日米安保条約と行政協定と密約

(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)

日米政府が結んできた密約は、大きく分けると2つになる。

① 米軍が、日本の基地を自由に使うための密約 (基地権の密約)

② 米軍が、日本の軍隊を自由に使うための密約 (指揮権の密約)

日本政府は、①については核兵器の地上配備を除いてはほぼ全てを呑んだ。

②については、自衛隊が戦時には米軍の指揮下に入ることを認めたが、行動範囲は(新安保法制ができる2015年までは)国内にとどめた。

日米政府の密約は、ほとんどの研究者が基地権のほうを取り上げてきた。

なぜなら指揮権のほうは、日本が海外に派兵せず専守防衛しているなら、米軍のいる日本に攻めてくる国はいないので、戦時にならない(指揮権密約が発動しない)からである。

ところが安倍・自公政権が2015年に成立させた新安保法によって、状況は一変した。

「指揮権の密約」を残したまま日本が海外派兵すると、自衛隊が米軍の指揮下で軍事活動する可能性や、知らないうちに戦争の当事国になる可能性が高まってしまう。

安倍内閣が安保関連法案を国会に提出したとき、「個別的自衛権の範疇か、集団的自衛権なのか」で議論が起きた。

しかしアメリカの公文書で確認されている日米密約の1つを知れば、あの時の出来事の本質が簡単に理解できる。

その密約は1952年7月と54年2月に吉田茂・首相が口頭で結んだもので、「戦争になったら日本軍は米軍の指揮下に入る」という内容である。(統一指揮権の密約)

この密約は、その後の自衛隊の創設から今回の安保法の成立まで繋がっている。

今までの密約では、米軍の指揮下に入るのはあくまで日本とその周辺であった。

ところが2015年の新安保法は、地域のしばりを外して、自衛隊が世界のどこでも米軍の指揮下で戦争できるようにした。

ジョン・フォスター・ダレス(日米安保条約の締結を主導した人物)が、「6・30メモ」(1950年6月30日付のメモ)で設定したトリックは、こうだった。

『日本がアメリカとの間に「国連憲章の特別協定のようでそうじゃない安保条約」を結び、「国連軍のようでそうじゃない米軍」を支援する』

このトリックを使って日本に義務づけようとしたのが、「兵力」「援助」「便益」の3つである。

兵力と援助は「指揮権」、便益は「基地権」に繋がる。

基地権を日本を提供させるためにダレスが構築したのが、次の4つの密約だった。

①平和条約(サンフランシスコ講和条約)

②安保条約

③行政協定

④日米合同委員会での密約

指揮権については、吉田茂・首相が口頭で結んだ「統一指揮権の密約」や自衛隊の現状から、取り決めがあるのは分かりつつ、どのような条文か分からなかった。

ところが指揮権密約の謎を追ううちに、「吉田・アチソン交換公文」と「国連軍地位協定」がそれだと知った。

この事実は、末浪靖司の『対米従属の正体』と吉岡吉典の『日米安保体制論』という本で知った。

さらに、国連軍地位協定に関する「合意議事録」という文書に、指揮権のカギがあることを、笹本征男の『朝鮮戦争と日本』で知った。

この3人の先行研究により、指揮権密約の法体系の存在が、次のものだと確認できた。

①平和条約(サンフランシスコ講和条約)

②吉田・アチソン交換公文

③国連軍地位協定

④日米合同委員会での密約

⑤日米安全保障協議委員会(ツー・プラス・ツー)での密約

日米政府の『指揮権の密約』(戦争になったら日本軍は米軍の指揮下に入るという密約)は、吉田茂が首相だった時に、口頭で結ばれた。

その元になった文書は『日米安全保障協力の協定案(旧安保条約の原案)』で、第8章2項には「戦争になったら、警察予備隊ならびにすべての日本の軍隊は、米軍の指揮下で戦うこと」と「戦争になったと判断するのは米軍司令官であること」が書かれている。

2015年の安保法案の審議を思い出してほしい。

国会で野党議員が「どのような事態の時に、日本は海外で武力行使できるのか」「存立危機事態とは、具体的にどのような事態ですか」と何度も訊いた。

安倍首相や中谷防衛大臣は、最後まで何も答えられなかった。

その理由は、『指揮権の密約』を知れば一目瞭然である。
判断は、アメリカ政府がすることなのだ。

「戦争になったら、警察予備隊ならびにすべての日本の軍隊は、米軍の指揮下に入る」というのは、1951年2月2日にアメリカが提案してきた。

吉田茂・首相らは、来日したジョン・フォスター・ダレス国務省顧問と交渉中だった。

この提案(日米安全保障協力の協定案)は、日本が再び軍隊を持つこと(再軍備)が予言されていた。

これに驚いた吉田茂と外務省は、「こんな取り決めを国民に見せることはできない、削除してほしい」と交渉し、旧安保条約や行政協定には入らなかった。

しかし52年7月23日に、吉田茂は口頭で「戦争になったら、日本軍は米軍の指揮下に入る」と密約した。

実は、1951年1月から52年2月まで続いた、平和条約・安保条約・行政協定をめぐる1年間の日米交渉では、日本側は連戦連敗だった。

国際法の権威であるダレスが次々と繰り出す(騙しの)テクニックに対応できず、アメリカ側の思い通りの条約を結ばされた。

当時の外務省条約局の担当者たちは、それを詳しく記録して残した。

条約局長だった西村熊雄は、全交渉過程を20年以上かけて全5巻の『平和条約の締結に関する調書』にまとめている。

この調書が一般公開されたのは2001年で、現在では外務省のホームページで誰でも読むことができる。

読むと分かるのは、何度も騙されたあげく敗れ去る日本の外交官たちの姿である。

『平和条約の締結に関する調書』を読むことで、私たちはなぜ対米関係でこれほど理不尽な状況に置かれているかと、どうすればそこから脱却できるかが見えてくる。

旧安保条約(1951年9月に結んだ最初の安保条約)の原案(日米安全保障協力の協定案)の第8章(※上記の内容、戦争時に日本軍は米軍の指揮下に入る)について、西村熊雄は上で触れた『調書』の中で、「一読不快の念を禁じえなかった」と表現している。

原案を51年2月2日にアメリカから示され、ショックを受けた西村たちは、その日に修正意見をまとめ、翌3日に吉田首相と協議したあと、アメリカ側に次の4点の修正を求めた。


日本の再軍備と統一司令部(統一指揮権)が書かれた第8章は、まるごと削除してほしい


占領の継続という印象を与えないため、在日米軍の特権については条文に書かないでほしい


この協定が両国の合意に基づくものにするため、米軍駐留について「日本が要請してアメリカが同意した」という表現ではなく、「両国が同意した」に変えてほしい


米軍が平和条約の発効後も日本に駐留することは、平和条約には書かないでほしい

(※当時の日本は米軍の占領下で、まだ平和条約が結ばれていない)

③はアメリカが最も重視するポイントだったので、あっさり拒否された。

④は、「平和条約の発効後すべての占領軍は90日以内に日本から撤退するが、二国間協定に基づく外国軍の駐留をさまたげるものではない」と、平和条約に書くことになった。

実は、西村熊雄たちは知らなかったが、『外国軍の駐留を平和条約に書く』というのは、吉田首相が前年5月に池田勇人・大蔵大臣を派遣してアメリカに伝えていた。
(これも1つの密約だろう)

そうしておけば「米軍の駐留継続は憲法違反だ」という批判に対して、「平和条約は憲法に優先する」という論理で押し切れると考えたからだ。

①の日本の再軍備と統一司令部(統一指揮権)については、前年6月に起きた朝鮮戦争後、日本はアメリカから「再軍備して、朝鮮で戦う米軍を援助しろ」とずっと圧力をかけられていた。

しかし、わずか3年9ヵ月前に憲法9条を持ったばかりで、すぐに再軍備は国民が納得しない。

そこで吉田茂たちは、重大な提案を2つ、51年2月3日に(上記の修正を求めた日に)アメリカ側に文書で行った。

1つ目の提案は、「第8章は削除したいが、それは日本が再軍備して戦争するのを拒否することではない」だった。

そして『再軍備の発足』という文書において、自衛隊の前身である「保安隊(5万人)」の発足を約束した。

『再軍備の発足』には、こう書いてある。

「新たに5万人の保安隊をもうける。

これは警察予備隊や海上保安隊とは別のカテゴリーとして、訓練も装備もより強力にし、計画中の国家保安省に所属させる。

この5万人をもって、再建される民主的軍隊の発足とする。」

こうして軍隊の発足が、密約として決まった。

この1951年2月3日の密約によって、憲法9条2項の解釈改憲はすでに行われていたのである。

そして2015年9月に、安倍晋三・自公政権によって、安保法制が改定されて「海外派兵」が認められ、9条1項も解釈改憲されてしまった。

吉田茂がした2つ目の提案は、「在日米軍や日本の再軍備については、共同委員会(のちの日米合同委員会)を大いに活用すべきである」だった。

これが、日米合同委員会の起源である。

多くの日本人が不快と感じる事を、ブラックボックス(秘密会議)で処理しようという提案だった。

ダレスは吉田の提案を受けて、新しい方針を打ち出した。(1951年2月5~6日に)

日本の再軍備と、日米の統一指揮権について、可能な限り文書化し、それは秘密協定にして安保条約から切り離すことを決めた。

この秘密協定こそが『行政協定』で、この時点で安保条約の原案(日米安全保障協力の協定案)は2つに分割され、『安保条約』と『行政協定』が生まれることになった。

もともとダレスが日米交渉を行う許可を(トルーマン大統領から)得たのは、1950年9月8日だった。

この日、トルーマン大統領は「日本のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊を置く権利を獲得すること」を、日米交渉の基本方針として決定している。

もちろん独立した国家にそんな権利を認めさせるのは、国連憲章にもポツダム宣言にも違反している。

だからダレスは、51年1月26日(来日した翌日)のスタッフ会議で、「日本にこれを飲ませるのは非常に難しい」と発言していた。

だが、その難しいと思われた条件を、日本側(吉田首相)の提案を元にした「行政協定+日米合同委員会」というやり方(密約)で成功させた。

日本側がその条件を受け入れた直後(2月5日)に、ダレスは「非常に寛大な平和条約」の草案を示し、その方針を確定させた。

西村熊雄はこう回想している。

「日本が独立を回復した後も、米軍が駐留することが確実になった後で、アメリカは平和条約の構想を明らかにした。

その平和条約案はきわめて寛大で感銘は大きかった。」

『寛大な平和条約によって、常識外の軍事特権を獲得する』というアメリカの戦略に、日本の外交官はまんまと誘導されていったのだ。

ダレスは1951年2月6日に、日本側に「平和条約・安保条約・行政協定」の3本立ての原案を示し、9日に日米でサインされた。

それから7ヵ月後の51年9月に、ダレスはサンフランシスコに52ヵ国の代表を集めて、対日の平和条約を成立させた。

ダレスはこの成功によって外交官としての評価を高め、1年4ヵ月後にアイゼンハワー政権で国務長官に任命された。

そして同時期にCIA長官になった実弟のアレン・ダレスと二人三脚で、国際政治を操っていく。

ダレス兄弟は、徹底した反共思想の下、世界中で軍事同盟を結び、気にくわない外国政府を転覆させていった。

吉田茂・政権は、『岡崎・ラスク交換公文』を交わして、基地権(在日米軍の特権)について全面的に譲歩した。

交換公文とは、国家間でかわす合意文書の1つで、往復書簡の形式で書き、それぞれがサインする。
公けに発表しないので、密約となるケースが多い。

『岡崎・ラスク交換公文』は、岡崎勝男とディーン・ラスクがサインしたものだが、米軍の日本占領が終わった後の事について決めたものだ。

(岡崎は当時、吉田茂・首相の右腕だった人物)

この交換公文は密約として処理されたが、後に首相にもなる宮澤喜一が著書『東京ーワシントンの密談』に書いて、一般公開した。

宮澤は本の中でこう語っている。

「占領軍は、平和条約の発効後に90日以内に日本から撤退しなければならないと、平和条約(第6条)に定められていた。

だが、『岡崎・ラスク交換公文』で骨抜きにされてしまった。

私は、折衝中の行政協定の草案を見たが、次の規定があった。

『アメリカは、駐留を希望する地点(基地)について、平和条約の発効後90日以内に日本側と協議し、同意を得なければならない。

ただし90日以内に協議がととのわなければ、ととのうまで暫定的にその地点にいてよろしい。』

協議がまとまるまで居ていいのでは、90日と日を限った意味がない。

非常に驚いて、この規定を削るよう外務省に申し入れた。

ところが再び驚いたのは、この規定は行政協定からは姿を消したが、『岡崎・ラスク交換公文』に入っていた

それを知った時には、すでに行政協定は両国の間で調印を終わっていた。」

日米の軍事における統一指揮権の条文をめぐっては、日米の行政協定の交渉として、平和条約と旧安保条約の調印(1951年9月)が終わってからも、翌52年2月まで協議が続いた。

最終的に統一指揮権は、行政協定の条文には入らなかったが、その理由はアメリカ国務省の報告書にはこうある。

「もしその条文を公表した場合、次期総選挙で最も親米的な吉田政権が敗北するのは確実だった」

統一指揮権が記述されなかった事について、交渉責任者だったディーン・ラスク国務次官(特別大使)は、ワシントンに公電で52年2月19日にこう説明している。

「(統一指揮権については)簡潔で一般的な文章で書いておき、詳細は後日に協議するほうが、日本国内の論争も抑えられ、憲法問題も起きないでしょう。

我々の国益も最も得られます。」

統一指揮権の条文が無かったのは、アメリカ側の譲歩ではなく、逆に考え抜かれた一手だったのである。

ディーン・ラスクは後に、長く国務長官(1961~69年)を務めることになった。

ラスクは日米のトップが協議して決める、現在の「ツー・プラス・ツー」のような構想を考えていた。

この構想は、1960年の安保改定時に実現することになった。

条文は作られなかったが、日本の独立から3ヵ月後の1952年7月23日(保安隊が発足する3ヵ月前)に、吉田茂・首相は口頭で、1回目の『統一指揮権の密約』を結んだ。

この密約の3日後(7月26日)に、アメリカの極東軍司令官だったマーク・クラーク大将は、本国の統合参謀本部にあてて報告書を送っている。

この文書は、古関彰一が1981年にアメリカ国立公文書館で発見した。

マーク・クラークは、こう報告している。

「私は7月23日の夕方、吉田首相、岡崎外相、マーフィー駐日アメリカ大使と、自宅で夕食を共にした後、会談した。

私は、有事の際の指揮権について、日本政府との間に明確な了解が不可欠だと説明した。

吉田はすぐに、有事の際は単一の司令官が不可欠で、現状ではその司令官はアメリカが任命すべきである事に同意した。

吉田は続けて、この合意は日本国民に与える衝撃を考えると、秘密にすべきであるとの考えを示し、マーフィーと私は同意した。」

米軍の司令官が、首相や外相を自宅に呼んで話をしている事に驚かされる。

クラークは3代目の国連軍(朝鮮国連軍)の司令官であり、ミニ・マッカーサーの様な権威があったのかもしれない。

この文書は、国と国が正式にサインしたものではなく、ただの機密公電だが、指揮権で密約した事を証明している。

統一指揮権は、1954年2月8日に、吉田茂が2度目の口頭密約をした。

それは、54年2月17日にアメリカ下院の外交委員会でジョン・アリソン駐日大使が証言している。

「1週間前(2月8日)の夜、ジョン・ハル将軍と私が吉田茂・首相に離日の挨拶をした時に、吉田がこの問題を取り上げました。

彼は米軍との共同計画について、日本の担当官がアメリカの担当官と作業を始めると言いました。

これは日本の政治状況により公表はできないが、吉田首相は有事の際に最高司令官がアメリカ軍人になる事は全く問題ないとの個人的保証を、我々に与えました。

ハル将軍は極めて満足し、公然たる声明や文書を要求しないと述べました。」

私の友人に、自衛隊の方が何人かいる。

彼らに話をきくと、こう証言する。

「自衛隊は防御を中心とした編成だが、守っているのは日本の国土ではなく、在日米軍と米軍基地だ。それが現実の任務だ。

自衛隊の持つ兵器は、ほぼ全てがアメリカ製で、データも暗号もGPSもすべて米軍とリンクされている。

だから最初から米軍の指揮下でしか動けない。
そのように設計されている。」

1950年10月27日に米軍(国防省)がつくった安保条約の原案(安保条約・国防省原案)には、第14条にこう書かれている。


この協定(安保条約)が有効な間は、日本政府は陸海空軍を創設しない

ただし、アメリカ政府の助言と同意が伴い、アメリカ政府の決定に完全に従属する軍隊を創設する場合は例外とする


戦争または戦争の脅威が生じたと、米軍の司令部が判断した時は、すべての日本の軍隊はアメリカ政府の任命した最高司令官の統一指揮権の下に置かれる


日本軍が創設された場合、日本国外で戦闘することはできない

ただし、アメリカが任命した最高司令官の指揮による場合は、その例外とする

今の自衛隊は、この原案のとおりになりつつある。

この原案をまとめたのはカーター・マグルーダー陸軍少将だが、彼は1951年1~2月のジョン・フォスター・ダレスの来日使節団に主要スタッフとして参加し、吉田・ダレスのトップ会談にも参加している。

そして時にはダレスの言葉をさえぎってまで、軍部の要求を条文に反映させようとした。

「安保条約・国防省原案」に一部修正を加えたものが、1951年2月2日にダレスが日本側に提示した「安保条約のアメリカ側原案(日米安全保障協力の協定案)」である。

つまり、(日米安全保障協力の協定案を基に、旧安保条約と行政協定は生まれたので)旧安保条約と行政協定の執筆者は、マグルーダーなのだ。

すでに説明したように、②の『統一指揮権』については、吉田首相がアメリカ政府と口頭で密約している。

これを考えると、①と③についても密約で担保されている可能性がある。

(2019年3月に作成)


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