(『レッドツェッペリン 天国への階段』から2010年頃にノートにとって勉強したもの)
『ツェッペリンⅡ』の「ブリング・イット・オン・ホーム」(ブルース・ナンバー) は、ミキシング時にジミー・ペイジは初期チェスレコード風のサウンドにすべく、ヘヴィーなエコーを求め、泥臭くダーティなサウンドにした。
ジミー・ペイジの話
「この時はとにかく忙しかったから、ひとつのスタジオに腰を落ち着けてアルバムを完成させられなかった。
不安なんだよ、ファースト・アルバムと全然違ったものになってしまったから。
やりすぎたんじゃないかって。
でも充分ツェッペリンらしいアルバムだとも思うんだ。
最近はハードロックに入れ込んでるバンドって少ないだろ?
それが僕らの成功した理由かもしれないな。
みんなフォークやカントリーとかの、ぐっとソフトな音楽に血道を上げている。
コンテンポラリー・ブルースを演るバンドも減ってしまった。
でも絶対になくならないと思う。
タジ・マハールが僕の考えるコンテンポラリー・ブルースなんだけど。
僕らのやってるのは、あらゆる音楽の合体じゃないかな。」
同じくペイジの話
「下手したらセカンド・アルバムの方が攻撃的なんじゃないかな。
ツアーの合間にしかスタジオに入れなかったから、朝から晩までプレイしてたときの感じがはっきり出てると思うんだ。
ゆっくり見直してみる暇なんてなかった。
『胸いっぱいの愛を』のリフは、スタジオに入る前から考えてあったんだ。
リハーサルもしておいたし。
超音波っぽい音とかをスタジオで作って、SEや処理を加えたわけさ。
下がっていくリフは、メタルスライドと逆向きエコーでやった。
あれをやったのは僕が最初だったんじゃないかな。
他にも変に聞こえる所は大抵、逆向きのエコーを使っている。
『レモン・ソング』は、ベイシックなブルースに近い。
スタジオで一発録りして、オーヴァーダビングはブリッジのギターだけだ。
フェンダーかリッケンバッカーの12弦エレキギターを使ったと思う。
『サンキュー』は、ロバート(プラント)が作詞を全てした。
そういう分担の始まりが、この曲だった。
この曲もオーヴァーダビングはほとんどしていない。
『ハートブレイカー』は、リフだけのナンバーだね。
リフを集めたものに、ロバートの歌詞をくっつけただけ。
『リヴィング・ラヴィング・メイド』も、リフを中心にしたベイシックなロックナンバーだ。」
ジョン・ポール・ジョーンズの話
「『強き二人の愛』では、リードっぽいスタイルに移行している。
アレンビック社のベース・ギター(リック・ターナーの手になる)が、その手のプレイにはうってつけでね。
でも出しゃばらないようにしたよ。」
ロバート・プラントの話
「『ランブル・オン』は、このアルバムで一番気に入ってる。
これが僕の目指している方向性だって、みんなに分かってもらいたかった。
このアルバムではジミーとの音楽的な共感が深まったし、ずい分と幅広くなった。
質を保つことができたのは、僕の声を色々と違ったかたちで使ってみたからじゃないかな。」
レッド・ツェッペリンは、1969年10月中旬から3度目のアメリカ・ツアーを開始した。
その直後の10月22日に、セカンド・アルバムは発売された。
チャートではファースト・アルバムが38週目で18位につけていて、すでに78万枚を売っていた。
セカンドは予約だけで50万枚を超え、発売と同時にゴールド・ディスクになった。
セカンド・アルバムは、11月22日にチャート2位になったが、1位はビートルズのアビーロードであった。
セカンドは12月27日にはアビーロードに勝って1位になった。
そこから7週間トップを守り、サイモン&ガーファンクルの明日に架ける橋にトップを譲った。
セカンドは18ヵ月ランクインした。
ちなみにビートルズは、なぜ数々の法廷闘争を行なったのか?
それらはいずれも直接、金銭が絡んでいた。
印税、所有権、著作権などだ。
レッド・ツェッペリンが契約しているアトランティック・レコードは、アメリカのラジオ局の要望を受けて、 『胸いっぱいの愛を』のシングルを出した。
これは中間のソロをはぶいた短いヴァージョンで、ラジオの3分間という要望に答えたものだが、90万枚売れた。
ジョン・ボーナムの話
「あのシングル盤が出たのはアメリカだけだ。
おれたちは編集していないヴァージョンを出すつもりだったけど、行き違いがあったらしい。」
メンバーたちとグラントは、イギリスでのシングル発売に強力に反対して出さなかった。 シングル・カットはアルバムのコンセプトを壊すと考えていたからだ。
当時のイギリスにはまだ民放のラジオ局がなかったため、発売しても流してもらえないという事情もあった。
レッド・ツェッペリンは、ボストン・ガーデンズでのライブで1.7万人の客を集め、4.5万ドルを稼ぎ出した。
だがアメリカ南部では、彼らが長髪だったため年配の男たちからきつい嫌がらせを受けた。
当時は長髪はめずらしかったし、反抗的でもあった。
ジョン・ポール・ジョーンズの話
「ツアーをやっていると自分が違う人間になってしまう。
ツアーを終えて家に帰るたびにそう思うよ。
動物みたいな暮らしをしていたせいで、自分を取り戻すのに何週間もかかってしまうんだ。」
ジミー・ペイジの話
「あの時点で僕らと似たようなアプローチをとっていたのはクリームだけだったけど、彼らはだらだらしすぎていると思っていた。
だから僕らは、もっとメリハリをつけるようにした。それとドラマティックな要素。
僕らの成功は、たぶんそこだろう。」
ロバート・プラントの話
「ルックスに対する称賛は命取りになりかねない。
テングになって『オレが世界一のシンガーだぜ』なんて言い出したりね。
だけどそんなの何の意味もない。
だって僕より上手く歌える奴が、いつ出てこないとも限らないわけだろ?
数ヵ月前までは満たされないシンガーだった僕が、今じゃ次代のセックス・シンボルだなんて。
マジになるような話じゃないんだ。
そんなもののためにやってるんじゃない。
ライブでは、客席からヴァイブレイションを返してもらわないと、とてもやっていけない。
心を自由に聞くことで、観客が僕らと一体化する。
割り当てられた時間だけ時計仕掛けみたいに演奏しておさらばするなんて真似は、絶対にしなかった。
僕らのライヴは全然そういうんじゃなかった。
個人的には、バッファロー・スプリングフィールドやカレイドスコープとかの多様性に富んだバンドと同じ路線を目指していたと思いたいね。
ジミーは頷いてくれないだろうけど。」
1970年の正月にデンマークで、ジョン・レノンとヨーコが長髪をバッサリ切り、切った毛をマルコムX(アメリカの黒人運動家)に送った。
これはブラックパワー運動の基金のためオークションにかけられた。
(2024年10月4&15日に作成)