公職追放③
A~G項の追放該当者、政界での影響

(『戦後秘史・第6巻』大森実著から抜粋)

「ホイットニー旋風」と呼ばれた『公職追放』は、1946年1月4日に通告された。

当時の日本国民は飢餓のどん底生活で、敗戦で生きる目標を失い、まことに陰気な正月を迎えたばかりであった。

終戦連絡事務局の政治部長である曾禰益は、GHQの民政局(GS)から「重大な命令があるから来い」と呼び出された。

そこで受け取ったのが、英文のSCAPIN550号および548号の2つの指令書(公職追放の指令書)だった。

GS局長のコートニー・ホイットニー代将は、曾禰益に厳しく宣言した。

「これは戦争を指導してきた者どもを、日本政府の司令ポストから追放する指令だ。

日本国民を奴隷化し、世界も奴隷化しようと企てた連中を、一挙にぶっとばす指令だ。

彼らの行動も野望も手口もみんな分かっている。
調べがついているんだ。

日本人の手で、大掃除をしてもらいたい!」

この日、国会で第1党の進歩党は、東京の党本部で新年会を開き、ヤミ酒を飲み交わす計画を立てていた。

そこにこの急報が入り、新春の宴は一瞬にして暗い通夜に変わった。

幣原喜重郎・首相にも指令が知らされたが、病床の彼は「吉田茂(外相)を呼べ」と叫んで絶句した。

翌5日に、緊急閣議が開かれ、吉田茂・外相をGHQに派遣してから対策を立てる事になった。

『公職追放令』は、A項からG項までの7項目で、追放該当者を指定していた。

A項は、戦争犯罪人を獲物にしていた。

すでに1945年9月11日に、東條英機に逮捕令が出されて、自殺を図った英機は重体となって病院に収容されていた。

皇族で最長老の守正(梨本宮)は巣鴨拘置所に収監されたし、45年12月16日には元首相の近衛文麿は青酸カリで自殺していた。

裕仁(昭和天皇)の側近ナンバーワンの木戸幸一も、巣鴨拘置所入りしていた。

追放令A項は、逮捕漏れの戦争犯罪人たちを公職から追放するものであった。

B項は、職業軍人、特別警察の職員、官吏を狙っていた。

これは、特務機関員も含まれていた。

C項は、国家主義団体と暴力団体、テロ団体などを指定していた。

そこには玄洋社、黒龍会、大日本生産党が入っており、ウルトラ右翼として追放指定された。

D項は、大政翼賛会、翼賛政治家、大日本政治会の有力メンバーが指定された。

この3つの政治会は、すべて戦争協力組織であるが、ここに入っている者が幣原政権を支えていたため、政権は壊滅的な打撃を受けた。

大政翼賛会は、1940年10月に政友会と民政党の解消に代わるものとして、近衛文麿・第2次政権が生み落としたものだ。

その後、42年2月8日に東條政権は「翼賛選挙の貫徹運動の基本要項」なるものを閣議決定した。

そして同年2月23日に陸軍大将の阿部信行(元首相)を会長にして、翼賛政治体制協議会が発足した。

同年4月までにこれを母体にして、推薦候補者467名が選ばれ、4月23日の総選挙に出馬した。

これは敗戦前の最後の総選挙となったが、憲兵と特高警察による非推薦候補者に対する選挙妨害は目に余るものがあった。

総選挙後の5月20日に、当選者たちは翼賛政治会を結成した。

45年3月30日に、小磯内閣の下で翼賛政治会は発展的な解消をし、大日本政治会が結成されて南次郎・陸軍大将が総裁となった。

D項は、これらの政治会に参加した者を追放する事を狙っていた。

敗戦後に大日本政治会が看板を替えて生まれたのが進歩党だから、彼らが戦々恐々になって当然であった。

E項は、日本の海外侵略に関係した金融機関と開発会社の役員を指定していた。

満州鉄道、満拓、北支開発、中支振興、南洋開発諸社などの幹部たちが含まれていた。

F項は、占領地の行政機関のメンバーを指定していた。

朝鮮、台湾、フィリピン、マレー、インドネシア、ビルマの官公吏などが対象である。

G項は、A~F項で漏れた者を指定するもので、言論人や学者や宗教家が入っていた。

『公職追放令』に該当する者は、一切の公職から追放され、恩給や年金の支給もストップする。

追放期間は、ポツダム宣言の示す「占領解除まで」であった。

その一方で、長く獄中にあった日本共産党の幹部である徳田球一や志賀義雄らは、釈放されて代々木の映画館跡に本拠を構え、党を復活させた。

GSの公式記録によると、GSが追放指令の草案を書き上げてGHQ内の各局に配布したのは、45年12月5日だった。

この草案は、ワシントンの統合参謀本部の命令で作成された。

追放令の作成はトップ・シークレットだったが、GSの記録によると日本政府の要人に情報が洩れていたようで、こう書いてある。

「鶴見祐輔という進歩党の事実上の指導者は、12月1日の段階で早くもGHQのCIS(対敵情報部)のオフィスに姿を現わしていた。

彼は追放の噂を訴えて、もし国会から200名以上の追放者が出る事態になると、日本の再建は阻害されると訴えてきた。」

1946年1月5日の新聞は、ホイットニー旋風を大きく取り上げた。

朝日新聞の1面ど真ん中に掲載されたAP通信・東京支局長のラッセル・プラインズの記事には、こんな記述があった。

「日本の議会はマヒ状態になり、幣原政権は致命的な打撃を受けた。

今春の総選挙では、保守政党の有力候補が大量に追放されるわけだから、小政党に有利になろう。

幣原政権は、少なくとも5閣僚の追放該当者がおり、総辞職に繋がるかもしれない。」

衆院で第1党の進歩党は、274議席であったが、ほとんど全員がD項の該当者だったので、総崩れは必死であった。

翼賛体制下の推薦議員たちは、陸軍省・軍務局の臨時軍事費から選挙資金をもらっていたのだから、紛れもなく戦争協力議員であった。

第2党の自由党は、追放令に対してすこぶる強気であった。

党首は鳩山一郎だが、辻嘉六の斡旋により、児玉誉士夫から7千万円とダイヤモンドやプラチナなどの貴金属を結党資金として譲り受けていた。

自由党は政界の日陰者を糾合して戦後に結党したものだけに、追放該当者は少ないと見られた。

だから鳩山一郎は、追放令を歓迎する意味の談話を出した。

第3党の社会党(この党も結成したばかりである)は、衆院の現有は17議席だが、追放されそうなのは僅かで、総選挙での大躍進が予想された。

日本共産党も追放令を歓迎した。

もし追放令が企画通りに行われたら、革命的な変革がもたらされたに違いない。

だが日本の保守政治家たちは、華族夫人や美人芸者をくり出すピンク作戦を展開し、ダイヤや真珠を贈る作戦も恥じることなく展開し、追放を逃れようと暗躍した。

幣原喜重郎・首相は、吉田茂・外相をGHQに派遣した結果、追放令に抗しきれずと見て、内閣の総辞職にハラを固めた。

ところが、それに待ったを裕仁がかけた。

「なんとか内閣改造で切り抜けてほしい」と裕仁から要望された喜重郎は、翻意して内閣改造で時間を稼いだ。

GS(民政局)の記録にはこうある。

「追放令が出ても、幣原政権は1946年4月の総選挙まで持ちこたえた。

幣原内閣は追放令の結果、吉田茂、芦田均、幣原の3人だけが残る状態となった。

辞任した閣僚は、堀切善次郎・内相、田中武雄・運輸相、松村謙三・農相、前田多門・文相、次田大三郎・書記官長だ。

進歩党は衆院で257議席を占めていたが、200議席以上が追放されると見られた。

追放令は当初は国政レベルに目標を置いていたため、進歩党の地方組織への影響は少なかった。

第2党の自由党は47議席を持つが、追放予想は12議席。

党首の鳩山は幣原政権の崩壊を予見し、社会党との連立政権を考えた。

社会党は161の候補者を立てる予定だったが、追放令に便乗してさらに110の候補者を追加した。」

ホイットニー旋風は、保守政治家を壊滅できずに終わったが、それはGHQ内部で左派(GS)と右派(G2)の意見分裂が起きたからである。

GHQ内の左右対立は、日本の政財界を泥沼の状態にし、昭和電工の汚職事件という一大スキャンダルにまで発展した。

やがて追放令は、政治家が政敵を潰すために使われる凶器となった。

政敵の経歴を調べてGHQにたれ込む者が続出したのである。

日系二世の塚原太郎は、テキサス州ダラスで生まれ、小中学校は日本ですごした人物だ。

彼は日米開戦の前に、徴兵されて米陸軍に配属され、開戦後は陸軍情報局の言語学校で訓練を受けた。

その後はオーストラリアのブリスベンで組織された、米軍の思想戦部に属した。

太郎は、1945年8月28日に米軍の先遣隊として日本入りし、思想戦部はGHQが発足すると「CIE(民間情報教育局)」に昇格した。

塚原太郎はその後、GS次長のチャールズ・ケーディスに乞われて、GSに移籍して公職追放の審査官となった。

太郎は語る。

「公職追放はGSの仕事でしたが、GSのホイットニー局長とG2のウィロビーは犬猿の仲で、G2は握った情報をGSに出さないのです。

そこでケーディスは、僕をスカウトしたわけです。

追放の選択は、だいたいは日本政府に決定させて、その報告書をGHQに持ってこさせて、僕たちが再調査して許可・不許可を出した。

僕は日本の事情が分からないので、戦争中にブリスベンやフィリピンでの思想戦部時代に使っていた、日本軍の俘虜(POW)たちに連絡を取って助けてもらった。

毎日新聞の記者とか、日本郵船の人、正金銀行の人や、松竹のシナリオライター、お坊さんなどで、電話をかけるとすぐ調べてくれるのです。

佐藤栄作の調査も僕がやりましたよ。」

GHQの公職追放令に対し、日本政府は引き延ばし作戦を採った。

GSの公式記録は、怒りの感情を秘めながら、こう書いている。

「日本政府は、非公式の覚書を持ち込んできた。
そして『追放を厳密に適用させていくと政財界だけで20万人の該当者が出る。だから日本政府内に審査委員会を作り、ケースごとに審査させてほしい』と陳情してきた。

この申し入れは、追放令の骨抜き工作であるとすぐに分かった。

日本政府は追放実施には法律を作る必要があると言うが、それを許せば実施の先延ばしになる。」

日本政府は「公職追放の審査委員会」を作り、個々のケースを調査する方針を決め、時間を稼ごうとした。

この結果、審査する中で怪情報が入り乱れ、マッカーサー元帥が怒って「GSとCIS以外には追放情報を語ってはならぬ」との緘口令が出たこともあった。

そしてGHQと日本政府の接触ルートは、終戦連絡事務局の曾禰益と、GSのケーディスの1本に絞り上げられた。

この事は、曾禰益が吉田茂・外相に嫌われて、自由党から社会党に走る原因ともなった。

公職追放令は、明らかに国政選挙を狙ったものだった。

1946年1月30日に、『立候補資格の確認に対する内務省令(総選挙の資格審査令)』が公布され、即日実施となった。

これで立候補者の審査が可能となり、総選挙に立候補する者は1931年(昭和6年)以降の自己の経歴を書き、本人署名の日英両文の申請書を提出しなければならなくなった。

46年2月9日に開かれた日米合同会議(GS、CIS、日本政府が参加)で、追放のC項とD項が決められた。

この結果、「東條内閣の時代の総選挙で、推薦候補になった者は、全部が追放該当者になること」が決まった。

同年2月28日には日本政府は、勅令109号「就職禁止、退官、退職に関する件」を公布した。

これと同時に発表されたのが、追放のA項、B項、E項、F項の具体的な内容であった。

こうして46年4月10日の衆院総選挙は、GHQのお墨付きが与えられた者だけが立候補できる仕組みとなった。

鳩山一郎が追放令でばっさりと殺られたのは、彼の率いる自由党が1946年4月の総選挙で勝利し、首相になる直前の5月4日であった。

一郎の追放令は、5月3日付けでGSのコートニー・ホイットニー局長が署名した。

(2020年3月5日に作成)


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