(『戦後秘史・第6巻』大森実著から抜粋)
チャールズ・ウィロビーは、GHQのG2のトップだった人物だ。
彼は1892年にドイツで生まれた。ユダヤ系ドイツ人でウェイデンバッハといったが、18歳の時に渡米してウィロビーに改名したという。
彼はみなし子で、父を知らぬそうだ。
アメリカ市民権を取り、陸軍に入って、第一次大戦にも参加してフランスに派遣されている。
その後は10年間、歩兵学校と陸軍参謀大学で教官となった。
1942年にマニラに居たダグラス・マッカーサーの参謀に任命された。
チャールズ・ウィロビーは、スペインのフランコ将軍に憧れて、10数年もファンレターを書き送ったというエピソードがある。
1947年にGHQが赤狩り(レッド・パージ)を始めると、G2のチャールズが総指揮をとった。
彼はゾルゲ事件の強い関心を持ち、ゾルゲ事件を調べ上げている。
下山事件や鹿地亘の監禁事件に関係したキャノン機関は、チャールズの直属であった。
朝鮮戦争が始まると、チャールズは麾下のCISの要員を、大量に北朝鮮に潜入させた。
チャールズは退職後、ダグラス・マッカーサーの執事の職をコートニー・ホイットニーと争って敗れ、フランコに会うためスペインに旅立った。
チャールズ・ウィロビーのG2と最も頻繁に会っていた日本政府の要人が、吉田茂と白洲次郎であった。
GS(民政局)のコートニー・ホイットニー局長とチャールズ・ケーディス次長は、日本国憲法の原案を起草した、GHQ内の進歩派コンビであった。
コートニー・ホイットニーは、1897年にメリーランド州で生まれた。
弁護士として、1927~40年にマニラで法律事務所を開いていた。
マニラでマッカーサーと出会ったが、日米が開戦すると軍に召集され、43年にマッカーサーの幕僚団に加わった。
チャールズ・ウィロビーがゲシュタポ的な工作員に囲まれていたのに対し、コートニーはニューディーラー集団に囲まれていた。
コートニーが局長を務めるGSは、学究肌のニューディーラーが多かった。
このGSに、公職追放の該当者の審査が任された。
GHQには、「CIS(対敵情報部または防諜部)」という組織があった。
CISは、「陸軍のCIA」といえば分かりが良いかもしれない。
CIAはアメリカ大統領に直属する機関だが、CISは陸軍省の命令で活動するスパイ組織であった。
GHQが日本で活動を始めると、日本全国にCISの下部スパイ網が根を張った。
これらのスパイ網は「CIC」と呼ばれ、主要都市には必ず配置された。
CICは、日本共産党や右翼組織、また在日朝鮮人などを監視した。
レッド・パージでは、CICの情報が威力を発揮した。
CISは日本占領の当初、「赤の巣」と言われた。
トップのソープ代将がニューディーラー派に傾斜していたためと、CISに日系二世が多く配されたためである。
アメリカの日系人たちは、激しい人種差別を受けており、その怒りから共産党や労働運動に共感する者が多かった。
日系人たちは、日米開戦後はキャンプに強制収容されてもいた。
その強制収容キャンプから米軍に志願した日系二世が、OSSや陸軍言語学校を経てスパイの訓練を受け、GHQのCISに多数配属されたのである。
(2020年3月5日に作成)