(『レッド・ツェッペリン 天国への階段』
リッチー・ヨーク著から2010年頃にノートにとり勉強)
🔵ロンドンでR&Bやロックが流行した背景
英国・ロンドンの中心街にあるマーキー(ソーホーの有名なジャズクラブ)を舞台にして、新しい音楽シーンが誕生した。
マーキーのマネージャーだったジョン・C・ジーは言う。
「全ては1960年に始まった。マーキーのディレクターの1人にジャズバンドのリーダーだったクリス・バーバーがいてね。
クリスはアメリカ・ツアー中に本物のR&Bを生で聞き、すっかり打ちのめされた。
彼はロンドンに戻ると、自分以外にR&Bに興味のあるメンバーを探し始めた。
それで見つかったのが、アレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスだ。
3人はバンドを組み、国内ツアーやBBCの番組トラッド・タヴァーンでプレイを始めた。
英国ではトラッドジャズのブームが頂点に達していた時期だが、それでも熱烈な反応があった。
それがコーナーとデイヴィスのブルース・インコーポレイテッドの結成につながったのさ。」
1962年5月にブルース・インコーポレイテッドは初めてマーキーでプレイした。
ジャム・セッションが始まり、ロングジョン・ボルドリーやミック・ジャガーが参加した。
このライブは木曜の夜に行われていたが、最初の2、3ヵ月は客が100人も入れば良い方だった。
しかし徐々に活発化し、一方ではビートルズが有名になってきて、木曜のジャム・セッションの前座としてローリング・ストーンズがライヴを始めた。
ストーンズはロンドン中の話題になったが、髪の毛を肩まで伸ばしていたのが斬新だった。
1963年になるとマーキーは、ザ・フー、スペンサー・デイヴィス・グループ、マンフレッドマンらのバンドを発掘して紹介した。
ブルース・インコーポレイテッドの結成時、ジミー・ペイジにも声がかかったが、ペイジはアートカレッジ入学のため断わった。
しかし彼は、マーキーのブルース・ナイトの日は常連となった。
ペイジは言う。
「英国のシディ・ブルースの父は、シリル・デイヴィスさ。
ストーンズも含めてシリルに恩を受けたグループは多い。
シリルはエレキ・ハープをプレイした。
アレクシス・コーナーは、アコースティック・ギターにこだわってた。
この2人がブルース指向のロックミュージシャンを仲間に引きいれて、そこから全てが始まったんだ。」
ブルース・インコーポレイテッドは、チェス・レーベル風のシティ・ブルースを専門に演奏していた。
ペイジは言う。
「ある日、エリック・クラプトンが僕の所に来て、『君ってマシュウ・マーフィーみたいな弾き方をするね。メンフィス・スリムのギタリストの。」と言った。
彼の言う通りで、僕は生半可じゃなく影響されていた。」
これがきっかけで2人は仲良くなった。
シリル・デイヴィスが病死すると、アレクシス・コーナーは政治的な理由でマーキーを離れ、近場のフラミンゴ・クラブに移った。
🔵ジミー・ペイジはスタジオ・ミュージシャンになる
ペイジが回想する。
「マーキーで演奏していたら、ある晩、急に『レコードで演奏してみないか』と言われてね。
そこから芋づる式にスタジオ録音の仕事が来始めて、身動きが取れなくなっていった。 週に4、5本あるのもざらだった。」
当時の英国では、ビッグ・ジム・サリヴァンが実質的に1人で全てのセッション(スタジオ録音)を切り盛りしていたが、ペイジが加わり楽譜の読み書きを特訓してから状況が一変した。
ちなみにサリヴァンは、後にトム・ジョーンズ、ギルバート・オサリヴァン、エンゲルベルト・フンパーディングらMORシンガーのバッキングをした。
ペイジはスタジオの仕事とアートカレッジの両立が不可能になり、カレッジを退学した。
1963~65年に、ペイジは何百というセッションに参加した。
ザ・フー、ストーンズ、キンクス、ドノヴァン、トム・ジョーンズ、ジョー・コッカー、バート・バカラック、ブレンダ・リーらのセッションもあった。
ザ・フーのファーストシングル『アイ・キャント・エクスプレイン」では、リズムギターを担当した。
ジョー・コッカーのデビュー・アルバムでも、タイトル曲『心の友』でソロを取った。
ペイジは言う。
「セッションの仕事を始めたばかりの頃、後にジミ・ヘンドリックスの所で働くようになる男がやってきて、『海軍省の開発部門で働いてるからエレクトロニクスの仕掛けならどんなものでも作れる』って言うんだ。
それで僕は、『ヴェンチャーズの曲で聞いたギブソンのファズ・ボックスを作ったら』と持ちかけたんだ。
そうして出来たファズ・ボックスを何回かセッションで使った。
その後、プリティ・シングスやジェフ・ベックらが使い始めて、あっという間に広まった。
その男は結局ジミヘンの専従スタッフになったんだ。」
ペイジは、エリック・クラプトンとの思い出も話した。
「エリックと僕はすごく親しくなって、よく二人で夕食に出かけて、教育、アート、音楽、映画、本など幅広く話した。
ある晩エリックが、彼の友達の所に連れてってくれた。
そいつは音楽コレクターで、ポッパ・ホップとか全然知られていないミュージシャンのテープを山ほど持っていた。
ポッパはスティールギターでブルースを弾く凄いギタリストで、エリックはその友達の家に泊まってテープを聴きこみ、新しいテクニックを身につけていた。
イギリスでフィンガー・トレモロを一般的にしたギタリストの一人が彼だ。たぶんBBキングから学んだのだろう。
僕は色んな音楽に興味津々だったけど、エリックはブルース以外は聞く耳を持たなかった。
僕らはこの時期、みんなエルモア・ジェイムズとBBキングに夢中になっていた。
あれは土台作りの1年で、知らないギタリストや新しいスタイルを取りこんでいく時期だったんだ。」
1965年にローリング・ストーンズのマネージャー兼プロデューサーのアンドリュー・オールダムは、イミディエイト・レコードを設立。
オールダムは、エリック・クラプトンのプロデュースをペイジに依頼した。4曲レコーディング。
エリックは1曲でフィードバックを使った。
ペイジは、「この時録ったテレフォン・ブルースは、エリックのソロの最上級の部類に入るんじゃないかな。」と言う。
ペイジは「1964~67年にかけて色んなセッションに参加した」と言う。
ペイジは上記のレコーディングの内幕を明かした。
「エリックは僕の両親の家にもよく来てたよ。しょっちゅうジャムったもんさ。
2トラックの家庭用テレコを使って何曲かお遊びでレコーディングしたこともある。
たまたまそのテープの事をイミディエイト・レコードの人間にしゃべっちゃってね。
その頃エリックはブルースブレイカーズに参加して、イミディエイトを離れたんだ。」
ホーム録音のテープを、ペイジも加わって販売した(レコード化)した事で、クラプトンとペイジは顔を合わせても2、3のそっけない言葉を交わすだけの仲になってしまった。
1965年末にペイジは、唯一のソロシングルとなった『シー・ジャスト・サティスファイズ』をフォンタナにレコーディングした。
ドラム以外は自分でやり、歌も歌った。
ジミー・ペイジは、エレキギターについてこう話す。
「レスポールはあの当時、最高のオールラウンドなギターだと思っていた。
ピックアップが3つ付いていて、サウンドにすごく幅があった。
今ならストラトが最高だって言うけどね。
レスポール・サウンドを確立させたのは、プルースブレイカーズ時代のクラプトンだったと思う。
1952~60年の間に作られたギターは、戦後最後の職人の手になるものなんだ。
プレイヤーのタッチに敏感に反応する。オールドのストラトとか。
僕のお気に入りはオールドのテレキャスターだった。」
ジミー・ペイジは、インド音楽の影響はこう話す。
「ジョージ・ハリスンがビートルズのアルバム『リヴォルヴァー』でシタールを使った時は、あんまりゾッとしなかった。
でもその後に『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー』をやった時は事情が違った。今もあのレコードをしのぐものはないんじゃないかな。
ジョージは、東洋の音楽をマスコミのレヴェルで注目させたんだ。
忘れちゃいけないのは、デイヴィ・グラハムが誰よりも早くラーガのチューニングを取り入れていた事だ。
ペイジは言う。
「バート・ヤンシュはずっとお気に入りなんだ。
登場した時は信じられない位オリジナルだったし、すごく影響された。」
🔵ヤードバーズ
クリス・ドレヤが回想する。
「エリック・クラプトンとアンソニー・トッパムと僕は、同じアートスクールに通っていた。
キース・レルフとポール・サミュエル・スミスも知り合いだった。
ポールがジム・マッカーティという友達を連れてきて、クラブでジャムったらいい感じだったんで、その晩のうちにヤードバーズを結成したんだ。」
ジョルジオ・ゴメルスキーは言う。
「リッチモンドにあるジャズクラブのクロウダディ・クラブは、客が減る一方で、日曜の夜のテコ入れを私が任された。
18ヵ月かけて軌道にのせた。
ローリング・ストーンズを出演させたが、彼らが店を離れる頃には重要なスポットになっていたよ。
ある晩ヤードバーズが訪ねて来た。演奏を聞くなり出演を依頼したよ。
でもトッパムの両親が反対して、私が代わりにクラプトンを引っぱってきたわけだ。
メンバーはみんな、ストーンズとは別物にしなきゃと思っていた。
ストーンズの別ヴァージョンとは思われたくなかったからね。」
ヤードバーズは、ゴメルスキーをマネージャーにしてEMIとレコード契約した。
しかし『フォー・ユア・ラヴ』事件で、クラプトンは65年1月に退団した。
ジミー・ペイジはこの時に加入するよう誘われたが、断わって友人のジェフ・ベックを推薦した。
ゴメルスキーは言う。
「ジェフ・ベックがすごい才能に恵まれているのは、聴いてすぐ分かったよ。自分のサウンドを持っていたからね。
でもえらく内気な男で、しょっちゅう観客に背を向けてプレイしていた。
ヤードバーズには傑出したメンバーがいなかったから、リード・ギタリストの役割を強化していったのさ。」
ヤードバーズは新マネージャーにネイピア=ベルを据え、ピーター・グラントを共同マネージャーにした。
ピーター・グラントは、ロック初期に訪英した米ミュージシャンのロードマネージャーをして名を上げたヴェテランだった。
グラントは1966年末から68年のヤードバーズ解散まで担当した。
アメリカ・ツアー中に、ベックが病気で倒れたので、ペイジが助っ人としてギターを担当した。
ペイジはそのまま加入し、ベックの回復後は2人でギターを担当した。それまではクリス・ドレヤがリズムギターをしていた。
ベックとペイジの2人がギターを弾いている録音は、『幻の10年』と『サイコ・デイジーズ』の2曲のみである。
ペイジは言う。
「ツイン・リードギターをやったのは、僕らが最初だったと思う。
それがアメリカ中を熱狂させたんだよ。
残念ながらレコードにはその片鱗も残っちゃいない。
『幻の10年』だけは英国でも注目され、米国ではあの曲のおかげでヤードバーズの名が不滅になった。
2本のギターでステレオ効果を出す、というのが僕の狙いだった。
ギターバトルなんてなんの意味もない。」
マネージャーのグラントは、コマーシャルな耳を持つ人物がレコーディングの監修にあたれば助けになると考えて、ミッキー・モストを起用した。
だがモストの手がけた『リトル・ゲームズ』は最低のアルバムだ。
アルバム全体がシングル候補曲の寄せ集めである。
ペイジは言う。
「あの頃のモストは、コマーシャルなシングルに入れ上げていた。
後にベックとロッド・スチュワートのレコード(ジェフ・ベック・グループ)を作り始めて、あそこで心境の変化があったらしい。」
余談になるが、1971年秋にアメリカのエピック・レコードから出た『ヤードバーズ ジミー・ペイジ ライヴ・アット・アンダーソンシアター』は、ひどい内容なのでペイジらがすぐに販売を差し止めた。
ヤードバーズのメンバーだったクリス・ドレヤは、こう話す。
「エリック、ジェフ、ジミーの3人のギタリストは、それぞれ別の持ち味があった。
ジェフは時々没頭しすぎて、回りを無視したプレイに走ったりした。でもハマッた時のプレイは魔法だよ。
信じられなかったもの。いつだってすごく感情豊かだった。
エリックはとても優しい、計算しつくされたものだ。リハーサルもきちっとやってたし。
流れるようなプレイだったね。
エリックは完璧さを求めるあまり、ちょっとしたパートに1週間かけることもあった。
ジミーは、エリックよりずっと危険な感じがして、でもきっちりコントロールされていた。
いかようにも自分を表現できた。
3人共、形式に囚われないギタリストだった。」
グラントは言う。
「ヤードバーズのどのメンバーよりも、私はジミーに近しかったし、彼の才能と能力に信を置いていた。」
1968年7月に、ヤードバーズはさよなら公演を行って解散した。
この時、アメリカで最もアルバムを売っていたバンドは、カムバックの波に乗ったトランペッター、ハーブ・アルパートのティファナ・ブラスだった。
MORマニアの最後のあがきでもあった。
当時は、保守的なアダルト向け音楽とロックンロールがチャートにおいて勢力を二分していた。
(2025年5月4~5日に作成)