タイトルレッド・ツェッペリンの誕生まで①
各メンバーの若き頃

(『レッド・ツェッペリン 天国への階段』
リッチー・ヨーク著から2010年頃にノートにとり勉強)

※著者のリッチー・ヨークは、レッドツェッペリンの活動当時に仲良くし信頼されていたジャーナリストである。

🔵ジョン・ボーナム(ドラム)

1948年5月31日に英国のウスターシアに生まれた。
長男で、3歳の弟と14歳下の妹がいる。

5歳位でドラマーになりたいと思った。
物を叩くのが好きで、10歳の時にスネアドラムを買ってもらう。

14~15歳で、近所に住むロバート・プラントと知り合う。

15歳の時に父に中古のドラムセットを買ってもらった。

1964年、16歳で初めてのバンド、テリーウェッブ&ザ・スパイダーズに加入。

17歳パットと結婚。1年以内に知り合った女性。
ア・ウェイ・オブ・ライフに加入直後のことだった。

当時はトレイラーの運転で金を稼いでいた。

ケンカが好きで、自分からは仕掛けないが売られれば買った。

17歳で、ロバート・プラントのいるバンド、クローリング・キング・ スネイクスに加入。

再びア・ウェイ・オブ・ライフに加入。

ボーナムのドラムは、音がでかくパワーが凄くて徐々に有名に。
音がでかすぎるため出られないクラブもあった。
自分らしい音を追求した。

ボーナムは言う。

「特定の誰かに影響されたとは思わない。
プレイを始めた頃に一番印象的だったのは、初期のソウルのレコードだ。

シンバルはあまり使いたくない。ドラムの方が好きだ。

ジーン・クルーパは、初めて表(前面)に出たビックバンドのドラマーだ。
同じ事をジンジャー・ベイカーはロックのフィールドでやってのけたんだ。

ジンジャーのピークは、グレアムボンド・オーガニゼイションの頃だ。
彼のプレイにはジャズの影響があった。
残念ながら人間的にはマトモとは言えなかったがね。絶対に他人に心を許そうとしないのさ。でも彼はあの分野の大スターだった。」

再びプラントと組み、バンド・オブ・ジョイというバンド名で活動。

1968年にティム・ローズの前座でイギリスをツアーしたが、その後にバンドは解散した。

ティム・ローズは再びツアーをしたが、ボーナムは誘われてドラマーとして参加。

🔵ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)

1946年1月3日に英国ケント州で生まれた。一人っ子。

両親共に芸能人で、父はジャズ・ピアニスト。

14歳でベースを始め、父のアドバイスで譜面の読み書きを学ぶ。

17歳になってすぐにジェットハリスとトニーミーハンのバンドのオーディションに受かり、解散するまで1年ほどツアーに出る。

トニーミーハンの紹介で、セッション・ベーシストとしても活動を始める。

ちなみにハリス=ミーハンのバンドは、ギターはジョン・マクラフリンで、サックスはグレン・ヒューズだった。

ミーハンは言う。

「当時は観客は皆ただ踊りたいだけで、音楽は聴くものじゃなかったんだ。

ジョン・ポールは読書家で、じっくり考えるタイプで頭が切れた。」

セッションの仕事が増え、18歳(1964年)の時に自己名義のレコードを作った。
6弦ベースで演奏した。

キーボードも始めた。

ジョン・ポール・ジョーンズの話

「ベーシストとしては、ほとんど誰の影響も受けてない。
当時はレコードをかけてもベースはまともに聞こえなかったから。

ただしジャズベースの名手たちは、そのほとんどが僕に何らかの影響をおよぼしているんじゃないかな。
チャールズ・ミンガス、レイ・ブラウン、スコット・ラファロとかね。

白状しょう。僕が本気でロックベースに興味を持ったのは、フィル・アップチャーチの『ユー・キャント・シット・ダウン』がきっかけなんだ。
驚異的なベースソロだったし、レコードとしても良かった。

米国のモータウンはベーシストの楽園だよ。ジェイムズ・ジェマーソンなんて最高のプレイヤーもいたし。
あそこではベースをはっきり聞こえるよう録音できたんだ。
ベーシスト用のコンチェルトじゃないかと思えるレコードもあるぐらいだ。

スティービー・ワンダーの『愛するあの娘に』を聞いたときの事は一生忘れない。
あのベースは何といったらいいのか。」

米国デトロイト生まれのモータウン・サウンドは、英国のベース・サウンドの常識を覆してしまった。

ジョン・ポールは、アレンジの仕事も始めた。

「アレンジを始めたときは、すっかりお手上げだった。
ついつい出来ますと言ってしまったんだ。

泥縄で知識を仕入れていって、そういうのを2、3回くり回すうちにアレンジャーになっていたのさ。」

ドノヴァンの『サンシャイン・スーパーマン』ではアレンジのほとんどを担当し、1966年に大ヒットして300万枚以上も売った。

ドノヴァンの仕事で、セッション・ギタリストをしていたジミー・ペイジと出会った。

ジョン・ポール
「1960年代半ばのロンドンのセッション・シーンは、広がりがあったし活発だった。何のジャンルでもやったもんさ。」

彼はストーンズの『シーズ・ア・レインボウ』のアレンジもした。

🔵ロバート・プラント(ボーカル)

1948年8月20日に英国ウスターシアで生まれた。一人っ子。

13歳の時、女の子にもてるためロックンロールを歌い始める。

地元のクラブでブルースに出会い、それも歌い始める。

最初に入ったバンドに、クリス・ウッド(後にトラフィックに参加)がいた。
ライバルのバンドにはスタン・ウェッブ(チッキン・シャックの結成メンバー) がいた。

ロバートは言う。

「最初に魅力を感じた音楽は、ボブ・ディランの『コリーナ・コリーナ』だった。

16歳の時に家を出て、いろんなグループを渡り歩いて聞く価値のある音楽なら何だって吸収した。

音楽シーンでの10分間は、その外で過ごす100年分にも等しかった。」

彼はバンド、クローリング・キング・スネイクスに加入した。
ジョン・ボーナムがドラムだった。

ロバート・プラントは影響を受けた歌手について、こう語る。

「サニーボーイ・ウィリアムスンの歌、あの絶妙なコントロールはとにかく信じられなかった。

トミー・マクラレンは、とことん表現しつくしてる所がすごくて、最初から最後まで「クソったれが!」って怒鳴ってるような感じなんだ。

ロバートジョンソンの歌は、どうやったらギターとあそこまで一体化できるんだろう。

他に影響されたのはスヌーツ・エルジンとかブッカ・ホワイト。

レイ・チャールズは今さら言うまでもないだろう。絶対あんな風には歌えない。

スティーブ・ウィンウッドは、スペンサー・ディヴィズ・グループの時代にヴォーカルのレンジの広さに度胆を抜かれたね。
英国の最高のミュージシャンの一人だ、僕のやりたいのはこれだって思ったよ。」

ロバートは、ジョン・ボーナムとバンド・オブ・ジョイというバンドを結成した言う。

「長いこと僕は、カントリーブルースが歌えればそれでいいと思っていた。
バンド・オブ・ジョイを結成するまでは堂々めぐりって感じだった。」

パンド・オブ・ジョイは3枚のシングルをリリースするが解散に至った。

ロバートは言う。

「バッファロー・スプリングフィールドは最高だった。

そのあとモビーグレイプのファースト・アルバムにも完全にやられた。

何年もブルース一本槍だったのが、急に古いブルースを聴けなくなった。
あれは大きな転機だったよ。」

1968年11月9日に、インド系移民のモーリーンと結婚した。

彼の活動していたバーミンガムは、インドからの移民が多かった。

歌の仕事が少ないので、道路工事のバイトもした。

アレクシス・コーナーから誘われ、1年ほどいっしょに活動。

🔵ジミー・ペイジ(ギター)

1944年1月8日に英国ノーザンプトンで生まれた。一人っ子。

13歳の時、スパニッシュギターを買ってもらい夢中に。
6回だけレッスンを受け、その後は独学。

15歳の時に初恋・初体験する。

初めてのエレキギターは、中古の1949年型レスポールを買う。

1962年にニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズに誘われて参加する。
すぐにギタリストとして高名になる。

同バンドではグレッチのギターを弾き、機材にも誰よりも金をかけていた。
週に20ポンド稼いでいたが、バスの運転手が週給10ポンドだった時代にである。

彼は新しいサウンドを当時から追求していた。

ジェフ・ベックのいるバンドが、クルセイダーズの前座をつとめていた。
当時のベックのバンドは、それ以外に仕事がなかった。

ジェフ・ベックは言う。

「ジミー・ペイジを聴いてオレが感心したのは、ギタリストとしての能力だ。
もの凄い早弾きでね。問題は誰も聞く耳を持たなかったことだ。

流行りの曲をやる時は、流して弾いてるだけで最悪だった。でも奴のプレイは光ってたよ。」

ペイジはクルセイダーズのハードなスケジュールについてゆけず、数ヵ月で辞めた。

アートカレッジに入学する。結果的には1年半だけ通うことに。

ペイジの自宅では日曜日にジャムセッションが行われるようになり、ベックも参加した。

ペイジの両親はロック・ミュージックに理解があった。

ジョン・ギブは言う。

「ジミー・ペイジの家には2~3年通ったよ。彼は才能もあったし、音楽に入れ込んでた。

僕がジェフ・ベックと組んだバンドは、メンバー2人がムショ送りになって解散してしまった。
あいつら、本当のワルだったからなぁ。楽器屋から機材をだまし取ったり。
でもあの頃はそういうのが普通だったのさ。」

ジェフ・ベックは言う。

「ジミー・ペイジと知り合ったのは、姉貴を通じてだった。姉貴の知り合いにバリー・マシューズというギター狂がいて、そいつがジミーを紹介してくれたんだ。

あの頃はエレキギターの存在を知ってるやつ自体、ほとんどいなかったからね。

俺はジミーと会ってみて、クルセイダーズ時代に彼のプレイを見てる事に気がついた。

俺たちは二人共、クリフ・ギャレットのファンだった。
クリフは、ジーン・ヴィンセント&ザ・ブルーキャップスのリードギターを弾いてた40がらみの男さ。速くてシャープな曲を弾いてるのは彼だけだったからね。
二人して彼の大ファンだった。」

ジミー・ペイジは当時をこう話す。

「僕は本気でファイン・アートの画家を目指していた。
僕がアートカレッジに入った時、音楽シーンは悲惨な状況だったんだ。

誰もチャック・ベリーやボー・ディドリーに興味を示さないし、トップ20とトラッドジャズ以外は聞く耳を持たなかった。

それが2年位で急に変わってきた。ローリング・ストーンズがブレイクして、R&Bが英国の一大勢力になった。
それでもう一度ポップ・ミュージックを信じる気にもなれた。

ビートルズは、シレルズとかマーヴェレッツの曲をやっていた。
僕にとってもいよいよ決断の時となったわけだ。」

(2025年5月4日に作成)


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