タイトル作曲家モーツァルトのあれこれ①
ザルツブルグ時代

(『アマデウス モーツァルト点描』ハーバート・クッファーバーグ著から抜粋
2010年頃にノートにとって勉強した)

🔵モーツァルトの父親

父親のレオポルト・モーツァルトは、ヴァイオリン奏者で、奏法の本も残している。
『ヴァイオリン奏法』と題された本で、今日でも読まれている。1756年の出版。

レオポルトはオケの一奏者以上の地位にはなれず、ザルツブルグの宮廷楽団で副楽長までは出世した。

彼は若い頃から作曲し、多数の曲を書いたが、今日ではほぼ演奏されない。

レオポルトは、息子にお説教を垂れる事が多かった。

頭の下げ方を知りすぎるほど知っているタイプで、息子を売り込んだが失敗し挫折した。

レオポルト・モーツァルトは1719年11月14日に、製本師の父の下に生まれた。
(亥年 +23で天王星人、0学占術)

イエスズ派の神学校で、神学と音楽を学ぶ。
ザルツブルク大学に入り神父を目指すが、勉強をサボリ始めて退学に。

ザルツブルクの楽団でヴァイオリン奏者になり、そこで死ぬまで働くことに。

1747年、28才の時に1歳下のアンナ・マリア・ペルトルと結婚。
アンナは4歳の時に父を亡くし、母と暮らしていた。

2人間には7人の子供が生まれたが、2人しか長生きしなかった。
その2人は、2番目の子のマリア・アンナ(ナンネルと呼ばれる)と、7番目のヴォルフガング・アマデウスである。

🔵モーツァルトの少年期

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日に生まれた。
(子年 +33で水星人の霊合、0学占術)

彼の幼少期は、神童がすごくもてはやされていた。
彼も神童で、4歳で作曲を始めて、ヴァイオリンとクラヴィアの演奏を始めた。本能でかなりな所まで演奏できた。

後にロンドンに行った時、学者たちに調査されており、「神童中の神童」と結論されている。

6歳の時に、父、姉と共に演奏旅行した。
父が旅程や宿の予約など、全ての事を手配した。移動は馬車である。

1763年に母も加えての大旅行に出た。

モーツァルトの一家は、1764年4月〜65年7月はロンドンに滞在した。
当時の君主はジョージ3世である。

ここでモーツァルトは初の合唱曲を作曲した。

また大バッハの末子であるクリスティアン・バッハと知り合い、大いに学んだ。

ロンドンでは、貴族の主催ではない「公開演奏会」というスタイルがすでに生まれていた。
これは1672年頃にジョン・バニスターが始めた。

ロンドンの後は、オランダ、スイス、フランス、ドイツと旅して帰国した。

モーツァルトは6~10歳の間、旅をして過ごした。

このため学校にはいかず、全てを父から教えてもらった。
学科では、特に数学が好きだった。

父が同年代の子供との付き合いを禁じたため、姉ナンネルとしか遊べなかった。

ナンネルは1751年生まれで、クラヴィーアの演奏はモーツァルトと同等の腕だった。
1769年の旅行からは同行しなかった。

彼女は作曲もしたが、現在に伝わってない。
美人で長身のためもてた。

1784年に32歳で結婚した。相手は47歳のバツ2で、地方管理官だった。

1801年に夫が死亡。その後はピアノを教えて生計を立てた。
1829年に78歳で死去した。

この時代は、音楽家の中心はイタリアだった。
ウィーンで活躍する作曲家のほとんどはイタリア人で、歌手もそうだった。

モーツァルトは1769年12月~71年3月まで、イタリア各地を父と旅行した。

その間、70年3月15日に宿屋で初の弦楽四重奏曲を作曲した。

彼は、システィーナ礼拝堂でのみ演奏される秘曲ミゼレーレ(アレグリ 1582~1652の作曲) を聞いたが、耳コピーで筆写してしまった。

ボローニャでは、司祭のマルティー二師(偉大な音楽教師)から対位法と理論を学んだ。この師とはこの後も関係が続いた。

余談だが、イタリアでは現在までモーツァルトのオペラはあまり受けず評価されていない。

1956年はモーツァルト生誕200年だったが、イタリアは公式に祝わなかったヨーロッパのごく少数の国の1つである。

モーツァルトが16歳の時、ミラノ大公は彼を雇おうとした。
ところが母の女帝マリア・テレジアが、「乞食のように放浪している人間を認めるわけにいかない」と言って却下した。

モーツァルト一家が暮らすザルツブルグは、人口は1万人で、プロテスタントは全員追放されていた。

宮廷の楽団は総勢100人ほどで、指揮者にはミヒャエル・ハイドン(ハイドンの弟)がいた。

ミヒャエルは作曲もして、多作家だった。
ザルツブルグを愛し、他の都市からの誘いを断わり続けて1806年に死去した。

ザルツブルグ地方は大司教によって統治されており、シュラッテンバッハが大司教だった。
シュラッテンバッハはモーツァルトを厚遇し、彼と父が何回も外国旅行するのを許可してくれた。

シュラッテンバッハが1971年に他界すると、後任にコロレード伯が就いた。

コロレードは保守的で、音楽家は召使い同然であるという、それまでの貴族の考えを捨てなかった。

また一般にパプスブルク家の人間がそうだったように、イタリア人の音楽家を好んだ。
このためレオポルトを楽団長にせず、ナポリ人を楽団長に任命した。

コロレードは、16歳のモーツァルトをコンサートマスターとして年棒150グルデンで雇った。

モーツァルトはザルツブルグを出るため各地に赴き就職運動をしたが、容姿が悪く、その音楽が慣例的な型に従わないものなので、駄目だった。
かつての神童を雇う所はなかった。

当時のモーツァルトは趣味にのめりこむ事は全くなかった。
モーツァルト一家の気晴らしは空気銃での的当てだった。

彼は1777年、21歳の時に職を辞して、パリへ就職運動に行くが、失敗に終わる。

🔵容姿・性格

モーツァルトは、「突然に我々の前に現れたら誰だか識別できないと思われる唯一の大作曲家」と言われている。

友人たちも、「はっきりした特徴のない顔」と評価している。

小柄で、顔に天然痘のあとが少しあり、鼻は大きい方だった。

最大の特徴はきれいな明るい色のもじゃもじゃした頭髪で、ひんぱんに手入れをさせて自慢にしていた。

声はテノール。

子供の頃の魅力にあふれた容貌だったが、成人するにつれて平凡になった。

成人後は顔が青白く、風采の点でいばれるものは全くなかったと、姉ナンネルは証言している。

皆のもつ印象は、彼の野心、明るい会話、ユーモア、そして演奏中の輝きだった。

彼の肖像画は9枚現存している。

21歳の時の、右手をチョッキに突込んだものが、家族が「完全に生き写し」と言っており一番似ていると思われる。

モーツァルトは成長するにつれて、音楽の理解が自分より劣る人間を見るとイライラする(ほとんど無礼に近いほど) という傾向を強めていった。

彼は出世のために頭を下げたり、おべっかを使う気になれない人だった。

成人後は人に教えるのを嫌っていたが、30歳の時に8歳のフンメル(有名なピアニスト、作曲家になった人)が父に連れられ来ると、その才能を見抜き、2年も同居させて教えた。
部屋代などは全てモーツァルトが出している。

モーツァルト一家は、手紙の中で下品でみだらな表現を多用している。
彼らの住むザルツブルグの町の人は、下卑た言葉を話すので評判だった。

彼は成人後にザルツブルクを離れる時、ザルツブルクの町とその大司教に対し「両方にクソをたれてやる」と言って町を去っている。

モーツァルトの下品さは、レオポルトの弟でアウクスブルクで製本業をしていたフランツの娘マリア・アンナ・テークラとの文通で、多く表現されている。

二人は子供の頃からの知り合いで、文通は彼が21歳、テークラが19歳の時に始まり、ときどき互いに訪問もしていた。

この2人は肉体関係を疑われているが、彼は父に「自分は結婚まで童貞だ」と言っていて、童貞でなかったという証拠はいまだに出ていない。

彼はテークラをベースレ(いとこちゃん)と愛称していた。

テークラは結婚はしなかったが、村の郵便局長の愛人となり女の子を1人生んだ。
陽気で不足のない生活を送ったらしく、80歳で亡くなった。

モーツァルトの手紙の下品さはヴィクトリア朝時代はタブーとされ、一般には知らされなかった。1938年に手紙の英語訳が出てから、広く知られるように。

彼の声学曲にはいくつか猥褻な歌詞のものがあり、友人たちのために作曲された。

🔵青年期

モーツァルトは、女性の好みは若いソプラノ歌手に特に惹かれた。

初めての本当の恋は、21歳で母とパリに行く途中にマンハイムにてアロイジアに対してだった。

マンハイムは人口2.5万人の町で、ヨーロッパ最高クラスのオーケストラがいた。

彼と母は1977年10月30日から4ヵ月すごし、バイエルン選帝侯カール・テオドールから永久的なポストをもらおうと就職活動した。しかし失敗に終わった。

アロイジア・ヴェーバーは、4人姉妹の次女で、父は歌手、写譜家をしており、母は部屋貸しをしていた。

なおアロイジアの父の弟は、有名な作曲家ヴェーバー(1786年生まれ)の父親である。

アロイジアは当時16歳でソプラノ歌手をめざしていた。モーツァルトは彼女のため作曲し、レッスンをした。

モーツァルトはマイハイムに留まろうとしたが、父がパリ行きを命じたので、パリに出発した。

彼は半年後、パリでうまくいかずザルツブルグに帰る途中で、ミュンヘンにてアロイジアに再会した。

アロイジアはこの時、オペラ劇場で歌手としてデビューし成功していた。

アロイジアは彼に「付き合えない」と言い、彼の恋は終わった。

モーツァルトはザルツブルグに戻ると、父レオポルトの斡旋でオルガン奏者として復職した。
年棒450グルデンで雇われて、2年間勤めた。

だがコロレード大司教と上手くいかず虐められるので、彼はついに辞表を出した。

彼は25歳のときにザルツブルグを出るが、それまでに350以上の作曲をしていた。

彼は努力家で、一生を通じて作曲技能を絶えず伸ばしていった。

彼の曲は、パリ旅行時代から不滅性が次第に感じられるようになる。

彼の成熟したオペラ作品の最初のものは「イドメネオ」 である。
24歳のときの作品で、バイエルン侯カール・テオドールが発注した。
大成功した作品だが、その後はほとんど上演されなかった。

(2025年4月16~17日に作成)


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