タイトルレッド・ツェッペリンの結成
ファースト・アルバム

(『レッド・ツェッペリン 天国への階段』
リッチー・ヨーク著から2010年頃にノートにとり勉強)

🔵バンド結成までの経緯

ジミー・ペイジは言う。

「僕がドノヴァンのハーディ・ガーディ・マンのセッションに参加したとき、アレンジを任されていたジョン・ポール・ジョーンズが休憩時間に訊いてきたんだ。

『君の新しいグループにベーシストは入り用じゃないのか』とね。

彼は自分を表現したがっていた。
2人で話し合って、グループを結成する事に決めたんだ。」

ペイジは、新バンドのヴォーカルはテリー・リードを起用しようと考えた。
だがリードは先頃トリオを結成し、ミッキー・モストと契約を結んだばかりで、駄目だった。

次にスモールフェイセスのスティーヴ・マリオットを考えたが、彼も契約に縛られていた。

テリー・リードがロバート・プラントを推薦したので、ペイジはライヴを見に行った。
そして話し合いプラントの加入が決まった。

話したところ、ペイジとプラントの愛聴しているレコードは一緒で、次のものだった。

マディ・ウォーターズのユー・シュック・ミー、ラリー・ウィリアムズのシー・セッド・ヤー、ドン&デューイのジャスティン、バディ・ガイ、エルヴィス・プレスリー、インクレディブル・ストリング・バンド、ジョーン・バエズのベイブ・アイム・ゴナ・リーヴ・ユー、など。

プラントはドラムにジョン・ボーナムを推薦した。

ボーナムは言う。

「俺はジョー・コッカーから話があったし、クリス・ファーロウにも誘われてた。

えらく悩んだよ。ファーロウは名のあるミュージシャンだったし、コッカーも間違いなく成功すると思っていた。

ジミー・ペイジが良いギタリストなのは知ってた。ロバートのことも。
だからたとえ成功できなくても良いグループでプレイする歓びは得られるわけだ。

で俺はこっちの方が性に合っていると判断したのさ。」

ペイジは言う。

「問題は、僕のやりたい音楽がはっきりしない事だった。

でもプラントの声を聞いた瞬間、これはハードロック路線で行くしかない、と思ったね。」

🔵レッド・ツェッペリンの誕生

バンドの結成時、契約上からヤードバーズとしてこなさなければならない公演日程があった。
そこでニュー・ヤードバーズと名乗ってツアーをした。

ツアー終了後、絶対に新しい名前が必要だ、という点でメンバー4人は一致した。

ジョン・ポール・ジョーンズは言う。

「レッド・ツェッペリンの名前を考えたのは、キース・ムーンだ。

ジェフ・ベックがリーダーで『ボレロ』という曲をレコーディングした時、そのバンド用の名前だったんだ。

結局、そのバンドはモノにならなかった。
で、あの名前をキースに『使ってもいいか』って訊いたんだ。」

🔵ファースト・アルバム

ペイジはバンドを結成すると、すぐにレコーディング候補曲のセレクションを終え、ニュー・ヤードバーズのツアーの前にリハーサルが開始された。

そして1968年11月にレコーディングした。

ペイジは言う。

「レコーディングは30時間で完了した。

9曲のうち6曲はメンバーの共作だ。

ほとんどの曲をライヴと全く同じ形でレコーディングした。変更があったのはベイブ・アイム・ゴナ・リーヴ・ユーだけだ。」

ペイジはアルバムのディレクション(指揮)も担当した。

「レコーディングがうまく行ったのは、大部分がエンジニアのグリン・ジョンズのおかげだった」とペイジは言う。

『ベイブ・アイム・ゴナ・リーヴ・ユー』は、古いブルース曲である。

シカゴのブルース作曲家にしてセッション・ベリーシストのウィリー・ディクソンの曲、『ユー・シュック・ミー』と『君から離れられない』も取り上げた。

ペイジが解説する。

「逆向きのエコーは、僕があの録音時に考え出したテクニックだ。

まずテープを逆回しにしてエコーを録音する。
それを正しい方向に戻すと、エコーの方がシグナルより先に聞こえてくるんだ。

結局ファースト・アルバムで使ったきりになってしまった。
ユー・シュック・ミーの最後の方でね。」

1968年末に、マネージャーのピーター・グラントは、マスターテープとジャケットのアートワーク(裏ジャケの写真はクリス・ドレヤの手になる)を持って渡米し、アトランティック・レコードと契約した。

ヤードバーズは、アメリカではCBS子会社のエピックと、ヨーロッパではEMIと契約していたが、レッド・ツェッペリンはその契約を続けなかった。

クリーム、アレサ・フランクリン、バッファロースプリングフィールドらが契約していた、アトランティックを選んだのである。

アトランティックとは、5年間の全世界的な配給契約を結んだ。

条項により、バンドはアトランティックの介入なしにレコードを制作し、ジャケットや広告、写真などイメージに関わるもの全ても管理できる事にした。

後にローリング・ストーンズがアトランティックと契約する時、これを真似した。

ジョン・ポール・ジョーンズは言う。

「ローリングストーン誌に載ったファースト・アルバムのレヴューは、『何の能もないバンド、クズである』というものだった。

マスコミ嫌いになったのは、あれがきっかけになってる。」

ツェッペリンは、一部を除く全てのマスコミから、ファースト・アルバムをボロクソにけなされた。

🔵全米ツアーで人気が爆発

レッド・ツェッペリンは1968年12月末に、北米ツアーを開始した。

69年1月12日、ファースト・アルバムの『レッド・ツェッペリン』がリリースされた。

チャート最高位は5月17日の10位。73週、1年半に渡ってビルボードにランクインした。

シングル・カットを全くせず、ラジオ局のオンエアもなかった状況でのこと。

ジョン・ボーナムは言う。

「イギリスでは、ヤードバーズなんて長いこと何もしてないし、ブッキングする気にもなれないって感じだった。

アメリカでもビッグな存在ではなかったが、ヤードバーズは新鮮な音楽を届けてくれた改革者だった。

俺たちにチャンスをくれたのは、考えるまでもなくアメリカだ。」

ジミー・ペイジは言う。

「アメリカではヤードバーズは1晩で2500ドルのギャラを取っていた。

でもツェッペリンなら1500ドルがせいぜいだろうし、そこから上がっていけばいいと思っていた。」

ペイジはこう解説する。

「生々しいベイシックな資質こそが、ヤードバーズを成功させた一番の要因だった。

実験的になるのも悪くはないけど、そうする場合でもみんなが知っているベイシックなサウンドから発展していくようにするべきだ。

アメリカで大ブレイクした理由ねぇ。
言えるのは、みんながウェストコースト風のプレイに入れあげていた時期に、僕らはダイナミクスを意識していたってことだけ。

ブレイクを実感したのは、フィルモア・ウェストでやった時だ。爆発したみたいだった。」

ジョン・ポール・ジョーンズは言う。

「もしジミーが自分に自信を持てないタイプで、自分だけがスターになりたいと思っていたら、もっと力量のないメンバーを選んでいたはずさ。

でもジミーの名前がツェッペリンの看板になってくれたのは確かだ。」

ロバート・プラントは言う。

「ツアーを始めた時は、告知に名前も載ってなかったけれど、イーストコーストに着く頃には後ろから2番目に名前が載っていた。
あれにはけっこう来るものがあったよ。」

ジョン・ポールは言う。

「イギリスのバンドがあんなに大挙してアメリカのチャートに食い込むっていうのは、アメリカのバンドに対する批判にもなってると思う。

僕らのボストン・ティーパーティでの演奏は、全キャリアでも1、2を争う出来だった。
あそこでイケるって実感したんだ。

あれは僕らがやった最長のライヴでもある。4時間半はやったんじゃないかな。

他人の曲もどんどんプレイしてね。ビートルズ、ストーンズ、ザ・フーの曲もやった。熱気でムンムンしてた。」

1969年3月1日~4月17日は、英国ツアーを行った。

客の反応は良かったが、最高の日でも140ポンドの稼ぎにしかならなかった。

レッド・ツェッペリンはセカンド・アルバムの制作を始めたが、2度目のアメリカ・ツアーに出た。

プラントは言う。

「あの2度目のツアーで、聴き手がグループの他のメンバーにも興味を持ち始めたんだ。

ジミーだけじゃなくてね。メンバー1人1人を認知してくれるようになった。」

69年6月、アメリカから一時帰国し、アルバート・ホール(3000人収容)でライヴをした。
チケットはソールドアウトとなり、自国で過去最大の観客を前にプレイ。自国でもブレイクとなった。

7月、アメリカ・ツアー再開。
8月31日のダラス・フェスティバルでは、これまで最高のギャラ、1.3万ドルを手にした。

だがエリック・クラプトンはこう話す。

「同じコンサートに出演して、彼らのライヴを見たけど、えらくやかましかった。

中にはすごく気に入ったのもあったけど、ほとんどがうるさすぎて。
とにかくやりすぎだと思ったね。」

9月、1ヵ月の休息をとる。

アトランティックは6月末までにセカンド・アルバムを出すつもりでいたので、早く曲を完成させろと催促してきた。

(2025年5月5日に作成)


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