タイトル統仁(孝明天皇)の暗殺説

(『幕末維新史の定説を斬る』中村彰彦著から抜粋)

統仁(おさひと)は、1831年に生まれて、1846年に天皇の役職に就き、「孝明天皇」となった人である。

彼は、攘夷(外国勢力を追い払うこと)を熱望した人で、討幕の運動には反対した人だった。

妹(和宮)を徳川将軍の家茂と結婚させたが、この事は尊王攘夷派を怒らせた。

統仁は、慶応2年(1866年)12月に死去したが、「毒殺説もある」と角川新版・日本史辞典にあるほど、昔から毒殺されたとの説が消えない。

天皇が暗殺される例は、官撰の国史である『日本書紀』にも書いてあり、あり得ないことではない。

山川出版社が出した『日本史広辞典』を見ても、「安康天皇は、兄の木梨軽皇子を自殺に追い込んで即位したとされ、大草香皇子を殺してその妻を奪ったことから、その子に殺された」とある。

他にも、「崇峻天皇は、即位した後に蘇我馬子と対立し、馬子の放った刺客に暗殺され、(証拠隠滅で)その日に埋葬された。」とある。

(※天皇の一族と言われる者たちは、昔から悪逆非道な行いを数多くしている。
歴史を学ぶと分かる。)

統仁(孝明天皇)については、病死説と毒殺説がある。

この2つの説は、彼の死の直後から広まった。

このため研究者には、結論が出しにくいとして、どっちつかずの態度をとる者も少なくない。

まず病死説だが、史料としては、明治39年に刊行された『孝明天皇紀』がある。

これは宮内庁も所蔵しており、日本政府の公式見解的なものである。

ちなみに、1945年に日本が敗戦・降伏するまでは、天皇の死(暗殺)を論じるのは禁じられていたので、病死説が定説だった。

病死説は他には、維新史料編纂会の『維新史』がある。

これは1941年12月に刊行されたが、維新史料編纂会は文部省内に設置された部局であった。

次に毒殺説だが、吉田常吉の書いた『孝明天皇崩御をめぐっての疑惑』は、1949年5月に発表されたが、(戦後になったのもあり)毒殺説に触れていて、毒殺説が統仁の死の直後から流れていたことに初めて言及した。

1966年8月に刊行された小西四郎の書いた『日本の歴史19 開国と攘夷』になると、はっきりと毒殺説にも触れて、こう書いている。

「岩倉具視が、これ(孝明天皇の暗殺)を画策したとの風説もある。

岩倉はそれ以前にも、天皇の毒殺を謀ったとの評判が立っている。

すなわち文久2年(1862年)の和宮の(将軍・家茂との)結婚問題の時に、次の脅迫状が彼の邸宅に投げ込まれた。

『天皇に猛毒を飲ませようと謀ったとの噂が、しきりに流れている。京都を立ち退かないのならば、首を四条河原にさらして、家族にも危害を加えるぞ』」

佐々木克は、1977年1月に刊行した『戊辰戦争』で毒殺説をとり、次のように書いている。

「王政復古を熱望して策謀をめぐらす幽居中の岩倉具視にとって、最も邪魔なのは、京都守護職・松平容保を深く信頼する、親幕府派の孝明天皇であった。

岩倉は当時、(孝明天皇から引退して出家するよう命じられて、)行動が不自由で、朝廷に近づけなかった。

しかし相棒の(薩摩藩士である)大久保利通は、自由に行動し策動できた。

大久保は、大原重徳や中御門経之らの公卿にも食い込み、朝廷につながるルートを持っていた。

孝明天皇の暗殺の黒幕は、岩倉、大久保だろう。」

統仁は、すでに触れた『孝明天皇紀』によると、慶応2年12月16日に天然痘を発病した。

『孝明天皇紀』はいくつかの資料を引用しながら、12月15日に高熱となり、16日に吹き出物が出始めたことや、医者が診察して17日に天然痘と断定された事を書いている。

18日に統仁の病状は「順症」だったが、夜になって2~3ヵ所で痘が紫色になったので、塗り薬を付けて、抜毒敵(漢方薬)を服用させた。

19日になると、痘は「起脹」してきた。

天然痘にかかると、死なない場合は、次の5段階を経て快方に向かうのが普通だった。

①熱が出る

②発疹が出てくる

③起脹(発疹がふくれる)

④灌膿(発疹に膿がのる)

⑤収靨(膿が引いて、かさぶたができる)

『孝明天皇紀』を読むと、統仁の食事内容から、身体の状態の変化が推察できる。

12月18~20日は、お粥などをわずかしか食べられなかったが、22日には唐きび団子や干し飯などの固形物も食べており、食べる量も回復してきている。

12月23日の食事メモの最後には、「今朝より至極、静謐になられた」とあり、病状が峠を越えたと分かる。

24日には、食事量は普通にご飯を椀に1杯食べるまで回復している。

ところが、24日の夕刻から容態が激変して、大騒ぎとなったのである。

そして『孝明天皇紀』は、12月27日に統仁が、息子の睦仁に天皇職を譲ると臣下たちに伝えて、29日に亡くなったと書いている。

奇怪なことに、25日以降の統仁の容態については、全く書いていない。

なぜかと言えば、統仁は25日に死去したが、それを隠して、睦仁への譲位を終えてから亡くなったとの体裁にしたからである。

このような官製の歴史書の虚偽の記述は、権力者に関してはよくある。

安政7年3月3日に桜田門外で殺された井伊直弼・大老の時も、幕府は3月30日に大老職を解き、閏3月30日に死去したことにした。

統仁の死は、野宮定功・権中納言が立ち会っており、次の記録を残している。(定功卿記から)

「12月25日、主上(統仁・孝明天皇)の容体は昨日より収靨で順症のところ、昨日から疲労があり、今日は衰弱して時々は吐き気があり。

食事が進まず、医師は種々の施術をしたが、脈が細くなって四肢が冷えた。

ついに亥半刻(夜23時)に死去した。」

中山慶子は、統仁の後宮に入り、睦仁(明治天皇)を産んだ人だが、『孝明天皇紀』には彼女が夫・統仁の病状を書いた手紙が収録されている。

この手紙は、慶子の父である中山忠能に宛てたものだ。

12月21日付の手紙には、「御痘はいよいよ順当、御肥立で恐悦」とある。

夫の回復を喜んでいるのが、伝わってくる。

ところが25日の午後2時の手紙には、「昨夜より大便がたびたび出ており、容体はよろしくない。えづきが強くて、物を食べない。親王(睦仁)もにわかに御前へお参りし、容体を案じて悲しんでいる」とある。

そして中山慶子の26日の手紙には、「昨夜の戌刻(20時)すぎに死去された。(死体を)見ても恐れ入り、体は□(一文字欠落)になっていた。」とある。

上記の定功卿記も、中山慶子の父への手紙も、『孝明天皇紀』に収録されている。

つまり『孝明天皇紀』は、統仁の死んだ日が本当は25日だと、形式上は29日に死んだとしつつ、認めている。

原口清は、1989年に論文「孝明天皇の死因について」を発表し、1990年には論文「孝明天皇は毒殺されたのか」を『日本近代史の虚像と実像1』に書いた。

原口清は、病死説を唱えて、学界に大きな影響を与えたのだが、次にその説を紹介する。

原口清は、孝明天皇が死ぬ直前にかかっていた天然痘について、その病状を、幕末の医者の記述と、現代医学の説く天然痘の重病型から読み解いた。

そして死因を、「天然痘の重症パターンであり、出血型の痘瘡で、かつ扁平型であった」と結論した。

彼は、『孝明天皇紀』にある「12月18日の夜になって、(統仁の体には)2~3ヵ所で痘の色が紫色を呈した」との一文に注目し、「きわめて重大な兆候」と解釈した。

彼は論文『孝明天皇は毒殺されたのか』において、「痘の色が紫に変わるのは、痘瘡内の出血を示すものであり、悪性の兆候である」とした。

さらに「19日の(中山慶子の出した、父である)中山忠能宛ての書簡に、「御山上のご具合、ちと宜しからず」とあるのを、天然痘の扁平型の形成と解釈した。

こうして原口清は、統仁の天然痘は、出血型かつ扁平型の致死率の高い天然痘だと結論した。

しかし、致死率の高い天然痘のパターンだとすると、統仁が22日~24日の夕刻まで順調に回復していた事が説明できない。

そこで原口清は、次のように『孝明天皇紀』を批判する。

「『孝明天皇紀』にある、典医らの報告書は、重大な兆候がその後にどうなったかに触れず、孝明天皇の症状は『しごく静謐』『申し分なし』『ご機嫌よく』と、順調に回復したかのように記している。

痘瘡の紫斑が消えたのならば、書くのが至当であるが、それがない。

(孝明天皇の)下血や扁平型も同様である。

そして報告書は、簡単になり、飲食物のことが多くなる。」

原口清は、山科言成・権中納言の日記の12月21日を重視する。

そこには、統仁の病状が「意外と重い」とある。

また12月23日の中山慶子の手紙に、「一両日は甚だ大事と、医者は言ったそうだ」とあるのを、天皇の死を予測した発言だと解釈している。

原口清の病死説は、私には恣意的な態度に感じられるので、以下にそれを具体的に指摘する。

①侍医の報告書に「2~3ヵ所で天然痘の色が紫色になった」とあるのに注目して、統仁が出血性・膿疱性痘瘡または黒痘で死亡したとしている。

しかしこのパターンの天然痘は、突如として全ての痘内に出血という特徴があり、統仁にはこれがない。

②原口清は、扁平型の痘疱を発生したと解釈しているが、『孝明天皇紀』は19日の朝から「起脹してきた」と明記している。

③中山慶子の12月23日の手紙には、「一昨日より頭のふ(膿)水が出る」とあるが、これは起脹を終えて、灌膿の症状に入ったことを物語っている。

統仁の頭に出たものは、扁平型ではなく、膿水が溜まって破れたものだろう。

④伊良子光孝の書いた『天脈拝診日記』には、次の記述がある。

「12月23~25日は、(侍医たちは報告書を)提出していないが、天皇の症状が安定したから書かなかったのであり、回復していると口頭で報告したのだろう。」

伊良子光孝は、統仁の侍医の1人で統仁の臨終にも立ち会った、伊良子光順の曾孫にあたる医師である。

⑤原口清は、侍医の報告書は途中から簡単になると首をかしげているが、12月23日の診察では、「灌膿もおしまいになり、収靨に明日より取りかかり」とある。

それに定功卿記の12月25日には、統仁が24日から「収靨」だったと書いてある。

私と同様に、原口清の論文(病死説)を批判した先人が、石井孝である。

石井孝は、著書『近代史を視る眼』にこう書いている。

「原口氏は、はじめに悪性の天然痘ありきである。

悪性の天然痘の症状に、孝明天皇の病状を強引に当てはめようとする。

そこで史料の曲解や無視が行われる。

12月17日の中山慶子の手紙にある『大便が少ない』とあるのを、『大便の回数も多すぎる』としているのは、曲解の最もはなはだしい例である。

山科言成の日記にある『存外ご重症』という風説を重視したり、23日の慶子に手紙にある『一両日が甚だお大事と医師が言った』を死の予測と解釈してしまった。」

ここからは毒殺説を本格的に見ていくが、統仁(孝明天皇)が毒殺されたという説は、彼の死の直後から朝廷内で流れていた。

大正5年(1916年)7月に刊行された『中山忠能・日記』では、慶応3年1月4日に「浜来状」、つまり浜から来た手紙が載っている。

浜とは、忠能の子の妾である。

この手紙は、統仁が死んだ10日後に書かれたものだが、統仁の死は天然痘ではなく、「毒を盛られた」とある。

さらに12月25日(統仁の亡くなった日)に、敏宮(統仁の姉である淑子)が見舞いを止められたのに押し切って見舞ったことを、怪しんでいる。

朝彦・中川宮が書いた『朝彦親王・日記』は、慶応3年1月5日において、「亡くなった統仁が人々の前に鍾馗のような姿で剣を持って現れ、4日後に天皇職を継ぐ睦仁がそれを見て発熱した」と書いている。

同年1月12日では、「睦仁が天皇になったところ、統仁の怨霊が昼夜を問わずに現れ、睦仁だけに見えている」と書いている。

続けて「このため長福尼寺の龍山と高峯の2人に、祈禱を頼んだ」と書いている。

昭和5年(1930年)に刊行された『岩倉具視・関係文書』に収録された、具視宛ての千種有文の手紙(慶応3年1月17日付)は、こう書いている。

「新帝(睦仁)には毎夜毎夜、枕元へ何かが来て責めている。

それに悩み、昨日に祈禱を指示されたそうだ。」

イギリスの外交官として日本に来ていたアーネスト・サトウは、1912年になってから『一外交官の見た明治維新』を刊行したが、そこには次の記述がある。

「日本の貿易商人の友人は、孝明天皇の死去を私に知らせて、『たった今、公表されたばかりだ』と言った。

天然痘で死んだということだが、それから数年後に消息に通じるある日本人が、確信したことを私に言うには、毒殺された。

孝明天皇は、外国人に対して、いかなる譲歩も断固として反対した。

そのために、幕府が崩壊して朝廷が西洋諸国との関係に当面するのを予見した一部の人々に殺されたという。」

明治時代になると、明治13年に「不敬罪」が刑法に加わり、日本が敗戦した後の昭和22年(1947年)になるまで廃止されなかった。

不敬罪は、天皇とその家族、神宮や皇陵に対して、不敬の行為をすると成立する罪だった。

明治25年に、ジャーナリストの宮武外骨は、帝国憲法の発布をもじって、頓智研法というものを発表したことから、不敬罪に問われ監視1年の刑となった。

このような抑圧された時代では、孝明天皇の毒殺説は発表できなかった。

上記のアーネスト・サトウの書いた『一外交官の見た明治維新』も、明田鉄男の論文「孝明天皇怪死事件 病死・毒殺説の周辺」によると、昭和13年と18年の翻訳では皇室に都合の悪い所は全て削除された。

しかし戦前においても、昭和15年(1940年)に、大阪の学士会クラブにおいて、佐伯理一郎・博士が孝明天皇・毒殺説を語っている。

その内容は、弟子の中野操が『佐伯先生の事ども』というエッセイに書いている。

「昭和15年7月のある日、伊良子光義・博士が、朝廷の典医だった祖父・光尊(伊良子光順)の日記の一部を皆に見せた。

この日記は、孝明天皇が12月22日、23日に順調な経過をとっている所で、記事が中絶している。

佐伯先生は立ち上がって、この件に追加の話をした。

孝明天皇が痘瘡にかかった機会をとらえて、岩倉具視が『(朝廷に)女官に出ている姪』を使って、天皇に毒を盛ったのである。

公武合体論の天皇が邪魔だったからだ。

自分はある事情で、洛東・鹿ヶ谷の霊鑑寺の尼僧となった当の女性から、その真相を聞いた。

伊良子氏の日記が、肝腎の所で中絶しているのは、毒殺を裏書きする1つの傍証だろう。

当時にあって、この佐伯先生の言葉は、大きな信念と勇気なくしては為せなかった。

我々は、先生の話に非常な緊張をおぼえつつ、その信念に強く胸を打たれた。」

ねずまさしが書いた『天皇家の歴史・下巻』には、(佐伯理一郎の弟子である)中野操の語ったこととして、次の話が出てくる。

「(1945年の)敗戦後、食糧難で霊鑑寺の主人は、所蔵の書画や宝物を売却して食いつないだ。

佐伯博士が私たちと共に、1949年の夏に霊鑑寺を訪問した時、貴重な書類は無くなりましたと言われ、博士は残念がった。」

ここで、孝明天皇・毒殺説で何度も名前が出てきている、公家の岩倉具視のことを書く。

岩倉具視は、元々は公武合体派で、将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚を推進した人だった。

そのために尊王攘夷派から命を狙われた。

しかし徐々に、彼は討幕に傾き、薩摩藩士(主に大久保利通)らと討幕の密謀を進めた。

そして大久保利通らと共に、王政復古のクーデターを行い、幕府を倒して、明治政府の中心人物となった。

佐伯理一郎が「霊鑑寺の尼僧」と述べた女性は、堀河紀子といい、公家の堀河康親の娘である。

岩倉家に養子入りした具視は、紀子の兄である。

紀子は、統仁(孝明天皇)の側室となり、女子を産んでいる。
産んだ子は、いずれも早世した。

堀河紀子は、徳川家茂と和宮の結婚に尽力して、特に勾当内侍の高野房子を動かすことで暗躍した。

岩倉具視と堀河紀子の兄妹は、朝廷内で尊王攘夷派が強まった文久2年の夏に、「四奸二嬪」と呼ばれて、排斥された。

(※この件は将軍・徳川家茂と親子(和宮)の結婚に詳しく書いています。)

堀河紀子は霊鑑寺に入り尼僧になったから、佐伯理一郎の語った孝明天皇の毒殺を証言した霊鑑寺の尼僧とは、堀河紀子のことで間違いないだろう。

しかし紀子は、孝明天皇が殺された時には、すでに霊鑑寺で尼僧をしており、実行犯になったとは考えづらい。

前に触れたねずまさしは、歴史学者だが、1949年7月の『歴史学研究』に、「孝明天皇は病死か毒殺か」という論文を発表している。

石井孝は著書『幕末悲運の人びと』で、この論文を紹介しているので、それを書く。

「ねず氏の研究によれば、孝明天皇は12月24日の夜より下痢となり、吐き気が強く、25日の午前10時頃から容態が悪化したため、(息子の)睦仁が正午前に見舞った。

25日からは、『九穴より脱血、恐れ入る容体』だったという。

医師は手を尽くしたが回復せずで、25日の午後4時には護浄院の湛海が加持に当たった。

25日の午後11時に孝明天皇は亡くなった。

「恐れ入る容体」とあるのは、むごたらしい死に様だった事を暗示している。

ねず氏は毒殺だったと結論しているが、用いている史料は『中山忠能・日記』や『湛海の日記』などで、信憑性の高いものである。

ねず氏は、天皇の病状について、中国の有名な小説『金瓶梅』に出てくる砒霜を使った毒殺と同じであると、指摘している。」

砒霜とは、砒素(ヒ素)の粉を練り固めたもので、無味無臭の猛毒であり、しばしば毒殺に用いられてきた。

江戸時代から戦後のしばらくまでは、砒素は「石見銀山」「猫いらず」と呼ばれて、殺鼠剤として簡単に入手できた。

私は子供の頃に、猫いらずとして砒素入りのダンゴを作らされたが、飼っていた犬が庭の畑にまいたその毒ダンゴを食べてしまい、泡を吹いて死んだ哀しい思い出がある。

ねずまさしの研究の長所は、「湛海・権僧正の日記」を護浄院から入手したことである。

彼が書いた『天皇家の歴史・下巻』から、その日記を見てみよう。

「湛海の日記は、12月18日から始まる。

18日の孝明天皇の病状は、相当に悪かったが、19日に食欲が出始めて、20日には気分が良くなった。

それ以後は、典医が報告したのと同様に、天皇は快方に進み、24日に(湛海の行う)加持は7日目で満願となった。

しかし天皇の妻から、まだ加持に来るよう依頼された。

ところが25日の朝に、急に使者が来て、湛海は急いで参内した。

典医によると、24日の夜から嘔吐と下痢が始まり、また具合が悪い。

そこで湛海が加持したところ、やや持ち直した。

湛海は別室で一休みした後、また天皇の側で加持をしたが、その最中に天皇は亡くなった。」

湛海の日記を見ると、原口清の述べた、天皇が20日から24日までも回復を見せてなかったという説は、成立しない。

原口清は、その論文において、ねずまさしの論文も紹介しており、意図的に湛海の日記を無視したのは明らかである。

ねずまさしの『天皇家の歴史・下巻』は、『中山忠能・日記』の12月28日にある、娘である中山慶子からの文書に言及し、こう書いている。

「その文書によると、『24~25日は、(天皇は)大典侍、大典侍と(呼んで)召したが、側にいなかった。』

『(天皇は)ただただ当惑するばかりで、25日の午後には九穴より脱血』した。

つまり、孝明天皇が重体の時に、側に誰もおらず、加持に呼ばれた僧正(湛海)が祈禱をくり返したのである。」

(※大典侍とは、天皇の側にいる女官たちを統轄する役職である。)

なお「九穴」とは、口、両目、両耳、両鼻、肛門、尿道のことである。

統仁(孝明天皇)は、死ぬ前にはその穴から一斉に血が噴き出す状態になっていた。

ねずまさしの『天皇家の歴史・下巻』を、さらに見よう。

「中国の小説『金瓶梅』には、妻が砒霜を使って、夫に飲ませて殺す場面がある。

その時の夫の死に様は、「肺、心臓、肝臓は焼けて、胸は氷の刃で刺され、からだ全体が冷えて、7つの穴から血が流れる」とある。

7つの穴から血が出るのは、孝明天皇の死と同じである。

金瓶梅が九穴ではなく七穴にしたのは、衣装に隠れている肛門と尿道を省いたのだろう。」

『天皇家の歴史・下巻』は、孝明天皇の毒殺者については、こう指摘している。

「天皇の病状を見ると、犯人は24日に一服を盛った。

岩倉具視とその異母妹の堀河紀子は、かつて『天皇にチン毒を献じて暗殺しようとした』と非難されて、尊王攘夷派から暗殺されかけた事があった。

孝明天皇も態度を硬化させて、岩倉たちを処分している。

従ってこの2人は、天皇暗殺未遂の前科があった。

孝明天皇が幕府のロボットになると、岩倉具視は再びテロルに訴えようとした。

堀河紀子や藤宰相は、岩倉の指令で暗躍し始めた。

また岩倉具視の孫である岩倉具定は、幼時から孝明天皇の側に仕えており、当時は16歳で近臣として勤務していた。」

上にある「藤宰相」とは、高野房子のことで、宮中の奥向きの事務をした人である。

徳川家茂と和宮の結婚では、高野房子は御縁組御用掛を任されている。

彼女は、禁門の変の時に長州藩の側で行動したため、辞職と隠居を命じられ、藤宰相と称することになった。

だから、統仁(孝明天皇)が死んだ時には宮中におらず、自ら毒を盛るのは不可能だった。

だが岩倉具定は、統仁が死んだ時も出仕していた。

田中彰は、著書『明治維新の敗者と勝者』(1980年9月刊行)に、こう書いている。

「孝明天皇が生きていたら、『討幕の密勅』は実現しなかった。

討幕派の公卿を、彼は追放している。

だから討幕派にとっては、新しい天皇が必要で、天皇が痘瘡に感染したチャンスを見て、暗殺したのも不思議ではない。

それは見事に成功し、明治天皇が満14歳で即位すると、追放されていた親王や公卿はいっせいに赦免された。

(追放されていた)岩倉具視たちは、この新しい王の下で、公然と活動を再開した。」

統仁(孝明天皇)が亡くなった時、朝廷を率いる彼によって、岩倉具視や、女官の堀河紀子や高野房子は、辞職・引退させられていた。

だが、まだ朝廷内に長州藩のシンパはいた。

その事は、統仁が慶応元年(1865年)に賀陽宮(朝彦)に出した手紙の、別紙に書いてある。

「高野房子は除いたが、その同類が残っている。

特に(私の)息子・睦仁の養育に関わる者に、問題が多い。

せがれとはいえ、私の手におえない。

下級の女官あたりが、どうにもならず、害の根本になっている。」

すでに書いたが、統仁が急死すると、後を継いだ睦仁(明治天皇)は、父・統仁の怨霊に悩まされた。

これは、統仁の反対勢力に囲まれていた自分を、申し訳なく思ったからかもしれない。

話を岩倉具視に戻すが、彼は引退させられると岩倉村の自宅にこもったが、薩長などの志士を招いて、志士の出入りが多くなっていった。

彼は、自分を引退に追い込んだ尊王攘夷の過激派と交わり始めて、討幕を目指すようになった。

それで慶応2年(1866年)8月30日に、岩倉具視の指示で、姉婿の中御門経之や、大原重徳ら22人の公家が、統仁に次の要求書を突き付けた。

①諸藩をただちに召集すること

②幽閉されている岩倉具視たちを赦免すること

③長州藩の征伐を中止すること

22人の公家には、岩倉具綱(具視の養子)や、岩倉具経(具視の子)も入っていた。

この下からの突き上げ激怒した統仁は、要求を拒否した上で、同年10月27日に22人に次の処分をした。

中御門経之と大原重徳は閉門、他はさし控え。

三条実愛は22人に入っていなかったが、一味として助けたとして、閉門になった。

(※統仁は前述のとおり、この年の12月25日に急死した)

前述した中野操が書いた『佐伯先生の事ども』では、佐伯理一郎は「孝明天皇の典医だった伊良子光尊の日記の一部を見た」と述べている。

伊良子光尊は、正しくは伊良子光順である。

光順の曾孫である伊良子光孝は、光順の日記を元にして、2つの論文を発表している。

①『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』(1975年4月、76年4月に医譚で発表)

②『天脈拝診日記』(滋賀県医師会報の1975年9月号~77年6月号まで)

まず①から紹介するが、著者の伊良子光孝は自身も医者の人である。

①は光順について、こう説明している。

光順は、朝廷の典薬寮の医師である伊良子光通の養子となり、光通の後を継いで典薬寮の医師となった。

典薬寮には20名ほどの医師がいたが、その中でも天皇を診察できるのは数名に限られていた。

光順は孝明天皇の信頼を得て、その後に明治天皇にも仕え、明治4年に宮中を辞するまで25年間も天皇の侍医だった。

もともと伊良子家は、見道斎道牛(伊良子道牛)が江戸時代の初期に長崎でドイツ人のカスパル・スワンヘルヒンから外科医術を学び、子孫たちはこの医術に漢方薬を取り入れた外科医術を持っていた。

統仁(孝明天皇)は、重度の痔を患っており、光順の日記によると時に下血があって、脱肛することもあった。

そこで光順は、手術をすすめたが、関白が「天皇の体に刃物を当てるのは恐れ多い」と言って、許可しなかった。

光順は日記において、朝廷における慣習も書いている。

「医師たちは、天皇に直接話せない。天皇の目前に居ながらである。

天皇と医師の間には、高級女官、御大乳人局、典侍、内侍などが入って、会話が行われる。

天皇が質問をすると、取り次ぐ者がいて、その者が光順に問う。

光順の返答も、同じ順序で天皇へ伝えられた。」

著者の伊良子光孝は、こう解説している。

「朝廷の奥所には、大乳人局、典侍、内侍のほかにも、御末(おすえ)という女官が8名いた。

御末は、天皇へ即答できない身分だが、数名は天皇が寝る時や風呂やトイレの世話をするので、即答が特別に許されていた。

典侍、内侍、御末のうち何人かは、天皇に言われたら夜を共にし、セックスする女性たちである。

この他にも、針妙(裁縫を担当する者)という下級の女中たちがいた。」

光順の日記、および光孝の解説によると、統仁の天然痘の症状は次のように運んだ。

12月12日に発熱。

18日に出物が順症(発疹が順調に経過)。

19日の朝に起脹。

21日に峠を越して、皆がホッとした。後は回復を待つばかり。

24日の夕方に、容体が急変。意識不明に陥ることがしばしば。

容体の急変については、光孝はこう書いている。

「毒物によるのか、天然痘の悪化か、急病の併発か。

真実のところは、医師である私にも判らない。

孝明天皇の存在が、倒幕派にとって障害になっていたにせよ、天皇の毒殺など考えたくないのが私の気持ちである。」

石井孝は、『近代史を視る眼』の中で、こう書いている。

「戦前の天皇制の下では、孝明天皇の毒殺説は国家権力で禁圧されていた。

伊良子光孝は、私にこう語っている。

『父である伊良子光義が医史学会員と共に、孝明天皇の毒殺説を研究していたところ、当局の内偵を受けた』

伊良子光孝が医譚に発表したもの(上記した①『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』のこと)は、伊良子光順の公式の日記である。

光順には、未公開の手記(メモ)もあるが、私が伊良子家を訪問した際も見せてもらえなかった。」

伊良子光孝は、②『天脈拝診日記』では、その手記(メモ)も用いて書いている。

さっそく②の内容を見よう。

「12月23日

痘瘡のたどる良好な経過で、一両日で収靨(天然痘が治る時の最後の段階)になる。

こうなれば回復期となり、後は体力の回復を待つばかりだから、朝廷に明るい空気が流れ始めた。

関白(二条斉敬)は『ご苦労であった』と医師たちに声をかけ、心底から嬉しそうだった。

将軍(徳川慶喜)は、光順の報告を聞いて『ああ嬉しいことよ』と目に涙を浮かべた。

12月24日

昨日と同様に、孝明天皇に元気が出た。

12月25日

朝に少し食欲も出て、ご回復と役所に報告してもいい位だが、慎重を期して一両日後にしようと決めた。」

25日は、この後に統仁の体調が激変して亡くなるが、その記述は無い。

光孝はこう書いている。

「光順のメモでは、容体の急変後の七転八倒の苦しみは、恐懼してか、記述が見当たらない。

次のように記されているだけだ。

『七ッ時(午後4時)頃、痰喘の様子で、医師の一同が呼ばれた。

治療したが、同日の亥刻(午後10時)すぎに亡くなった。』」

②『天脈拝診日記』で注目するのは、25日の朝の時点では、統仁の状態は回復したと役所に報告してもいい位になっていた事である。

②で光孝は、こうも書いている。

「孝明天皇の25日の症状は、医学書で見ると砒素系の急性中毒と類似している。

天皇の口へどうやって毒薬が入ったかだが、医師が調合した薬は、まず上級の女官に渡されて、それが「お差し」に渡される。

お差しはそれを、1つ下の階級の女官に渡す。

その女官が薬を煎じて、お差しへ届ける。

お差しはそれを、天皇の側にいる上級女官に渡す。

上級女官は天皇にそれを渡して、天皇が服用する。

つまり医師の出す薬は、まず下へ3段階で渡され、煎じあがった薬は上へ3段階で戻されて、それから天皇が飲む。

天皇が飲むまでに、最大で6名の手を経るから、毒物を入れる機会は何度もある。」

②『天脈拝診日記』では、こんな話も書いてある。

著者の伊良子光孝が1975年7月に、近江八幡市で伊良子光順について講演した時、当市に住む老婦人がこう言ってきた。

「私の祖母は、孝明天皇に仕えた命婦でした。

私が幼い頃、祖母は父にこう言ったのです。

『孝明天皇さまに〇〇ノ局様が、鴆毒(チン毒)を奉って毒殺したのです』」

光孝は「〇〇ノ局」について、別の機会に「堀川ノ局」(堀河紀子、岩倉具視の妹)だと明らかにしている。

(※堀河紀子は統仁が死んだ時、宮中に居なかったが、宮中にいる者を動かして毒を盛らせたという意味だろう)

②『天脈拝診日記』で、伊良子光孝はこう分析している。

「孝明天皇は1日に3回、薬を服用していた。

だから(光順の書き残したものから考えると)、25日の正午頃の服用で毒が入れられたと見られる。」

石井孝は、著書『幕末悲運の人びと』の中で、こう書いている。

「急性の砒素中毒には、麻痺型と一般的な胃腸型の2つがある。

孝明天皇は胃腸型で、この特徴は激しい下痢・嘔吐で、胃腸の激痛が伴う。

また砒素は、粘膜に対して腐蝕性があり、胃腸などから出血が見られる。

結局は、痛みと脱水で衰弱して、体温や血圧が低下し、脈が弱くなって、一日ないし数日で死亡する。

孝明天皇は、24日の夜より下痢となり吐き気も出た。

そして胃腸の激痛(胸先へ差込が容易ならずと、湛海の日記にある)となった。

脱水して口内は乾燥するが、「痰喘の様子(伊良子光順の日記)」「痰気相募(野宮定功の日記)」となった。

血圧と体温が下がり、脈が弱くなった事は、「脈微細、四肢微冷(野宮定功の日記)」とある。

孝明天皇の症状は、急性砒素中毒と合致している。」

統仁(孝明天皇)が亡くなった2日後の12月27日に、中御門経之が出した、岩倉具視宛ての手紙には、こうある。

「新主(新しい天皇)を補佐(することが)一大事と存ずる。

御一新の政事となれば、皇国の幸せになる。」

中御門経之は、岩倉具視の義兄であり、前述した統仁へ提出した22名が連名した要求書でも名を連ねていた。

経之も、具視も、統仁の命令で失脚していたが、手紙を見ると新天皇になったら復権して補佐役に任命されると決めてかかっている様である。

新しく天皇になる睦仁に付く者たちと、連絡があるのが窺える。

明治維新を決定づけたのは、慶応3年10月に薩長両藩に渡された「討幕の密勅」である。

これは、今日では偽勅と判明しており、書いたのは玉松操で、書かせたのは岩倉具視だったことも明らかになっている。

岩倉具視が「討幕の密勅」という大謀略をした事を考えると、やはり統仁の暗殺の黒幕とも思えるのだ。

1979年に刊行された『幕末の宮廷』は、一条家の家臣だった下橋敬長の講演をまとめたものである。

その解説には、「慶応2年正月、女房次第」として、孝明天皇に付いていた女官のリストが出ている。

石井孝は『幕末悲運の人びと』の中で、このリストにも言及しており、「中御門経之の娘である良子がいる」と指摘している。

統仁が死んだのは慶応2年12月だから、「慶応2年正月、女房次第」の女官リストは、統仁を毒殺した容疑者のリストとも言える。

リストのうち、2名は不在中だったので除ける。

前述した、伊良子光孝の講演に現れた老婦人は、「祖母は孝明天皇の命婦だった」と述べているが、リストに命婦として載っているのは、押小路師武の娘・甫子(59歳)だけである。

「慶応2年正月、女房次第」に出ている女官たち(容疑者リスト)を書く。

中山愛親の娘・積子(72)。

広橋胤定の娘・静子(46)。

甘露寺愛長の娘・尚子(28)。

中御門経之の娘・良子(25)。

中山忠能の娘・慶子(32)。これは睦仁の母である。

滋野井実在の娘・在子(20)。

綾小路有良の娘・長子(19)。

花園公総の娘・総子(20)。

豊岡随資の娘・穆子(24)。

山本実政の娘・鈴子(16)。

千種有顕の娘・芳子(20)。

押小路師武の娘・甫子(59)。

壬生輔世の娘・広子(19)。

鴨脚秀豊の娘・昭子(67)。

東相村の娘・村子(57)。

西師応の娘・賀子(22)。

松宣重吉の娘・恒子(22)。

生島成房の娘・朝子(68)。

(2023年5月23~26日に作成)


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