片山内閣と芦田内閣

(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)

日本国憲法(新憲法)が公布された1946年11月あたりから、吉田内閣は賃上げなどを求める労働組合の攻勢に直面し、危機的な状況になった。

吉田茂・首相は、労働組合に影響力を持つ社会党との連立を目指す一方、労組の要求は拒否を貫いた。

二・一ストは占領軍の中止命令で回避されたが、47年2月以降、吉田内閣の支持率は急降下し、マッカーサーは総選挙を指示した。

こうして47年4月に、戦後2度目の総選挙が行われた。

この衆院選挙では、社会党が143議席で第1党となり、131議席の自由党、121議席の民主党が続いた。

同時に行われた第1回目となる参議院でも、社会党は47議席で第1党だった。

(※旧憲法では参議院は無く、貴族院が置かれていた)

労組に対し強硬策一点張りの吉田内閣は、労働者のみならず、財界やGHQも批判していた。

さらに収まる事を知らないインフレも、吉田内閣はむしろ容認し、中小企業や一般国民よりも大企業や金融資本の側に居た。

こうした政策の転換を国民が求めたことが、社会党が勝った最大要因だった。

とはいうものの、社会党が衆院で得た議席は全体の3分の1にも満たず、連立は必至であった。

連立内閣の話し合いは、社会党・自由党・民主党・国民協同党の4党で行われ、5月16日にいったん政策協定が成立した。

その内容は、①計画経済の実施 ②重点産業の採用 ③重要産業の国家管理の実行 ④金融の統制 ⑤賃金と価格の統制 ⑥配給割当の実施 などである。

社会党の公約である国有化や全面的な国家管理は盛り込まれなかった。

しかし自由党は結局、連立に入らず野党になる道を選んだ。

この結果、自由党を除く3党で連立内閣を発足させる事になり、5月23日に社会党・委員長の片山哲が首相に指名された。

閣僚配分は、社会党7、民主党7、国民協同党2である。

社会党の左派は1人も入閣しなかった。

片山内閣の使命は、「日本国憲法の施行を受けた関連法の整備」「インフレ対策」「経済の安定」であった。

まず新憲法の施行(5月3日)と同時に、国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法が施行された。
これらは前内閣ですでに準備されていたものだ。

片山内閣では、不敬罪と姦通罪の廃止を含む「改正刑法」、「戸主制度の廃止」、男女同権を定めた「改正民法」、近代的な公務員制度にする「国家公務員法」、「労働省の設置法」などが成立した。

また、「内務省の廃止」や「分権的な警察制度」も行った。

経済の安定については、経済安定本部を中心にして、計画経済を目指した。

(経済安定本部は1946年に設置され、統制経済の緩和と共に52年に廃止された)

計画経済の象徴が、吉田内閣の末期に採用された「傾斜生産方式」の引き継ぎと、石炭産業の国家管理をめざす「炭鉱国家管理法」であった。

(傾斜生産方式とは、石炭業と鉄鋼業に重点的に力を注ぐ政策である)

炭鉱国家管理法は、炭鉱資本家を守ろうとする民主党に社会党が譲歩し、大きく後退する内容となって決着した。

結局12月10日に公布されたが、ほとんど効果なく50年5月に死滅する事になる。

炭鉱国家管理法に反対した民主党の反主流派は、脱党して自由党と提携した。

また10月にはGHQの圧力で社会党右派の平野力三・農相が罷免されたが、これを不満とする平野派が脱党した。

そして後任農相人事をめぐり、入閣を許されなかった社会党の左派が、党内野党の宣言をした上に、48年1月の党大会で4党政策協定を破棄させた。

こうして片山内閣は満身創痍となり、48年2月10日に総辞職となった。
わずか9ヵ月で崩壊したのである。

後継の首相は、GHQ左派の後押しもあって、民主党総裁の芦田均が指名された。

48年3月10日に組閣したが、閣僚配分は民主6、社会8、国民協同2であった。

片山内閣の成立時には、連立与党は衆院で307議席(定数466)を占めていたが、内紛で脱党者が続出した結果、芦田内閣の成立時は245議席に減っていた。

だから芦田内閣は、最初から不安定な状態だった。

芦田内閣は、発足直後の公務員の賃上げストライキ(3月闘争)を、GHQのスト禁止覚書の力で切り抜けた。

7月22日には政令201号を公布して、公務員の争議権(スト権)を奪ったが、これもGHQの命令であった。

7月に、西尾末広・副総理が土建献金問題で辞職した。

さらに昭和電工の汚職事件で、栗栖赳夫・経済安定本部長と西尾・前副総理が逮捕されるに至って、10月7日に内閣は総辞職した。

片山内閣と芦田内閣は短命に終わったが、それは3党の連立だった事と、アメリカの占領政策の変更(逆コース)が一因だった。

(『サンデー毎日2019年10月20号』保阪正康の記事から抜粋)

日本を占領した米軍が最初に手をつけた民主化政策の1つは、政党政治の復活であった。

敗戦から3週間後の1945年9月6日には、旧民政党系の政治家らが会合し、保守政党の創立を画策し始めた。

社会党の結成の動きも同時期に始まり、社会民衆党の片山哲や原彪などが会合している。

片山哲らは旧無産党や革新系も取り込み、45年11月2日に日本社会党が結成された。

この政党は、社会主義体制を目的としたが、寄り合い所帯としてスタートし、どのような体制を目指すかが曖昧だった。

代表のポストは空席で、一説には旧華族の徳川義頼の名も考えられたという。

社会党の書記長には片山哲が就き、常任委員会は10人で構成された。

その10人とは、浅沼稲治郎、西尾末広、加藤勘十、杉山元治郎、鈴木茂三郎、河野密、水谷長三郎、黒田寿男、野溝勝、平野力三である。

さしあたりこのメンバーが社会党を動かすことになったが、その政策は「鉄鋼、石炭、電気など基幹産業の国有化」を謳うなど、保守政治とは異なっていた。

しかし、その後の社会党の分裂や抗争は、大体がこの10人の系譜を引く者によって演じられる事になる。

この新しい党は、意外なほど早く政権を獲った。

1947年4月25日の衆院選で、社会党は143議席で第1党となったのである。

だが第2党の自由党が131議席、第3党の民主党が124議席と、社会党が単独で組閣できる状況ではなかった。

社会党は1ヵ月余をかけて、民主党、国民協同党との連立政権を成功させた。

だが民主党内では連立賛成派と反対派が争う結果となり、連立がすんなりいったわけではなかった。

結局、首相は片山哲、外相は芦田均、蔵相は矢野庄太郎、法相は鈴木義男となり、主要閣僚は各派で分ける形となった。

こうして日本は、社会主義の可能性を確かめることになった。

この連立内閣は9ヵ月で倒れるのだが、それは連立政権の難しさを露骨に示していた。

社会党左派の鈴木派や加藤派は、民主党右派の幣原派と全く合わなかった。

首相の片山哲は穏健なクリスチャンであり、社会党左派の考えに馴染んでなかった。
そんな哲を支えたのは、社会党右派の西尾末広であった。

社会党を中心とした片山連立内閣は、目玉の政策として炭鉱の国家管理(炭鉱国家管理法)を実現しようとした。

ところがこれに民主党が反対し、国家が炭鉱を管理する期間をできるだけ短くしようとした。

ここで社会党に意外な援軍が付いた。GHQのマッカーサー元帥である。

片山首相は、その後押しを受けて法案を成立させたが、法案通過に3ヵ月も要することになった。
しかも民主党の幣原派は、法案に最後まで反対を続けた。

だが片山内閣が潰れたのは、民主党のせいではなかった。

幣原派の離反はあったが、芦田派などは政権を支えていたし、国民協同党の三木武夫も支えていた。

倒閣に追い込んだのは、社会党の左派であった。

47年12月10日から始まった通常国会では、第3次の補正予算が提出された。

それは鉄道や郵便などの値上げをし、それを国家公務員のベアに使おうという狙いであった。

ところが鈴木茂三郎の一派は、「こうした値上げをせずとも他に財源がある。補正予算の組み替えをせよ」と要求した。

社会党執行部の西尾末広らは懸命に説得したが、鈴木派は譲らない。

茂三郎に代表される党内左派は、片山内閣が民主党に遠慮するあまり、労働階級政党の矜持を失いつつあるとイラ立っていたのだ。

この時、茂三郎は予算委員会の委員長だった。

結局、予算案の撤回を求める動議は1票差で可決し、政府は予算撤回を決め、片山内閣は48年2月10日に総辞職した。

この内閣は、社会党左派によって潰されたと言っていい。

そして社会党の内部抗争は、この時から続いていった。

昭和の後期は、社会党が野党勢力の中心であり続けたが、その野党勢力の抗争を整理してみると、次の2つから成っている。

1つは、理論上の対立であり、暴力革命を是認するか否かや、社会党は労働階級の政党なのか国民政党なのかという論争である。

もう1つは、戦前からの無産運動家と戦後の新しい活動家の対立であった。

戦前からの代議士たちは、したたかで妥協も恐れなかった。
ところが戦後に出てきた労働組合出身の代議士たちは、妥協を廃して全てを理論的に考えた。
そこに対立が生まれたのだ。

(2019年11月14~15日に作成)


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