神
罪の宣告という幻想は、「自分にふさわしいのは、賛美だけだ」という真実を経験するのに、活用できる。
常に賛美の中に居たのでは、賛美は何の意味もなくなる。
だからあなた方は、罪の宣告という幻想を創り、「賛美は悪い事だ」と信じ込んだ。
特に自己賛美は悪い事だと思い込み、「自分の輝かしさに気づいてはいけない(人間は原罪を負っている)」と、あなた方は決めた。
罪の宣告の幻想は、「人間を害する事が可能だ」という宣言でもある。
だが真実は、あなた方は神に似せて創られた存在であり、傷つけられる事も害される事もない。
(あなた方の魂は、無条件の愛であり、不死で永遠である)
罪の宣告の幻想は、この驚異を経験するために創り出された仕掛けだ。
罪の宣告と地獄を、教会に通う人々は信じてきた。
だが、このイメージは偽りだ。
だからこそ、私がインスピレーションを与えたヨハネ・パウロ2世は、「聖書に題材をとった絵を誤用して、心の病や不安を引き起こしてはならない」と諭したのだ。
(1999年7月28日の説法で)
彼は、「聖書にある地獄は、神のいない苛立ちや、空しさを表すもの」と語った。
『地獄とは、神から離れることで自らが招く状態だ』と、彼は説明したのだ。
だが、罪の宣告の幻想は、自分の様々な側面を経験するのに役立つ。
例えば、不安・赦し・慈悲などだ。
赦しを経験するのは、若くて未熟な文化だけだが(進んだ文化は、赦しは必要ないと理解している)、赦しは進化の途中では大きな価値を持つ。
赦しは、様々な傷を癒すことができる。
癒すことで、健康や幸福への道が開ける。
罪の宣告の幻想を、あなた方は創造的に使ってきた。
赦しを表現できる場を創り出して、赦しを経験する事で、愛と神の真実に近づいた。
赦しについての最も有名な物語の一つは、イエスが隣の十字架にかけられた男を赦して、「神を求める者は、誰も罪を宣告されない」という真実を明かしたことだろう。
これは、『決して誰も、罪の宣告を受けない』という意味だ。
なぜなら、誰でも究極的には神を求めているから。
『神ともう一度一体になりたいと望めば、誰でもその望みは達せられる』
赦しは、本当は必要ではない。
私たちは、すべて一体だ。
それなのに、何を赦すというのか?
手はつま先を赦すだろうか? 目は耳を赦すだろうか?
愛とは、『決して罪の宣告をしないこと』だ。
この事を理解すれば、誰かが「つまずいた」時に、罪の宣告をしたりしなくなる。
ささいなつまずきを見て地獄に落とす神など、決して考えなくなる。
この事を覚えておきなさい。
『裁くなかれ、罪を宣告するなかれ』
(『神とひとつになること』から)