タイトルクラシックの雑学

(『音楽の友』何号かは不明、から抜粋
2009年4月3日にノートにとる)

🔵クラシックのピアニスト

シュナーベル (1882 ~ 1951年)

バックハウス (1884 ~ 1969)

ギーゼキング (1885 ~ 1956)

エドウィン・フィッシャー (1886 ~ 1960)

ケンプ (1895 ~ 1991)

ディヌ・リパッティ (1917年3月19日 ~ 1950年12月2日)
ルーマニア生まれ、33才で死去した。コルトーにパリで学ぶ。

パウル・バドゥラ=スコダ (1927年10月6日 ~ 2019年9月25日)
オーストリアのウィーン生まれ。フィッシャーに学ぶ。

🔵シモン・ゴールドベルク (1909年6月1日 ~ 1993年7月19日)
ポーランド生まれのヴァイオリン奏者。カール・フレッシュに学ぶ。

1929~34年は、フルトヴェングラーの下でベルリンフィルのコンサートマスターをする。

1934年にナチスから逃れてイギリスに移住。リリー・クラウスとのデュオで有名になる。

38年にアメリカへ移住。

戦前はヒンデミットとフォイアマン、戦後はカザルスとゼルキンと共に三重奏団を組む。

ピアニストの山根美代子と再婚。

87年から日本に定住し、桐朋学園大学の名誉教授になる。

🔵R・シュトラウス

指揮者としても有名で、フリッツ・ライナー(1888 ~ 1963)、ジョージ・セル(1897 ~ 1970)、カール・ベーム(1894 ~ 1981)らが指導を受けた。

(以上は2025年5月10日に作成)

(以下は『20世紀のピアニストたち上巻』千蔵八郎著から抜粋
2005年か06年の7月にノートにとり勉強した)

ろう管レコードは1881年頃に登場し、数年後に平面レコードが考案された。

ピアニストのパデレフスキは、アメリカでの演奏旅行のギャラは、1881年は9.5万ドルだった。
2回目の演奏旅行は16万ドル、3回目は24.8万ドルだった。

ちなみに歌手のアデリーナ・パッティは、一晩で5千ドルのギャラ。
ジャン・ド・レスケは一晩で3千ドルだった。

パデレフスキは、一晩で2~7千ドルだったという。

指揮者は、ニキシュ、ヴァインガルトナー、モットルらが年棒2.5万ドルで最高クラスだった。
当時は指揮者の地位が低く、ギャラも低かった。

なお、ギャラの良さ、二つの世界大戦、1917年のロシア革命からの亡命などで、多くの音楽家がアメリカに移住した。

🔵1900年頃の著名な歌手

ソプラノは、マルチェラ・センブリク、ルイーザ・テトラツィーニ、メアリー・ガーデン、ジェラルディン・ファーラー。

アルトはシューマン=ハインク。

テノールは、エンリコ・カルーソー、ラウリッツ・メルキオール。

🔵初期の録音の話

ブラームスが自作のハンガリー舞曲第1番を録音したのが、1888年である。
ピアニストのヨセフ・ホフマンも同じ頃に録音している。

エンリコ・カルーソーは初録音は、1900年(もしくは1901年)。

シャリアピンとスレザークの初録音が1901年。

エンリコ・カルーソーは初録音は、1900年(もしくは1901年)。

シャリアピンとスレザークの初録音が1901年。

グリーグ、ヨアヒム、パッハマンは1903年。

クライスラー、サラサーテは1904年。

ティボー、リリー・レーマンは1905年。

1911年に、アーヴィング・バーリン作曲の「アレクサンダーズ・ ラグタイム・バンド」が大ヒット。

オーケストラの録音は、1910年代になってから。それまでは技術的に困難だった。

ニキシュの指揮でベートーヴェン第五交響曲の全曲録音が1913年秋に行われた。

当時の録音はラッパ集音式で、周波数は300~1500Hzしか録れず、圧倒的にボーカルが有利で、ピアノやオケは不利だった。

とはいえ1910年代に入ると技術改良によりピアノ録音が増えた。

(以上は2025年10月29日に作成)


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