(『レッドツェッペリン 天国への階段』から2010年頃にノートにとって勉強したもの)
レッドツェッペリンの3rdアルバムは、アコースティックの曲がある。
これは、「ツェッペリンの音楽は増幅されたノイズにすぎない」と言うマスコミへの無意識の反応でもあった。
ロバート・プラントの話
「前からずっとアコースティックの曲もやってみたくて。
観客も受け入れてくれそうだった。
バンドとして常に発展していきたいんだ。」
3rdアルバムを作る前にロバート・プラントとジミー・ペイジは、サウス・ウェールズのコテージ(ブロン・イ・アー と名付けられた)に行き、のんびりした。
そこで5曲ほど作曲した。
ジミー・ペイジの話
「本当の意味でロバートと気心が通じ合ったのが、あの時だった。
あそこで作った曲はバンドに新しい局面をもたらしてくれたし、あれ以来インスピレーションを得るために旅に出るのが恒例みたいになった。」
その後、1970年3月2日から、レッド・ツェッペリンは4度目の北米ツアーに出た。
4月末までに26回のコンサートをした。
アメリカの国情もあり、厳重な警備がしかれた。
ジミー・ペイジの話
「アメリカ人は何も信じちゃいない。
全員が保身のために銃を持ち歩いていて、ジョージア州じゃ全部の車に武装したガードマンをつけなきゃならなかった。」
3rdアルバムのレコーディングは英国のハンプシャーにある、ヘッドリィ・グランジなる古びた大邸宅に機材を持ちこんで行なわれた。
ロバート・プラントの話
「ロイ・ハーパーやインクレディブル・ストリング・バンドを愛聴していたからね。
僕は大成功だったと思うけど、3rdアルバムは一番売り上げが悪かったし、評論家からも叩かれた。
でも傑作のひとつだと思う。
ああいうのをやる気になったってこと自体、僕らの調子が上々だったことの証拠だよ。」
ジミー・ペイジの話
「3rdアルバムの『貴方を愛し続けて』は、基本的にスタジオ・ライブだ。
海賊盤業者がちゃんとした機材で録ったら、あんな風なサウンドになるんじゃないかな。
『ギャロウズ・ボウル』は、ブリティッシュ・フォークのスタンダード。
フレッド・ガーラックのヴァージョンをベースに、別物にアレンジし直した。(ペイジは初めてこの曲でバンジョーを使用した) 」
『タンジェリン』は、数年前に書き上げ、ヤードバーズもレコーディングを試みていた。1stアルバムの『時は来たりぬ」』以来で、ペダル・スティールをフィーチャーした。
ロバート・プラントの話
「『ザッツ・ザ・ウェイ』は、ブロン・イ・アーで5曲ばかり書いた中の1曲だよ。
アレンジもあそこで考えて、ヴァイオリンを使うことに決めたんだ。
『ハッツ・オフ・トゥ・ロイハーパー』は、僕らの友情の印以外の何物でもない。彼の時代は間違いなくやってくると思う。
ツェッペリンらしさをなくさない範囲で、ああいう分野に足を踏み入れてみたいと思っていた。
このアルバムは僕の望んでいた方向に進んでいる。」
レッド・ツェッペリンはヨーロッパ・ツアーをし、1970年8月からは5度目のアメリカ・ツアーに出た。
このアメリカ・ツアーでは、出演料が最低でも2.5万ドルになった。さらに前座を起用しなかった。
3rdアルバムは、1970年10月5日に発売された。
予約はアメリカで70万枚、イギリスで60万枚だった。
この時点で、2ndアルバムはチャート・インから52週目の89位にいた。
3rdアルバムは、チャートには3位で登場し、2週目で1位になり1ヵ月位キープした。
『移民の歌』をシングル・カットしたが、イギリスでは発売せず。
1970年度の売り上げで、2ndアルバムは2位になった。
3rdアルバムを評論家はこぞって批判し、3rdは31週でチャートから姿を消した。
(2024年10月15&22日に作成)