GHQの検閲

(『占領下日本』対談本から抜粋)

(※以下は、半藤一利、竹内修司、保阪正康、松本健一の対談です)

松本健一

1945年4月20日にアメリカで、「日本に於ける民間検閲の基本計画」が作られました。

つまり終戦前に、アメリカは検閲についてすでに決めていたのです。

その後、連合軍が日本に入ってくると、45年12月15日に「神道指令」があり、公文書で使ってはいけない言葉が指定されました。

神道指令では、「国家神道に関わる言葉は使ってはいけない」という原則が出て、その原則に従って日本側に検閲を任せる形です。

その結果、自主規制の色彩の強いものになった。

実は神道指令が出る前から、届出制になってました。

検閲について、GHQが「日本に於ける太平洋陸軍の民間検閲基本計画」を決定したのは、1945年9月30日でした。

保阪正康

それは、つまり検閲マニュアルですね。

ダグラス・マッカーサーと裕仁(昭和天皇)が並んだ写真は、最初は新聞に出たが、日本の内務省がそれを押さえた。

GHQは内務省を非難して、再び公開させた。

松本健一

そうです。
日本の内務省や、(連合国にいる)ソ連や中国に検閲させるのではなく、GHQ(アメリカ)が(検閲を)やると。

竹内修司

「プレスコード(日本に与える新聞準則)」というのは、45年9月21日以降の実施ですね。

松本健一

アメリカ側からの新聞報道への取り締まり方針は、9月11日付で出てました。

これはGHQが直に新聞や出版を検閲するためです。

そして46年1月10日付で「日本出版法」を出し、GHQが報道の自由を確立するという名目で、旧体制の思想を検閲する事になったのです。

半藤一利

信書(個人あての手紙)の開封・検閲は、始まったのは同じ時期ですか?

保阪正康

そうでしょう。

半藤一利

封筒の下を切って検閲し、セロテープで塞いで届けられた。

保阪正康

高給で雇われた日本人が担当し、開封したのを読んで英訳してました。

松本健一

戦前は内務省、検察、憲兵がやっていた検閲を、今度はGHQがやったわけです。

保阪正康

基本的には事前検閲で、検閲される側が持っていくのでしょう?

松本健一

新聞や雑誌もそうです。

保阪正康

けれども事前検閲は1948年に止めますね。

日本人は従順で、自分で自己規制をするので、GHQは2~3年やって止めるんです。

それからは事後検閲になった。

松本健一

GHQは、検閲官を養成したわけです。

46年1月21~26日の6日間に、ガーナー中佐やザーン中佐が講師を務めて、受講者の日本人に「天皇制を擁護する記事は違反である」とか原則を教えた。

「検閲の目的の1つは日本人の道徳を改良するためだ」とか教えたわけです。

竹内修司

検閲官はどういう人が就いたのですか。

松本健一

戦後の国政に様々な形で関与した評論家の坂西志保とか、大学の人々など、英語のできる高等教育を受けた人たちでした。

竹内修司

評論家の浦松佐美太郎もやったと耳にした事があります。

保阪正康

日系二世の評判の悪さは、検閲の主体(監督官)だったからですかね。

「二世」という言葉は、物凄く嫌なイメージが伴ったでしょう。

竹内修司

日系二世の検閲監督官だった人達から聞き書きをしている研究者がおり、話を聞いた事があります。

検閲監督官たちは、日本人の雇われた検閲官たちとGHQの仲介役を務めてました。

問題が起きると、GHQの局長クラスまで上げられるケースもあったそうです。

「言論の自由を日本人に伝えるべき自分たちが、検閲に携わっている事に矛盾を感じた」と語る人もいた。

検閲監督官だった者たちは、「現場の日本人は仕事熱心で、協力的で何のトラブルもなかった」と異口同音に証言しました。

これを聞くと、心にザラつくものを覚えますね。

松本健一

検閲では、「国家神道を奨励する論説は、すべて新聞準則違反である」とか具体的に教え込むわけです。

竹内修司

そのシステムが新聞社に入ってしまったケースはないんですか。

戦前の日本では、検閲官の机が編集局の横にあって、指示してましたよね。

保阪正康

戦後もそうだったと思いますよ。

検閲官ではないが、整理部がずーっと見て、「これはまずいから二行削れ」とかやってたと思います。

日本の内務省の検閲だと、伏字を時々やって検閲しているのが分かりました。

GHQは「削る場合は同じ量で補足して埋めろ」と言った。だから検閲の実態がよく分からない。

松本健一

実際の現場では、検閲官の自由裁量と言ってもよい状態でした。

例えば映画でも、脚本を検閲したのですが、キスシーンなんてのは自由裁量で、検閲官の印象で許可するかを決める。

映画だと、チャンバラものは駄目でした。
「武」を奨励するものは全て駄目なんです。

半藤一利

GHQのCIE(民間情報教育局)の映画課長だったデイビッド・コンデの出した指令があります。

追放する映画として、「ミリタリズムを鼓舞し、復讐を扱ったもの。国粋的、排他的なもの。人権などの差別を承認したもの。封建的な忠誠や生命の軽視を名誉とするもの。」とある。

松本健一

小津安二郎が監督した「父ありき」も、削られました。

どこが削られたかというと、「海ゆかば」という曲が流れる所だけ音が無いのです。

半藤一利

こんな話があります。

黒澤明が監督した「虎の尾を踏む男達」は、戦後の早い時期に完成したが、コンデの指令に引っかかって上映禁止になり、上映されたのは1952年で日本が独立してからです。

米軍の将校たちが撮影を見に来て、「あれは駄目だ」と決めたらしい。
その中には有名な監督のジョン・フォードもいたというのです。

松本健一

1946年11月末には、条項として検閲の基準が決まった。

例えば、連合国軍・最高司令部(GHQ)および最高司令官(ダグラス・マッカーサー)に対する批判は、削除または発行禁止です。

それから極東軍事裁判への批判も駄目。

アメリカやロシアへの批判や、朝鮮人への批判も駄目でした。

それに神国日本とか天皇の神格化も駄目でした。

保阪正康

原爆も、どういう形であれ取り上げたら駄目でしたね。

半藤一利

水戸黄門も駄目でした。
決めセリフの「この印籠が目に入らぬか」は封建主義ですから。

保阪正康

逆に、アメリカからはニュース映画や普通の映画がどんどん入ってきた。

あの頃はソ連からも来たし、イギリスからも来ましたね。

松本健一

先ほどGHQの検閲学校の話をしましたが、ここに全員の名簿があります。

試験があって成績を付けられますが、10人のうち1~2人がアメリカ人で、あとは全部日本人です。

これを探っていくと、誰が検閲に携わったかが分かります。検閲局にいた者が分かる。

半藤一利

われわれの手紙まで見たんですからね。

私の手紙は毎回、下が切られていました。

「Opened by USA」か「by US Army」との文字が書いてありました。

松本健一

法律にのっとってやっているわけですから。

保阪正康

手紙の検閲は、東大生とかは全部やられたんじゃないですか。

半藤一利

そうです。皆がやられてました。

松本健一

ただし、一般庶民はやられてないと思います。

保阪正康

高等教育を受けている、権力に近い所に行くと思われる人はマークされたんですね。

半藤一利

旧制高校の寮に来る手紙は開いてましたよ。
GHQにしてみると危ないと考えたんでしょう。

ドイツ語が読めるし、思想的なアカが多い。

松本健一

戦前だって、内務省はニ・ニ六事件の時に遺族の手紙はみんな検閲しました。

保阪正康

検閲では反GHQの文書に気を付けるのですかね。

没収されて届かないというのは無かったと携わった人の周辺から聞きましたが。

松本健一

本当は、検閲要項には「公文書の場合はいけない」とあるのだから、私的な手紙や新聞なら構わないはずです。

ところが、そこに日本人の自己検閲が入ってくる。

保阪正康

新聞社は自己検閲をしてしまう。

保阪正康

今でも、新聞コードが内面化されていると言っていい。

松本健一

吉田満の著作『戦艦大和ノ最後』は、アメリカ軍への批判があり、出版できませんでした。

半藤一利

占領が終わるまで出なかった。

保阪正康

検閲のアルバイトをしていた津田塾の女子学生によると、「ものすごく給料が良くて、毎日手紙の英訳ばかりしていた」と。

松本健一

江藤淳の著作『閉された言語空間』が衝撃的だったのは、検閲の共同通信渉外部長だった人が実名を出したわけです。

しかもその人々が、戦後のラジオ放送の英語教育などに携わっていた。

私に言わせれば、「占領下日本」が、そのまま「アメリカナイズ・日本」になっていったのです。

(2020年3月18~19日に作成)

(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)

私は、メリーランド大学内のマッケルディン・ライブラリーに足を運んだことがある。

この大学のライブラリーには、GHQが日本占領時に行った検閲の膨大な資料が保管されている。

GHQが検閲でおさえた書物のゲラや、新聞・雑誌のゲラが、コレクションになって収納されている。

ライブラリーの整理責任者であるジャック・シギンズ課長と対談したが、彼はGHQが私文書や公文書の検閲も行っていた事を、資料に基づいて説明してくれた。

もちろん私は、私文書まで検閲で開封されていた事を知っていた。

まだ駆け出し記者だった私に届く手紙までが、開封されて中身を読まれた後に、当時は珍しかったセロテープで再封緘されていた。

ジャック・シギンズの説明によると、GHQは1945年9月に電話・電報・私文書・公文書の検閲を行うと決定した。

そして日本全国を8地区に分け、まず無差別に抽出した対象の検閲から始めた。

ピーク時では、全国に8つあった検閲局が、それぞれ1日に1500通以上の書簡を開封していたと言う。

1947年6月の時点で、書簡は590万通が開封され、電報も220万本が検閲され、電話の盗聴も2万5千件に達したと言う。

検閲局が入手した情報のうち、重要と判断したものは全国のCICに流された。

(2020年4月15日に作成)


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