RAA、赤線、ストリップ

(『占領下日本』対談本から抜粋)

(※以下は、半藤一利、竹内修司、保阪正康、松本健一の対談です)

半藤一利

日本政府は敗戦の2日後の1945年8月17日に、東久邇稔彦・内閣の初閣議で、「進駐軍向けの特殊慰安施設」の設置を決めました。

占領軍が来るから慰安婦を置く施設をつくるというので、その方面の業者が呼び出されて代表が大蔵省に出かけて行った。

そして業者が話すと、「なに1億円かかるのか。それで日本の婦女子を守れるなら安いものだ」と言って、主税局長がポンと胸を叩いたというのです。

その主税局長が、後の総理大臣の池田勇人です。

それで新聞などで慰安婦募集を呼びかけたところ、3千人の応募があり、RAA(特殊慰安施設協会)が出来て、最初の施設がオープンしたのが8月27日でした。

米軍の先着部隊が到着した時、1360人の女性が確保されていて、もうオープンしているんです。

松本健一

ビルマから日本に亡命してきていたバー・モウは、RAAの話を聞いて「なんて日本人はだらしないのか。昨日まで鬼畜米英とか撃ちてし止まんと言っていたのが、今日は米兵のために慰安施設を作っている」と激怒しました。

ところが後になって、「これで(売春で)アメリカを手なずけてしまったようだ」と感心しています。

半藤一利

当時は、一般人はとにかく食うのに困っていたのです。
そうでなきゃ、すぐに3千人も集まりませんよ。

やがてRAAの施設は日本中に出来ました。

向島の焼け残った建物でも、RAAになって女性たちが配給されてきた。

松本健一

私の住んでいた所も、中島飛行場の本社が、そのまま進駐軍の司令部になってました。

竹内修司

RAAの売春施設はどんどん増えていったのですが、1946年3月に突然GHQから指令が出た。

「RAAのすべての慰安所に、占領軍将兵の立ち入りを禁ず」と。

保阪正康

そうすると、始まってから半年で閉鎖ですね。

半藤一利

なぜその指令が出たかというと、米兵が皆、性病にやられて、兵力が激減したからです。

しかし閉店となってもRAAの女性たちは行く所がないから、町に出て行って売春をし、パンパンと呼ばれたわけです。

この世相を受けて、坂口安吾は『堕落論』を46年4月に発表した。

松本健一

オンリーさんも居ましたね。
私の家の裏は完璧なオンリーさんでした。

町に立って売春するストリート・ガールではなくて、一人の専有になっている。

半藤一利

とにかく戦後の名物というと、パンパンですね。

保阪正康

子供たちは米兵と歩いている女性を見ると、パンパンと囃し立てて逃げていましたよ。

半藤一利

RAAが無くなる直前の1946年1月21日に、GHQは人権が大事だといって「日本に於ける公娼廃止に関する覚書」を出した。

日本政府はこれを受けて、仕方なく「公娼廃止令」を出したが、「ただし、従来の娼家は接待所という名目で、公娼ではない公認の私娼営業は認める」とした。

これは、売春宿が接待所に改称して、売春婦は接待婦という名称で活動し、宿に貸し席料や設備費などを払うのです。

警察は、許可した宿に赤い丸を付けたので、「赤線」と言うのです。

許可なしにやっている所は「青線」と呼ばれました。

有名なRAAに、新小岩にある小岩パレスがありました。

これは軍需工場の跡地を使ったものでしたが、GHQの指令後にはそのまま赤線になった。

赤線は一応、法的に決まったものだから、売春婦たちは毎週きちんと検査されるわけです。

でも潜伏期間があるから、私も何回か性病をうつされました。
でもペニシリンで一発で治ります。

竹内修司

RAAには日本人は入ってはいけないのでしょう?

半藤一利

入ってはいけません。

竹内修司

赤線は入っていいのですね?

半藤一利

赤線はいいのです。
例えば小岩パラダイスは、堂々と日本人相手にやっていた。

『ニッポン日記』を書いたマーク・ゲインは、同署の中で「小岩パラダイスは世界最大の妓楼以上である。同時にそれは、占領軍を本来の目的から邪道へそそのかす日本の努力の忌まわしい記録である。」と書いてます。

松本健一

私の住む地域では、米軍基地のそばにGIのかまぼこ宿舎が並んでいました。

そしてその基地の近くの中学校では、3分の1くらいが混血児です。

GIたちの中にはそのまま帰ってしまって、子供と母親が残されたりね。

半藤一利

アメリカに連れて行ってもらえれば良かったほうですよね。

保阪正康

戦争花嫁というのは、占領下日本の1つの形ですね。

松本健一

米兵が日本人と正式に結婚した例は沢山ありますが、日本兵がフィリピンやシンガポールに進駐して結婚して連れて帰ったかというと、ほとんどありません。

保阪正康

日本軍の規律の上からも許されませんでしたね。

半藤一利

敗戦後すぐに、内務省は「アメリカがやって来るけれども、これこれをしろ」と通達を出しています。

外出をするなとか、米人の前でみだりに変な格好をするなとか。
それくらいに心配したのでしょう。

ところが半年も経たないうちに、米人と手を繋いでいる女の子が沢山いましたよね。
普通の家の婦女子でも。

米人は食い物や衣服を持っていたから、それに目が眩みますよね。

保阪正康

南方から戻ってきた日本兵たちは、びっくりしたらしいです。

米人と手を繋いで歩いている女の子が一杯いたから。

「何のために我々は戦ったのだ」と思ったという復員兵の声を、何度か聞いた事があります。

ごく普通の女性たちが、歌声広場というような所で米兵と一緒に歌ったりしてました。

半藤一利

真っ先に女性は解放されたんですね。

占領下の日本で生まれたものに、ストリップがあります。

1947年の正月に新宿の帝都座で行われたのが本邦初でした。

モデルは甲斐美香で、額縁の中に立っているだけです。だけども反響が凄かった。

2代目の片岡マリは、「動かないのは面白くない」と言って48年2月に動き出した。
そうしたら万雷の拍手なんてもんじゃない。
これが本当のストリップ元年らしい。

浅草でも「負けてなるものか」と、ロック座でメリー松原が躍り出した。

ストリップと名付けたのは、「額縁ショー」を企画した帝都座の秦豊吉でした。

永井荷風は、48年4月に初めてストリップ・ショーを見に行き、すぐに楽屋にも行きました。

荷風は、ストリップは浅草で、パンパンは小岩パレスに行ってました。
浅草のロック座に入り浸ったのです。

浅草には、浅草座、ロック座、フランス座、ライト劇場など、5つくらいのストリップ劇場がありました。

松本健一

ストリップ劇場には、座付き役者がいますよね。

半藤一利

コント芝居をやるんです。
渥美清、谷幹一、佐山俊二、関敬六、八波むと志、南利明とかが芝居をやっていた。

竹内修司

井上ひさしは、フランス座の座付き作者(脚本家)でした、学生の時に。

半藤一利

米人もバンバン見に来てました。

竹内修司

ストリッパーは、上は裸ですが、下にはツンパというのを付ける。

半藤一利

米軍の占領が終わるまでは、真っ裸ではなかったのです。

日劇ミュージックホールのストリップは高かった。高給取りが行く所でした。
ただしそれは昭和30年代のことで、20年代は浅草が中心でした。

本当に敗戦後は、まずハダカありきで、なんたってストリッパーですよね。

彼女たちを永井荷風が連れて歩くでしょう。大勢を連れて歩いていた。

(2020年3月18日に作成)


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