ですら競い合っている」と考えた。

そして災害や不運に見舞われるたびに、「神々の誰かが満足していない」「神々が争い合っている」と考えた。

「神をなだめないと、仕返しをされる」という考え方は、今もあなた方の神学を支配し続けている。

ごく最近でも、例えばエイズが広がった時に、「これは神罰だ」と言う人が大勢いた。

大勢の人が、「神が定めた課題があり、それを果たさなければ地上でも天国でも報酬を得られない」と信じている。

そして、「裁きのシステムがあり、誰が課題を果たしていないかが決定される」と思っている。

一方で、「何をしても課題を果たせはしない」と言い切る神学もある。

そういう神学は、「人は不完全な存在として生まれ、生まれる前から魂は汚れている」と言う。

あなた方が生み出した「何もかも正しくなければならない」という考え方は、独善そのものだ。

あなた方は、お互いに『汚れ』を付け合った。
性や肌の色、宗教が違う者は、「正しくない」と言い合った。

そうやって、『神を演じた』のだ。

あなた方は、「神が人を不完全だと決めたのは、最初の人間が悪事を犯したからだ」と教える。

『裁き』という幻想を正当化するために、「必要性・失敗・分裂」の最初の三つの幻想が使われる。

アダムとイヴの物語などの『文化的な物語』は、どれも課題と裁きの幻想が根拠になっている。

あなた方は、「神は人を不完全なものだと定めた」と考えているから、「他人を不完全だと決め付けても構わない」と思っている。

それなのに、「神は人に、完璧になることを期待している」と考えて、人に完璧さを期待する。

あなた方は、『裁きという幻想』を現実だと思い、すぐに裁きを下そうとする。

特に「指導者は完璧なはずだ」と考えて、ちょっとでも不完全さを見せると糾弾する。

このため現代では、指導者が生まれるのは、ほぼ不可能になった。
あなた方は社会に必要なものを、自ら奪ってしまった。

誰かが課題を果たせないからといって、それがどうしたというのだろう。

明らかに、この幻想には欠陥があった。
だから、間違いだと分かるはずだった。

しかし、あなた方の祖先はどこか深いレベルで、「この幻想を捨てると、大切な事が失われる」と感じていた。

その感じ方は正しかった。
幻想は、創造の道具として使えば、偉大な創造につながるからだ。

だが彼らは、過ちを犯した。

幻想を幻想と見抜いて、創造の道具として活用するのではなく、「幻想の欠陥を繕わなければならない」と考えたのだ。

こうして、第6の幻想の欠陥を繕うために、『罪の宣告』という第7の幻想が生まれた。

(『神とひとつになること』から抜粋)


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