(以下は『楽譜を読む本』5人の共著から抜粋)
〇バッハ
バッハは基本的に、楽譜をすべて自分で書いた。
しかしパート譜は、弟子に任せることもあった。
指揮をする自分用のスコア(総譜)には書かずに、弟子の見るパート譜にだけ演奏上の指示を書くこともあった。
弟子の中には、バッハの楽譜をコピー(筆写)して研究する者もいた。
バッハの自筆譜では現存せず、弟子の書いたコピー譜が残っている作品もある。
〇モーツァルト
モーツァルトの有名なエピソードとして、頭の中で曲を完成させるので、自筆譜に書き直しがない、がある。
これは事実ではない。
モーツァルトの自筆譜には、むしろ書き直しや書き誤りが多い。
訂正のない自筆譜は、浄書譜だと思われる。
つまり、曲が完成した後に書かれた、丁寧な清書である。
モーツァルトには、採用を見送った楽想のスケッチも多くある。
〇ベートーヴェン
ベートーヴェンの創作の特徴は、スケッチの多さである。
そのスケッチには、作曲技術の練習や、他の作曲家の曲の筆写もある。
後になってスケッチ帳を見直すこともあり、彼にとってスケッチ帳は曲が完成したら不要になるものではなく、アイディアを書き溜めるものだった。
現存するだけでも、33冊のデスク・スケッチ帳と、37冊のポケット・スケッチ帳がある。
ベートーヴェンは曲を書き始めてからも、しょっちゅう書き直している。
書き直す際は、しばしばスケッチ帳に戻って、アイディアを洗練させている。
曲が出版されてからも、誤植のある所を訂正させるために、出版社に手紙で指示している。
出版社の側で、ベートーヴェンが工夫をこらした不協和音を勝手に訂正してしまう、という珍事もあったし、放っておけなかったのだろう。
〇シューベルト
シューベルトの作曲は、同時代人の証言によると、めったにピアノの助けを借りず、机にかがみ込んでとてつもない速さで書き、ほとんど修正もしなかった。
音楽史上でも屈指の速筆であった。スケッチで苦闘した様子もない。
晩年はどんどん走り書きになり、着想が湧きすぎて書くのが間に合わなかったとも言われている。
彼は自分に厳しく、若い時の習作は破棄し、晩年の創作も多く破棄したと言われている。
〇ブルックナー
ブルックナーの作品では、「稿(バージョン)」が問題になる。
彼は曲の出版後に、何度も改訂することが多かった。
さらにその改訂は、他人の助言や、聴衆の期待に沿おうとした結果のこともあり、改良だったか議論が分かれいる。
またブルックナーの弟子たちが改訂したものもあり、様々なバージョンがある。
〇ブラームス
ブラームスは、創作の過程を隠蔽しようとした。
現存するスケッチや草稿は極めて少なく、ほとんどが捨てられている。
彼は「私の自筆譜ではなく、私が手を入れた印刷譜のほうが有効です」と述べている。
〇マーラー
マーラーは、存命中は作曲者としてよりも、指揮者として知られていた。
それもあってか、彼のスコア(総譜)には細かい指示が多く、その指示を読んでいるとレッスンを受けている生徒の気分になってくる。
ちょっとでもミスのありそうな所には、注意書きがしてある。
指揮者への指示も、随所に書いてある。
(2023年1月26日に作成)
(以下は『ヤングギター 1990年代後半の号』から抜粋)
〇ウリ・ロートの分析
バッハの時代は、ヴァイオリンはストレートに弾かれていて、ヴィブラートは使われてなかったとする研究家もいる。
当時のオルガンは、A音が427Hzに合わせてあり、モーツァルトのピアノも427Hzに合わせてあったらしい。
そうすると今の私たちプレイしているCメジャーのコードは、モーツァルトらの時代だとBメジャーに近いことになる。
モーツァルトの作品が子供のためのものが多いのも、そのピッチが絡んでいるらしい。
(以下は『レコード盤のワーグナー前奏・序曲集』から抜粋)
ワーグナーは、1849年5月にドレスデンにて起こった革命運動に参加して、この地を追われ、以後は思索の期間に入り、54年まで作曲を中断した。
オペラは19世紀になって、宮廷や貴族などの上流階級から一般の人々に開放され、市民権を獲得した。
バイロイト音楽祭は、1876年にワーグナーが自作のオペラを理想的な形で上演するために始めた。
ウィルヘルム・ピッツは、同音楽祭において1951~71年まで合唱指揮を務めた。
(2024年7月19日に作成)