(『日米同盟はいかに作られたか』吉次公介著から抜粋)
1947年にアメリカのトルーマン大統領は、「トルーマン・ドクトリン」を発表し、ソ連との対決姿勢を鮮明にした。
49年に中国で、中国共産党が内戦を制して中華人民共和国が樹立した。
しかし、蒋介石の国民政府を支援してきたアメリカは、承認を拒否した。
1950年6月に北朝鮮が、武力による朝鮮半島の統一を目指して、韓国に攻め込んだ。
するとアメリカは国連軍を組織して、韓国側で即座に介入した。(※この国連軍は正規のものではない)
この朝鮮戦争には、中国も北朝鮮側で参戦し、途中から米中戦争と化した。
こうした流れの中で、アメリカは、占領している日本での政策を転換した。
日本の占領開始時点では「非軍事化・民主化」を目的に掲げていたが、1948年10月に国家安全保障会議(NSC)が採択したNSC13/2号で「経済復興」に舵を切った。
さらに49年3月にはNSC44号「日本の限定的再軍備」が提出され、日本の再軍備が議論されるようになった。
1949年の秋、米英は対日講和の促進で合意した。
アメリカ政府は、ソ連を排除した形の「片面講和」を追求する方針を固めていた。
アメリカでは、国務省は日本占領の長期化で反米感情が高まるのを懸念し、早期の講和を考えていた。
一方、軍部は日本の米軍基地を自由に使い続けたいために、早期講和に消極的だった。
両者の対立を解きほぐして対日講和を実現させるため、トルーマン大統領は野党・共和党の大物政治家であるジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に登用した。
1950年4月に、吉田茂・首相は、腹心の池田勇人・蔵相をワシントンに派遣し、「日本の独立後も、米軍の日本駐留を認める」とアメリカ政府に伝えた。
この派遣は、対日講和の障害になっている米軍部に配慮するものだった。
だが50年6月にダレスが初来日して吉田と会談すると、吉田は曖昧な態度をしてダレスを苛立たせた。
吉田・ダレス会談の直後に起きた朝鮮戦争は、アメリカの対日政策を大きく変えた。
まず在日米軍が朝鮮に投入されるのを補うため、7.5万人から成る警察予備隊が8月に創設された。(アメリカが日本政府に創設を指示した)
こうして、日本は再軍備の第一歩を踏み出した。
ダレスは対日講和で、アメリカ政府内の合意形成に成功した。
米軍部が同意したのは、ダレスが「講和後もアメリカが望むだけの期間、日本本土のどこにでも望むだけの規模の軍隊を駐留させる」(その権利を獲得する)と説得したからであった。
マッカーサーの原案を基に、国務省と国防総省の調整を経て1950年9月に採択されたNSC60/1号は、こう述べている。
「日本と結ぶ条約は、必要と思われる場所に必要な期間、必要と思われる規模の軍隊を保持する権利をアメリカに与える」
かくして、日本の全土を米軍の潜在的な基地とみなす「全土基地方式」の実現が、アメリカの最重要課題となった。
ここで留意すべきは、アメリカが日本の防衛義務を負うことに否定的だった事だ。
さらにアメリカは、再軍備の加速という「貢献」を日本から引き出すのを狙っていた。
1950年10月に中国が朝鮮戦争に参戦すると、アメリカ政府の日本再軍備を求める声はさらに高まった。
かつては再軍備に消極的だったマッカーサーも、51年1月に警察予備隊の強化をワシントンに提案した。
一方、吉田首相が率いる日本政府は、対日講和が「片面講和」になるのは止むを得ないと考えていた。
日本では社会党らは「全面講和」(ソ連なども含めた講和条約を結ぶこと)を強く主張していた。
吉田は、米ソの対立する中で、ソ連を含む(第二次大戦での)交戦国全てとの「全面講和」は非現実的と判断していた。
日本社会党は、全面講和論と結び付けつつ、日本の中立化と非武装化を目指していた。
講和条約が発効すれば、役目を終えた占領軍(米軍)はただちに日本から撤退するのが原則である。(ポツダム宣言でそう決められている)
しかし吉田政権は、講和後も米軍の駐留を認め、日本の防衛を米軍に委ねる方針だった。
1951年1月にダレスが再び来日し、日米の講和交渉は本格的にスタートした。
1月29日の吉田・ダレス会談で、ダレスは「独立を回復した後、日本はいかなる貢献をするのか」と問い、再軍備を迫った。
吉田茂・首相は、「再軍備は日本の自立経済を不能にする。対外的にも、日本の再侵略を危惧する声がある。内部的にも、軍閥再現の可能性が残っている。」と言い、再軍備は困難であると訴えた。
この発言を聞いたダレスは「すこぶる不興気な顔色を示した」という。
1月31日の吉田・ダレス会談では、ダレスは「何らかの貢献をしてもらいたい」と再軍備を強く求めた。
講和交渉が頓挫するのを恐れた吉田政権は、結局アメリカに譲歩した。
吉田政権は2月2日に、「再軍備計画のための当初措置」という文書をアメリカ側に渡し、講和後に警察予備隊とは別に5万人から成る「保安部隊」と、「国家治安省」を創設することを、提案したのであった。
米軍の日本駐留の継続についても、協議が進められた。
日米政府は、「駐留米軍の条約(日米安保条約)は講和条約とは切り離すこと、その条約は簡潔な内容にし、詳細は政府間の別の協定で定めること」で合意した。
日米政府は、在日米軍の日本防衛義務をめぐっては衝突した。
日本側は、国連憲章の第51条を根拠とする「集団自衛」の関係に日米が入ることを規定しようとし、集団自衛の関係にあるから在日米軍を認めるとの体裁をとることを主張した。
これは、日米安保条約を国連の枠内に位置づけることで、日米の対等性を確保しつつ、憲法問題を克服しようという意図であった。
日本の防衛義務を負いたくないアメリカ側は、この訴えを峻拒した。
その言い分は、十分な軍備を持たない日本とは集団自衛の関係になれないというものだった。
根拠にしたのは1948年にアメリカ上院が決議した「ヴァンデンバーグ決議」で、そこでは「継続的で効果的な自助および相互援助をアメリカに提供できる国としか集団自衛関係に入らないこと」を定めていた。
アメリカ側は、再軍備しなければ日本の防衛義務を負わないとの論理を展開したのであった。
最終的に、日米安保条約の条文では、米軍は「極東における国際平和と安全の維持に寄与し、日本の安全に寄与するために使用することができる」と定められた。
これは条約上は、在日米軍が日本の防衛義務を負っていない事を意味していた。
交渉にあたった西村熊雄・外務省条約局長は、「(日本防衛の)確実性が条文に出ていないとの批評に頭を下げるのみである」と、失敗を認めている。
1951年9月に、サンフランシスコのオペラハウスで、49ヵ国がサンフランシスコ講和条約に調印した。
この条約は、日本と連合国との戦争状態の終結を定めると同時に、連合国による日本占領の閉幕を謳うものであった。
(※これは片面講和であり、ソ連や中国は参加していません)
この条約は翌年4月に発効し、日本は7年におよぶ占領から解放されることになった。
通常、敗戦国には懲罰的な講和条約になることが多い。
だがサンフランシスコ講和条約は寛大だった。米英などが日本への賠償請求を放棄した点は象徴的である。
これはひとえに、米ソの冷戦の始まりによるものだった。
華やかな講和会議が幕を閉じた直後(サンフランシスコ講和条約が調印された直後に)、米軍の第6兵団駐屯地プレシディオで、日米安全保障条約は(密約的に)調印された。
日本側を代表して安保条約にサインしたのは、吉田茂・首相ただ1人であった。
その後、在日米軍の細かな条件は、1952年2月に調印された日米行政協定で取り決められた。
この協定の交渉では、アメリカ側の言い分がかなり通り、「全土基地方式(日本全土を潜在的な米軍基地とする方式)」での米軍駐留が決められた。
アメリカ側に押しまくられた交渉となり、西村熊雄(外務省の条約局長)は「思い出して面白くない交渉」と書いている。
米軍の日本防衛義務が明記されてない安保条約と、全土基地方式が貫かれた行政協定について、日本では「対等性に欠ける」との激しい批判が起きた。
野党の社会党も大きく揺れ、講和賛成・安保反対の右派と、両条約に反対する左派が対立した。
そして51年10月に社会党は分裂してしまった。
講和・安保条約の交渉で吉田政権が譲歩をした結果、安保条約には大きな問題点が内包する事になった。
それは、在日米軍はアメリカが日本に与える「恩恵」であり、日本はそれに見合うアメリカへの「貢献」を求められる、という論理構造が埋め込まれた事である。
西村が指摘しているように、「アメリカが暫定措置として軍隊を置いて日本を防衛してあげる」というものになってしまった。
日本が求めていた対等の条約にならなかったのは、日米の力関係とヴァンデンバーグ決議を駆使したダレスの巧みな交渉術によると思われる。
さらに、交渉に先立って吉田政権が(池田勇人を訪米させて)予め米軍駐留の継続を申し出ていた事も無視できない。
ここまで述べてきた経緯から分かるとおり、日米安保条約の生みの親はダレスと吉田である。
だが近年の研究で、もう1人、大きな役割を果たした人物が浮かび上がってきた。
裕仁(昭和天皇)である。
裕仁は、1947年5月のマッカーサーとの会談で、「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国がイニシアチブを執ることを要する」と発言している。
同年9月には、マッカーサーに「沖縄を軍事基地として、長期にわたってアメリカに貸与する」とのメッセージも伝えている。
裕仁は51年2月にダレスと会談した際、日米安保の構想に「衷心からの同意」を表明した。
また安保条約の調印にあたっては、マッカーサーの後任であるリッジウェイ連合国最高司令官との会見で、「条約成立は慶賀すべきことである」と語った。
こうした裕仁の安全保障観は、反共意識と表裏一体であった。
彼は共産主義を恐れていた。
(共産主義国になると王族や貴族は廃されるので、それを恐れたのである)
(2019年4月2&5日に作成)