タイトル作曲家モーツァルトのあれこれ③
作曲の仕方、死因など

(『アマデウス モーツァルト点描』ハーバート・クッファーバーグ著から抜粋
2010年頃にノートにとって勉強した)

🔵作曲のやり方

モーツァルトは600以上の曲を残し、他にも散逸してしまった曲を書いている。

彼は作曲が速かった。
一つの曲のアイディアが出ると書き上げるまで休まない事もあったが、一方で依頼された曲を怠けて引き延ばすこともあった。

妻のコンスタンツェは、「生まれた楽想をピアノで試奏することさえしないのが普通で、手紙を書くのと同じように作曲していた」と証言している。

モーツァルト自身は、「よく即興でフーガを弾くが、しつこく頼まれた時だけ五線紙に書く」と姉に言っていた。

彼は一度書き上げると、めったに修正しなかった。

書き始めて廃棄した楽章の断片が数多く残っている。

彼は徹底したプロの作曲家で、注文に応じて、条件、演奏家、聴衆の好みを考えながら書いた。

また、アーティストの能力に合わせて作曲していた。
父に手紙で、「上手に仕立てられた服と同じように、歌手に完全に合ったアリアが好きです」と言っている。

彼が評価した演奏者の多くは女性で、父レオポルトも 「一般的にみて才能ある女性は男性よりも表情豊かに演奏する」と言っている。

彼は新奇な楽器のためにも作曲し、自動オルガン、グラスハーモニカのための曲もある。

彼は音楽の玄人と素人の両方が楽しめるように気をくばった。

「それほど音楽の知識のない人たちも、なぜか分からないにしても必ず満足できる様に書いている」と述べている。

彼はピアノ協奏曲14番からは自身の作品目録を作成しているが、データ不足であり、相当数の作品が日付、場所などがはっきりしない。

1784年に父に対し、「ピアノと木管楽器のための五重奏曲(K452)が、私の最高の作品です」と言っている。

彼の作曲では、4音のモチーフ(C-D-F-Eの順)が多用されている。

彼は同じ様式で作曲し続けることはなく、周囲の芸術の流れに敏感だった。
そして絶えず発展していた。

バッハの音楽に出会った後は、新しい対位法的テクスチュアがはっきりとうかがわれる。

🔵病気と死因

モーツァルトとその姉は、そろってかなり強健な身体だが、ミルクよりも砂糖水で育てられた。
この育児法は当時かなり一般的だった。

彼は子供時代の楽旅でたくさんの病気にかかったが死ななかった。
薬は常に黒い粉薬だった。

28才の時に、腎不全で一週間けいれんと吐き気に苦しみ、医者にかかっている。

1790年の中頃から、頭痛、歯痛に苦しみ、仕事においても演奏会の予約会員にゴットフリート1人しか名乗りを上げないという苦境になった。

91年5月に、劇団の支配人シカネーダーがオペラ「魔笛」を依頼した。

同年7月、名を明かさない依頼人が「ミサ曲(レクイエム)」を依頼した。

さらにプラハの旧友たちが、オペラ「皇帝ティトの慈悲」を依頼した。
これを彼と弟子のジュスマイヤーは18日間で作り上げた。

レクイエムの注文をした男は、しきりとやってきては仕上がり具合を聞き催促した。

依頼主が分からなかったため、モーツァルトは自らの死の音楽を作るのを頼まれているという考えに取り憑かれた。

実際にはこの催促男はシュトゥパハ伯爵の執事で、伯爵は高名な作曲家に依頼し、自らの手で写譜して領地内での演奏会で自作として発表する妙な癖があった。

モーツァルトはレクイエムの依頼を苦にしつつ世を去った。

彼の死因は、当時は栗粒疹熱とされた。発疹が症候の中にあったためだ。

実際の所、医師たちは死因をつかめなかった。

今日一般に受け入れられている診断は、慢性の腎臓疾患に続く尿毒素である。
無茶で苛酷なペースの仕事が原因とされている。

彼は死ぬまでレクイエムの仕事を続け、弟子・補助者のジュスマイヤーに自分の考えを詳しく伝えた。

死の前日に彼の部屋で、レクイエムの非公式なリハーサルが行なわれ、友人の3人と共に歌った。

ラクリモーサの所にくると、彼は泣きくずれたため先に進めなくなった。

その日の夕方に意識不明になり、その晩、翌日に入ったAM12:55に世を去った。1791年12月5日のことである。35歳10ヵ月での逝去だった。

🔵毒殺説

モーツァルトの死と同時に、殺されたとの噂が流れ始めた。
彼の体が死後に腫れ上がったためである。

以来、毒殺者が誰なのかについて様々な説が立てられたが、一番有力とされたのが サリエリである。

サリエリは、モーツァルトより5才年上で、多産な作曲家だった。
ヨーゼフ2世の宮廷作曲家で、当時最も名を知られた音楽家の一人だった。

サリエリは、ウィーンの音楽界を半世紀以上も牛耳った、完全な政治家だった。
また陰謀家としても評判だった。

サリエリは1750年8月19日に、裕福な商人の子として、イタリアのヴェローナ近くで生まれた。1825年に死去している。

彼はヴェネツィアで、オペラ作曲家のガスマンに師事した。

ガスマンはウィーンの宮廷作曲家になり、1774年に死んだが、24才の若さでサリエリが後を継いで宮廷作曲家となった。

それからのサリエリは、ウィーン音楽界を支配した。
彼はハイドン、ベートーヴェン、シューベルトらと仲良く付き合った。

シューベルトは、サリエリの献身的な弟子になっている。

ところがサリエリとモーツァルトは最初からうまくいかなかった。
お互いをライバル視していたようだ。

サリエリがモーツァルトに嫉妬していたとの説がある。
しかしモーツァルトの天才を見抜ける鋭い感覚の持ち主だったという事実を示すものはほとんどない。

さらに言えばサリエリは成功していて、モーツァルトを恐れる必要はなかった。
サリエリはグルックの後継者と目されていて、宮廷での優位はゆるがなかった。

モーツァルトの最後の手紙では、サリエリがオペラ「魔笛」を観劇し高く評価した事を書いている。

ちなみにサリエリのオペラは、各地で熱狂的に受けており、彼の葬儀はウィーン全市民が参加するほどだった。

モーツァルトの息子のフランツクサヴァーは、サリエリに弟子入りした。

フランツクサヴァーは、「父の一生をサリエリはその陰謀で毒殺したも同然で、この事でいつも良心を苦しめていたと思う」と証言している。

余談だが、ナチス・ドイツはフリーメーソンを禁止し、「モーツァルトを毒殺したのはフリーメーソン=ユダヤ人だ」と主張していた。

🔵葬儀と会葬者

長い間モーツァルトの葬儀は、友人と親戚で行ったが遺骸が入れられる貧民用の墓まで嵐の中を付いて送る者は誰一人としていなかった、他人と一緒の墓穴に埋葬された、との伝説が信じられていた。

この説は、最近の研究により否定または修正されている。

モーツァルトは、教会の過去帳に記された1791年12月6日に埋葬されたと思われてきた。

だが葬儀に参加したヨーゼフ・ダイナーの回想録に12月7日と記されていて、当時のウィーンの法律でも死から埋葬まで48時間置く規定があったため、12月7日が現在では有力視されている。

天候についても嵐とされてきたが、当日に雨は降らず、雪もなかったことが判明した。だが風はとても強かった。

モーツァルトの葬儀は、最低料金による三等級のもので、おざなりではなかったが最小限のものだった。

又、当時のウィーンでは他人の遺体と一緒に埋葬するのは普通で、80%が三等級だとわかった。

だがモーツァルトは80%に属する人物ではなく、宮廷作曲家であり、神童時代以来の名士だったから、もっとちゃんとした葬儀が当然だった。

妻のコンスタンツェは葬儀の手配をしなかった。
彼女は動転し、狂乱状態にあった。

葬儀を手配したのはヴァン・スヴィーテンで、音楽の大好きな男爵だった。
彼はベートーヴェンの支援などもしていた。

スヴィーテンはコンスタンツェのために経費を節約しようと努力した。
さらに彼は、前日に皇帝から宮廷学術委員長のポストをクビにされ、それがショックだったらしい。

コンスタンツェの妹ゾフィーの証言では、12月5日(亡くなった日)は人々が群をなして家の前を通り、死を泣き悲しんだとの事。

しかし葬儀にはほとんど人が来ず、墓地まで同行した人は皆無だった。

教会での式には、サリエリ、スヴィーテン、ジュスマイヤー、ダイナーらが参加していた。

コンスタンツェは夫の死後1週間以内に、年金を皇帝に請願するほど落ち着きを取り戻したが、彼の記念碑は建てなかった。

またコンスタンツェは、レクイエムを完成させて依頼人に渡し金をもらうため、ジュスマイヤーに仕上げを頼んだ。

モーツァルトを天才と評価していたプラハでは、12月14日に追悼コンサートが開かれ、5千人が来た。

彼の死の直後から魔笛が大きく評価され始め、ヨーロッパ中で、特にドイツで大ヒットした。

🔵作品目録の作成

モーツァルトは600を越える作曲を残したが、生前に出版されたのはわずか144曲だった。

妻コンスタンツェは夫の死後、膨大な草稿の所有者となった。

コンスタンツェは夫の死後、数年間は何曲か売り渡す以外なにもしなかったが、やがて作品の整理のためにシュタードラーに助力を求めた。

この頃になると、後に夫になるニッセンとすでに同棲していた。

かつてモーツァルトの父親レオポルトは、息子がオペラ「みてくれのばか娘(1768年)」の本当の作曲者でないという話に動転し、息子がそれまでに書いていた作品を記録した。
これが後の目録作成に役立った。

モーツァルト自身も、1784年2月9日から自作品の目録を書き始め、死ぬ前まで続けた。

ただし時々は日付の誤まりがあり、約20曲が抜けている。

本人も父親もリストに入れなかった280曲の作品があった。
断片的な曲もいくつかあり、シュタードラーは何曲かに手を加えて仕上げようと図った。

完成した目録は1875年にようやく完全版が買い上げられた。

モーツァルトの親友だったハイドンは、青年アンドレにモーツァルトの遺稿について話した。
アンドレはコンスタンツェから遺稿全部を3150グルデンで購入し、一部は出版したがそれ以外は保護した。

アンドレは死ぬ前に公共機関に売ろうとしたが、購入を申し出る機関がなく、相続人で遺稿を分配した。

1873年にプロイセン国立図書館が、アンドレの家族が持つスコアを買い取った。

若干のスコアは他人の手に渡っていたが、大半は完全な形で保存されていた。
アンドレの見識と粘り強さのおかげである。

モーツァルトの作品に番号付けをしたのは、ケッヘルである。

ケッヘルは植物学者で、1850年頃に番号付けに着手した。

彼は作品を厳密に年代順に配列したが、それまでは全く成されていなかった。

断片的作品や疑問のある作品は、追加項目に含ませた。

ケッヘルの目録は、多数の変更があり、新たに発見された作品の追加もあったが、K番号は今でも使用されている。
K1の5才の時の作品から、K626のレクイエムまで基本は変わっていない。

1947年にアルフレート・アインシュタインにより改訂版が出され、その後の版の基本になった。

🔵ロマン派への影響

モーツァルトの後の世代では、現代音楽はベートーヴェンを意味する事になった。

モーツァルトは1787年にベートーヴェンに出会い、「この青年はいつか世間で名を上げるだろう」と言ったと伝えられている。

ベートーヴェンによって交響曲とオペラは違った道を歩み始め、作曲家は一般的にそのいずれかに専念するようになった。

ロマン主義の音楽家は、モーツァルトの作品のうち少数にしか注目しなかった。

モーツァルトを敬愛したメンデルスゾーンでさえ、ひと握りの作品しか演奏しなかった。
(ピアノ協奏曲20番、交響曲40番、二台のピアノのための協奏曲、ドン・ジョヴァンニなど)

ブラームスは、「モーツァルトの協奏曲のような最高の作品が、理解も尊敬もされないおかげで、我々のような人間が有名になれるのだ」と言っている。

だがロマン主義者たちはドン・ジョヴァンニを英雄的人物と評し、多くのそれを真似た物語、詩などが生まれた。
E・T・A・ホフマンのドン・ファンは特に有名である。

🔵バーナード・ショウの論評

バーナード・ショウは、1890年代にワーグナーの音楽を擁護した事で有名になったが、モーツァルトの作品を一般に知らせる努力もした。

ショウは批評を主に、ロンドンの新聞と、「スターと世界」の2つに書いていた。
彼はブラームスを絶えず貶していた。

ショウは、イギリスでのモーツァルト作品の演奏法を痛烈に批判した。

又、当時に流行していたモーツァルトを一種の自然児とする見方を、否定した。

ショウはモーツァルト評論でこう書いている。

「彼はプラクシテレス、ラファエル、モリエール、シェイクスピアと同様に、新しい出発の指揮者でもなければ、一派の創始者でもなかった。

彼は始まりではなく、終わりに現れたのであり、全く新しい特質があるわけではない。

芸術における最高の成功は、レースの最後を走ることであって、トップを切ることではない。

難しいのは結末をつけること、改善可能なことをやってのけることである。」

ショウの劇作にはモーツァルトの影響が多くみられ、ドン・ジョヴァンニを真似た「人と超人」に顕著である。

ちなみにアメリカではモーツァルトの作品は長い間ほとんど無視され、ベートーヴェンに人気があった。

アメリカでの演奏頻度では、1890~95年はモーツァルトは10位だった。
それが1965~70年にはベートーヴェン、ブラームスに次ぐ3位に上がった。

ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命してきたミュージシャンが演奏したことが、モーツァルト人気上昇の一因だった。

(2025年5月1日に作成)


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