神
ここからは実例を取り上げて、幻想にぶつかった時の「対処の仕方」を考えてみよう。
まず、3つの対処法を再確認しよう。
① 私の世界のあらゆるものは、現実ではない
(幻想を幻想として見抜く)
② すべての経験の意味は、私が与える
(その経験が何を意味するのかを、決定する)
③ 私は「私がこうだ」と決める私であり、私の経験は「私がこうだ」と決める経験である
(自分を新たに再創造する)
『必要性という幻想』にぶつかった時、それは「あなたの必要性」か「他者の必要性」のどちらかとして現れる。
自分の必要性に見える方が、せっぱつまった感じがする。
いきなり、不安や恐怖がわき起こるかもしれない。
例えば、「酸素が必要だ(酸素が足りない)」と想像したら、たちまちパニックに陥るだろう。
酸素が足りない状況でも落ち着いていられるのは、「死は存在しない」と知っている者だけだ。
死を幻想だと見抜いて(対処法①)、死が何を意味するかを決定し(対処法②)、「死も再創造のプロセスである」と理解して決定すれば(対処法③)、死の意味を自分で決められる。
イエスはそれを行い、世界を驚かせた。
(死は幻想であると見抜き、死を復活のための道具と決めて、活用した)
多くの人にとって、「肉体的な痛み」は死よりも恐ろしい。
だが、痛みイコール苦しみではない。
痛みと幸福は、両立しないものではない。
出産を経験した女性は、それを知っている。
痛みからの解放は、「必要」なのではなく、その方が「好ましい」だけだ。
必要性から好ましさに変えれば、あなたは痛みへの執着から離れて痛みの上位に立ち、痛みを無視する力を持てる。
「幸福になるには、何かが必要だ」と、あなたは思うかもしれない。
だが、よくよく考えれば、それは必要ではないと気付くだろう。
『幸せとは、経験ではなく、意志である』
「必要だと思うものが無くても、幸せになれる」と決めればいい。
そうすれば、幸せになる。
あなたの経験は、意志決定の結果であって、原因ではない。
「他者の必要性」を、幻想だと見抜けないと、常に他者の必要性を満たそうとする罠に陥る。
皮肉な事に、他者の必要性を満たし続けていると、相手を助けるよりも相手の力を奪うことになってしまう。
「他者の必要性」を感じたら、自分が「寛容さ・親切心・自分の豊かさ」を経験するために、活用すればいい。
だが、決して「誰かに何かをしてやった」とは思わないように。
『私はすべてを、自分自身のためにしている』
これが、あなたの真実であり、神の真実でもある。
どんな事も、自己の利益以外はあり得ない。
なぜなら、自己は『存在するすべて』だからだ。
あなたはあらゆるものと一体であり、あなた以外のものはない。
これが分かれば、「自己の利益とは何か」という考え方が変わる。
(『神とひとつになること』から)