(『アマデウス モーツァルト点描』ハーバート・クッファーバーグ著から抜粋
2010年頃にノートにとって勉強した)
🔵ウィーン時代
1781年に25歳のモーツァルトは、故郷のザルツブルグを出て、ウィーンに移住した。
ウィーンは神聖ローマ帝国の政治の首都で、西ヨーロッパ音楽の首都でもあった。
ウィーンは当時、音楽のるつぼで様々な音楽があった。
しかしこの都は、政治的にはモーツァルトが来た頃はもう落ち目になってきていた。
君主のマリア・テレジアが息子のヨーゼフ2世と共に統治していたが、1780年に63才で死去し、その後はヨーゼフ2世が継いでいた。
ヨーゼフ2世は、モーツァルトにオペラを発注した。
モーツァルトは「後宮からの誘拐」を作り、大当たりした。ヒット作として彼の存命中に最も上演される作品となった。
だが当時は著作権がなかったので、どれだけ上演されても彼の収入にはならなかった。
モーツァルトは宮廷には就職できず、ピアニストとして活動した。
弟子もとったが、教える事にあまり興味はなかった。
ウィーンでの彼は、朝6時に起床し、昼はどこかの貴族の家で昼食してピアノを少し弾いた。
夜は演奏会か、演奏会がない時は作曲をした。
これが普段の生活である。
たまに自作オペラ上演の関連で、各地に旅行した。
ウィーンでは、多数の音楽家が安定した生活をしていたが 彼は不安定な生活を続けた。
ピアニストとして色々な所で演奏したが、エージェントやマネージャーのいない時代なので全ての準備を一人でやっていた。
マルティンという興業主と知り合うと、彼に任せるようになった。
リサイタルの予約会員を募ったが、当時このような事はほぼ誰もしてなかった。
貴族の者が150人以上、会員となった。
他に自宅で定期的に日曜の朝に演奏会を開いた。そして入場料をとった。
彼は名人芸に全く興味を示さず、「本当の演奏は、難しい楽節を聴衆が難しさに気付かないように弾く事だ」と言っていた。
ウィーンで演奏家としてもて囃されたのは最初の4~5年で、32才頃になるとほとんど演奏会に出なくなった。(演奏会を開いても客がこなくなった)
だが彼は、他の町に移るよう誘われてもウィーンを離れなかった。
死ぬ少し前、1790~91年に彼はバッハの音楽を知った。
🔵結婚
モーツァルトは、1782年8月4日に、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚した。
モーツァルトが26歳、コンスタンツェは19歳だった。
結婚する前に、ヴェーバーの一家はウィーンに移住してきていた。
ちなみにコンスタンツェの姉は、かつてモーツァルトが恋したアロイジアである。
ヴェーバー家は、母のマリア・ツェツィーリアが主導しており、ウィーンで下宿人をとって暮らしていた。なお父は少し前に死去していた。
モーツァルトも勧められて下宿し、そこから結婚に至った。
モーツァルトの父レオポルトは、ヴェーバー家を嫌っていて、猛烈に結婚に反対した。
モーツァルトの女弟子のヨーゼファ・アウエルンハンマーは、彼に惚れていたのだが、デブで不器量なヨーゼファを彼は拒絶した。
ヨーゼファは、コンサート・ピアニストとして成功をおさめた。
コンスタンツェは1783年6月から91年7月にかけて、6人の子供を産んだ。
しかし長子は2ヵ月で死に、3番目は1ヵ月、4番目は6ヵ月、5番目は1時間と、短命が多かった。
1784年に生まれたカール・トーマスは、演奏家を目指したがなれず、役人をして1858年に72才で死去した。
91年生まれのフランツ・クサヴァーは、作曲家のサリエリ他に学び、音楽家として身を立てた。
モーツァルト2世と称して活動し、53才で死去した。
コンスタンツェは6回の妊娠・出産で体が弱り、近くの温泉地バーデンに出かけて保養するようになった。
モーツァルトは結婚生活中、妻以外とは一度も寝たことがないようである。
カトリック教徒だったためか。
妻コンスタンツェは、債務や家事を取りしきることを一度もちゃんとしなかったが、夫の死後に変わった。
夫の死後、夫の曲の演奏会を開き、姉のアロイジアと出演した。
他にもベートーベンを出演させて、ピアノ協奏曲を弾かせた事もある。
コンスタンツェは部屋貸しもして生活費を稼ぎ、1797年にデンマーク公使館員のニッセンが下宿し、それが縁で12年後に彼と再婚した。
再婚後はニッセンと共に、モーツァルトの作品の整理、目録の作成をした。
ニッセンとの生活でコンスタンツェは健康で堅実な人間に変わった。
ニッセンはモーツァルトの伝記も書いた。
1820年にコンスタンツェとニッセンはザルツブルグに移住した。
モーツァルトの姉ナンネルも同町に戻ってきて隣人になったが、昔と同様にコンスタンツェとの仲は悪かった。
コンスタンツェは1842年に79才で死去した。
🔵モーツァルトの金銭感覚
モーツァルトは、カネを稼ぐ才覚に欠けていた。
自分の才能を現金化する能力に全く欠けていた。
きわめて気前のいい所があったため、他人がそれにつけこむのは容易かった。
彼の稼ぎは基本的に多かったが、支出の方が常に上回っていた。
ウィーンに住んで最初の数年間は、演奏会でたくさん稼いでいた。
オペラ1作品の作曲料はだいたい450グルデンで、1年間の家賃にほぼ等しかった。
彼が最も稼いだ数年間は、合計で1万グルデンの収入だと推定されるが、相当な大金である。
それなのに借金生活なので、飲酒やギャンブルにはまったとの説も出たが、その証拠はない。
なお1784年から1年だけは、出納簿をつけている。
彼もコンスタンツェも節約や貯蓄に関心がなく、贅沢をしていた。
さらに家賃の高い住宅区に住んでいた。
収入に応じて住居をひんぱんに変えた。
彼の家計は1786年以降ひどく悪化した。
それは演奏会に出なくなっただけでなく、作曲に没頭したためもあった。
友人たちから借金しまくったが、妻には伝えなかった。
1787年12月に作曲家グルックの死去により、ヨーゼフ2世は後任にモーツァルトを任命した。彼は宮廷作曲家となった。
年棒は800グルデンだった。
🔵理解者ハイドン
作曲家ハイドンは、モーツァルトの23歳年長で、2人は1781年にウィーンで出会った。
モーツァルトは他の音楽家に対して厳しい評価をする人だが、ハイドンを誰よりも優れているとすぐに認めた。
ハイドンの方もすぐにモーツァルトの凄さを認めた。
ハイドンは、エステルハージ家に仕えていた。
エステルハージ公に付きそって1784~85年はウィーンですごし、モーツァルトと交流を深めた。
モーツァルトは6つの弦楽四重奏曲のセットをハイドンに献呈した。
二人はひんぱんに室内楽で共演した。
モーツァルトはハイドンの弦楽四重奏曲を研究し、力強く緊密な構成を学び取り入れた。
ハイドンもモーツァルトの木管楽器の扱い方を学んだ。
1785年初めにレオポルト(モーツァルトの父)はウィーンを訪ねたが、ハイドンからこう言われた。
「誠実な人間として神の御前で誓って申し上げますが、ご子息は名実ともに私が存じている最高の作曲家です。
ご子息には様式感があり、作曲について申し分ない知識をお持ちです。」
レオポルトは心から喜んだ。
ハイドンはモーツァルトが作曲の依頼を受けられるよう常に助けて、「私はモーツァルトがいまだに皇帝や国王の宮廷に召し抱えられないことに怒りを覚えます」と言っていた。
ハイドンがイギリス行きを決めた時、モーツァルトは反対した。
1790年12月15日にハイドンは旅立つが、前日にモーツァルトと共にすごしている。二人は涙ながらに別れた。
モーツァルトの死後、ハイドンは「モーツァルトの息子カール・トーマスが成人したら、私が作曲を教えましょう」と申し入れ、こう話した。
「友人たちは私を天才だと言って褒めます。
しかしモーツァルトは私よりはるか上に立っていました。」
🔵モーツァルトの好みと人脈
モーツァルトは9歳の時に1年だけイギリスで過ごしたが、一生を通じてイギリス人の考え方を愛していた。
彼の最も早い友人は、イタリアに旅した時フィレンツェで出会った13才のイギリス少年トマス・リンリである。
彼は「リンリは真の天才で、もし生きていたら最高の人物の一人になっていた」と語っている。
彼はウィーンでも多くのイギリス人と交際した。
アイルランド人のケリーはモーツァルトの回想録を書いているが、もっとも参考になる記録の一つだ。
モーツァルトはイギリス行きを考え、子供をレオポルトにあずかってもらおうとしたが、レオポルトが猛烈に反対したので断念した。
モーツァルトのオペラ「ドンジョバンニ」は、イギリスでは1817年4月20日に初演されたが、大受けしてイギリス芸術に大影響を与えた。
19世紀の間、彼のオペラはほとんど忘れられていたが、20世紀に入ってトマス・ビーチャムや、ジョン・クリスティのグラインドボーン・オペラが取り上げたことで、見直されて注目された。
ダ・ポンテは、ユダヤ教徒の脚本家で、モーツァルトと組んで傑作を残した人である。
ダ・ポンテは1749年3月10日にヴェネツィアの近くで生まれ、出世するため聖職者をめざしてチェネダ神学校に入り勉強した。
24才で司祭になったが、結婚している女性と同棲したかどで告発され、ウィーンに逃亡・移住した。
ヨーゼフ2世に気に入られて宮廷詩人になり、作曲家のサリエリらに台本を提供した。
モーツァルトは、オペラを作曲するさい台本の選択に非常に注意を払い、父に「少なくとも百本以上の台本に目を通したが、満足のいくものは1つとしてなかった」と言っているほど。
ダ・ポンテと知り合うと、フィガロ、ドンジョバンニ、 コシ・ファン・トゥッテという、イタリア語の三つのオペラを作った。
ウィーンには、かなりの数のユダヤ教徒が暮らしていて、ほとんどがキリスト教徒に(表向きは)改宗していた。
当時は反ユダヤ主義が支配的で、一部のユダヤ教徒のみ豊かになっていた。
モーツァルトは偏見なくユダヤ教徒と仲良くし、彼のリサイタルの予約会員リストにはたくさんのユダヤ教徒がいた。
ユダヤ教徒のライムント・フォン・ヴェッツラル男爵は、モーツァルトの親しい忠実な後援者で、モーツァルト夫妻を自宅に住まわせて家質をとらなかった。
モーツァルトは長男の名付け親をヴェッツラルにして、ライムントの名をつけた。
モーツァルトがウィーンで知り合ったユダヤ教徒のほとんどが、フリーメーソンの分団員だった。
彼は生涯カトリックだったが、フリーメーソンに加入し、フリーメーソンの啓蒙主義運動や探求的かつ合理的姿勢に惹かれていた。
彼は熱心なカトリックだったが、聖職者にほとんど敬意を払わなかった。
フリーメーソンは、スペイン、イタリアでは禁止されており、オーストリアでもマリア・テレジアは禁じたが、その死後にヨーゼフ2世が禁を解いた。
モーツァルトは1784年12月14日に、フリーメーソンの分団に入団した。
すでに友人の多数が入っていて、この後レオポルトやハイドンにも勧めて入団させた。
彼は会合に出席し、儀式にも参加し、メーソンの理想を歌う音楽を多数書いた。
彼の作曲した「魔笛」にはメーソン主義が強く反映されている。
メーソンで彼は高位にあり、そのためキリスト教会から嫌われていた。
メーソン団員はウィーンの一般人よりはるかに彼の音楽に理解を示し、死後も盛大な追悼式を行なった。
(2025年4月17日に作成)