タイトルソニーの歴史
CBSソニー、CD開発など

(『終わりなき伝説 ソニー大賀典雄の世界』有沢創司著から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)

東京通信工業(後にソニーに改名)は1950年に、一般用のテープレコーダーを世界に先駆けて開発した。

1952年当時、東京通信工業は全社員の半数を大卒あるいは専門学校出身で占め、これは中小企業としては異常な数だった。

東京通信工業の経営者である井深大(いぶかまさる)と盛田昭夫は、英字雑誌「フォーチュン」にて、新しく誕生した技術「トランジスタ」を知った。
そしてトランジスタを使ってラジオを作るという、賭けに出る事を決意した。

実用的なトランジスタの発明者は、米国のベル研究所のショックレーら3人だった。

東京通信工業は、ベル研究所の親会社であるウェスタン・エレクトリック社と交渉したが、当時はラジオ用の高周波トランジスタは開発されてなかった。

トランジスタの特許料は2万5千ドル(900万円)だった。
当時、それだけの大金を外国に持ち出すのは日本政府により規制されていた。
通産省と交渉したが、中小企業のため拒否された。

盛田昭夫はウェスタン・エレクトリック社と2万5千ドルで仮契約した。
米国の大企業に認められた証となり、申請から1年半後の1954年2月に外貨割り当てが許可された。

東京通信工業が結んだ契約は、アンブレラ契約ではなかった。
アンブレラ契約とは、技術を向こう任せにする契約である。

1954年7月に、東京通信工業のトランジスタ・ラジオは完成した。
だが、さらに高性能をめざして、成長型(グローン型)のトランジスタを使用して開発を続けた。

成長型は歩留まりの悪さから、誰も手をつけてなかった。

1955年の春に東京通信工業は、社名をソニーに改めた。

1955年9月、ソニーはラジオを発売。価格は1万8900円。
トランジスタ・ラジオは日本初だった。

1958年、ソニーの発売したポケットに入るラジオ「ポケッタブル」が大当たり。
ヨーロッパでソニーと代理店契約をしたいとの希望が殺到する。

1963年秋に、オランダの巨大メーカーであるフィリップス社は、自社が開発したコンパクト・カセットをソニーに見せて、「一緒に世界規格を作らないか」と持ちかけた。

ソニーは大賀典雄が交渉を担当した。
ソニーは、カセット1個につき25円のロイヤリティーを要求されたが断わり、ロイヤリティー無しの無料に決めさせた。
これは独占禁止法などにより、全社に適用された。

フィリップスは、自社製品との互換性を条件に、カセットテープの特許をタダで公開した。

ソニーは、フィリップスと全パテントを共有するという契約を結んだ。

1967年1月、日本政府は戦後初めて、資本の自由化にふみ切った。

全額出資と半分出資の2種に業種分けした。

これを知り米国のCBSは、日本市場に資本を投じて直接参入する事を決めた。

レコード会社は半分出資しか認められなかったため、CBSは合弁会社を模索して、10月に社員を日本に送った。

CBS社員は、LP原盤の提供契約先である日本コロンビアをはじめとして、各企業を回ったが反応は鈍かった。
その中で、ソニーの盛田は30分で合弁会社の設立を決心した。

こうして「CBSソニー」が生まれた。
資本金は、双方が百万ドル(3億6千万円)づつで決まった。
すぐにLPの製造工場の建設に着手した。

1968年3月、ソニー社員の大賀典雄がCBSソニーの専務になり、経営をまかされた。
同月17日に、新聞に大々的にCBSソニーの求人広告を出した。

CBSソニーは、それまでのレコード業界の慣行を刷新した。

まず、ディーラーや各レコード店と契約する時に、LPの返品枠は10%までとした。
店に90%を買い取ってもらう。
売れるか売れないかは店の責任とし、返品がいくらでも自由だった慣行を改めた。

それまでは、レコード会社は店にLPを送って、売れなかったら送り返されていた。

さらCBSソニーは、店との決済は全て銀行振り込みとし、手形は受けつけない事にした。

それまでは手形決済が主で、90日~180日の手形が基本だった。

このCBSソニーの新たな手法に、レコード店は大反発した。
それまではレコード会社の営業マンが店に行って手形をもらい、売れ筋や、客の動向を教えてもらっていた。

1968年8月21日に、CBSソニーは初めての新譜を出した。
その後、サイモン&ガーファンクルのアルバム『卒業』が大当たりし、次々にレコード店が契約を求めてきた。

CBSソニーは、新譜を他社の10分の1に厳選し、店は効率よく売り切って、銀行決済で早くスムーズに決済するという、合理的な方式を生み出した。

新人ミュージシャンの発掘も、それまではプロダクションが中心にやっていたが、CBSソニーは自らそれをした。

CBSソニーの酒井政利は、劇作家・寺山修司の所から、シンガーソングライターの小椋佳とカルメン・マキを発掘した。

酒井は他にも、中学生の山口百恵を発掘し、ホリプロにあずけた。
南沙織、郷ひろみも発掘した。

後の話になるが、CBSソニーは創社10周年に、同じく創刊10周年の週刊セブンティーンと組んで、ミス・セブンティーンのコンテストをしたが、松田聖子が九州地区で出場した。

松田は、九州代表になりながら本選には出なかったが、CBSソニーの若松宗雄が2年かけて説得しデビューさせた。

やがてCBSソニーは、利益率で全世界のレコード会社で1位になった。

「PCMプロセッサー」は、ソニーが開発したデジタル録音機である。
ビデオテープにデジタル記録し、VTR装置を使って再生する。

ソニーは1977年に世界に先がけて市販した。

業務用は16ビットで、一般用は14ビットだった。

1979年に、ソニー創業者の井深大は、「飛行機内で音楽を聞けるように、自社のテープレコーダーにヘッドホンをつけてくれ」と、大賀典雄・副社長に頼んだ。

同年3月16日に、大賀はヘリの事故で重傷を負った。

大賀は退院後、井深に頼まれていたヘッドホン付テープレコーダーを渡した。
これを盛田昭夫が試聴したところ、「売れる」と判断。
数か月後、「ウォークマン」として売り出された。

ウォークマンを発売する時、「テープレコーダーのレコーダー機能をとったものなど、売れない」との反対意見も多かった。

だがテープレコーダーが月産1万5千台だった所に、ウォークマンは最初から月産3万台で勝負に出た。これが見事に成功した。

なおウォークマンは、大曽根幸三が中心となって開発した。

1979年にフィリップス社は、「CD」の原型となる11.5センチのデジタル情報用の円盤をソニーに見せた。

当時ソニーは30センチのサイズで同様のものを開発していたが、フィリップスの規格で行く事にし、1979年6月に共同開発にふみ切った。

CDは、ソニーでは中島平太郎が中心となって開発した。

CDの規格作りでは、ソニーとフィリップスに対立があった。

まずソニーは16ビットを、フィリップスは14ビットを主張した。16ビットが採用された。

サイズと収録時間では、ソニーは12cm、74分を、フィリップスは11.5cm、60分を主張した。
ソニーの74分は、「交響曲がほとんど入る時間」と大賀が主張した。

ソニーの12cm、74分が採用された。

CDの規格作りでは他にも、44.1キロヘルツのサンプリング周波数と誤り訂正技術も、ソニーの提案である。

モデュレーション(変調)のみフィリップスの規格が通った。
これは衝撃時でも音が飛ばない技術である。

1980年6月19日の両者の最後の会合で、全ての規格が決定した。

「1982年10月1日にCDおよびCDプレイヤーを発売する」と、大賀は発表した。

CDを製品化するには、半導体レーザーを作らねばならず、LSI500個分を3個にまとめねばならず、 ディスクの材質も決める必要があった。

ソニーのCD開発チーム責任者となったのは、宮岡千里(みやおかせんり)であった。
宮岡は、1966年に初のカラーテレビで失敗してソニーが倒産危機になった時、トリニトロンの原理部分のアイディアを出して救った人である。

半導体レーザーの量産は、シャープが成功したとの朗報が入り解決した。

LSIを3個に集約するのも成功した。

CDの材質は、表面はアルミ、中はポリカーボネイトで決定した。
ポリカーボネイトは、プラスチックの中で一番たわまない。

ソニーは、CBSソニーのLP工場(大井川工場)を、CDの工場に替えた。
1982年8月を過ぎる頃、ようやく量産への体制がととのった。

1982年8月下旬に、ソニー社長の岩間和夫がガンで死去した。
同年9月、大賀典雄が社長に昇格した。

この頃、ソニーはオイルショックによる不況で、オーディオ機器の在庫が溜まりに溜まり、さらにベータとVHSの戦いで負けた。
この結果、1982年は初めての減収減益となった。

大賀は社長になると、タブーとされていた部品の外販をして業績をのばした。

1982年10月1日、初のCDプレーヤー「CDP101」を、ソニーは発売した。
だが16万8千円と高価なので売れなかった。

次の「D-50」は、よりコンパクトなサイズで、49800円で売り出した。
元値が10万円かかっているのに安くした。盛田昭夫が普及させるため下した決断である。

D-50は好調に売れ出した。

ちなみにCDが普及してLPの年間販売数を抜いたのは、1986年である。

88年にCDは年間販売数が1億枚を突破した。

余談だが、盛田は渋谷区・道玄坂を上った青葉台に、大邸宅を持っていた。

大賀は、ジェット機の操縦ができた。

1988年1月に、ソニーはCBSレコードを買収した。買収額は20億ドル。

1989年7月16日、大賀典雄は指揮者カラヤンの死を看取った。
すぐ後に大賀も倒れたが、大事に至らず。

1989年9月にソニーは、ハリウッドの大手映画会社「コロンビア」を、46億ドルで買収した。
コカコーラ社がコロンビア株の49%を持っていて、それを買った。

この買収の背景には、「VHSに(ソニーの)ベータが負けたのは、ソフトを持っていなかったからだ」との思いがあった。

コロンビア株の購入で34億ドル、コロンビアの負債の肩代わりで12億ドルを支払ったが、最初の5年くらいは大赤字が続いた。

録音可能でポータブルな光ディスクである「MD」(ミニディスク)は、大賀典雄が発案した。

当時、フィリップスと松下が組んで「DCC(デジタル・コンパクト・カセット)」を作っていた。ソニーも参加を求められたが、それを蹴ってMD開発を目指した。

MD開発のプロジェクトは、1989年12月に始まった。
MDの直径は6.4cmである。
(※MDは1992年11月に発売された)

任天堂のスーパーファミコンは、ソニーの技術に頼って生まれたものだった。

1991年6月1日に、ソニーと任天堂は「スーパーファミコンの互換機となるCD-ROM使用の次世代機を共同開発する」と発表した。
ところが翌日に任天堂は、「フィリップスと共同開発し、ソニーとはしない」と発表した。

これを受けて、ソニーは自社ブランドのゲーム機を構想した。

1992年6月に、久多良木健らの提案したプレイステーション(TVゲーム機) 開発が、大賀典雄・社長の鶴の一言で決定した。
会議では開発反対が大多数だった。

プレステーションは大当たりしたが、勝因は、3D画面の素晴らしさ、ソフトがCDなのでROMカセットに比べて3分の1のコストですむ、コントローラーの斬新さ、であった。

◎大賀典雄の前半生

父は材木商人で金持ち。女4人、男3人の7人兄弟の4番目の子供。
沼津に生まれる。

典雄は、中学2年の時に肋膜炎で1年休学した。

その間は、隣りに住んでいた岩井産業の岩井一郎が勉強を教えてくれた。電気、物理、音楽も教わる。

声楽家になる決心をして、バリトン歌手の中山悌一に学ぶ。
中山は東京都世田谷区に住んでいて、往復6時間かけて通った。

東京芸大・音楽学部に入る。

1950年、大学2年生の時に、東京通信工業(現ソニー)とテープレコーダーを通じて関わる。

G型テープレコーダーの試験使用のため、同社員が芸大を訪れた時に知り合う。

G型は国産初のもので、その改良に大賀典雄は関わった。典雄は「新製品は質が重要だ」と主張。
G型は半年前に16万円で発売されたが、1台も売れてなかった。

大賀典雄は、東京通信工業の井深大に見込まれ時々食事をするようになった。

1953年3月、東京芸大を卒業。専攻科に残る。
ゲルハルト・ヒッシュに認められ、ドイツ留学を決心していた。

卒業式の後、東京通信工業に呼ばれ、嘱託契約という事で大学初任給なみの給料を毎月もらう事に。

1954年8月、大賀はドイツへ留学し、ミュンヘン音大に入った。
東京通信工業の営業部長・笠原から、毎日船便で日本の新聞が届く特別待遇。

そのお返しなのか、大賀はドイツの技術についてリポートを書き送った。

大賀と同じに留学した親友は、大賀の交渉能力と金銭感覚の鋭さに驚いた。

1957年9月、大賀は帰国。独唱会などの活動を始める。

ソニーに、「週2回で曜日は自由に出勤する」との特別待遇で入社。

57月11月、芸大の同期で留学時も仲の良かったピアニストの松原緑と結婚。

1959年9月、「二足のわらじでやればいい」と盛田昭夫に説得され、ソニーに正式に入社する。いきなり部長になる。

大賀は「デザイン専門の部署を作るべき」と提言。採用され、デザイン室の室長も兼任する。

広告宣伝はマンガのアッちゃんをマスコットにしていたが、「ソニーに合わない」と大賀は言い、容れられて宣伝部長も兼任。

1964年、34歳で取締役に就任。

1964年、オペラに出演中に居眠りで出遅れ、 二足のわらじの限界を感じ、声楽家を辞める。

1968年3月、CBSソニーの専務になり、経営を任される。

(※大賀のこの後の経歴は上述の通り)

(2025年1月18~21日に作成)


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