(『占領下日本』対談本から抜粋)
(※以下は、半藤一利、竹内修司、保阪正康、松本健一の対談です)
松本健一
人間宣言と呼ばれているのは、1946年1月1日に発布された「新日本建設に関する詔書」の一部分です。
「私(裕仁)と国民との紐帯は、終始、相互の信頼と敬愛によって結ばれたもので、神話と伝説に依ったものではない。
天皇を現御神としたり、日本国民を他の民族に優越するものとする観念に、基づくものではない。」
(※冷静に見ると、これは歴史事実を完全に無視した、嘘そのものです)
竹内修司
この詔書にある「五箇条の御誓文」の引用は、裕仁(昭和天皇)の意思で付け加えたのでしょう?
半藤一利
そうです。原文にはなく、裕仁が付け加えました。
保阪正康
侍従次長の木下道雄の日記を読むと、学習院の院長だった山梨勝之進が幣原喜重郎を交えて作った草案に対し、「天皇の神格化が薄れる」とか抵抗していますね。
だけど裕仁が「もういいじゃないか」と制している様に思う。
裕仁にとって大事なのは国体護持(天皇制の存続)で、それさえ保障されればあとは些細な事だった。
半藤一利
私が調べた範囲では、人間宣言の始まりは、ダグラス・マッカーサーが侍医のエグバーグ中佐に「神格を否定する、現人神を否定するものが出るといいな」と呟いた事でした。
そこでエグバーグが、CIE(民間情報教育局)の教育・宗教課長だったヘンダーソンに伝えたと。
それが学習院の教師だったブライスに伝わった。
保阪正康
1945年の10月下旬にアメリカ国務省は、ダグラス・マッカーサーに「天皇について調べて、軍事裁判にかけるべきかの返事をしてくれ」と連絡した。
ところがダグラスは、なかなか返事をしない。
それで46年1月19日に「極東軍事裁判所の条例」が公布されるんですが、ダグラスはその1週間後に「天皇制に手を付ける必要はない」と返事しています。
ダグラスにすると、「人間宣言が出れば、天皇は助命されるんだが」と思っていたでしょう。
松本健一
自ら神格を否定すれば、裁く必要はないと。
保阪正康
だからダグラスは、1月1日の人間宣言を読んで、褒めすぎと思うほど評価する声明を翌2日に出した。
半藤一利
この詔書の時、GHQは「ご真影と教育勅語も一緒に否定してくれ」と言ってきたそうです。
ところが日本側はそれは断った。
その際の中心になったのは山梨勝之進です。
保阪正康
山梨勝之進に決定権はなく、吉田茂などの意向もあったでしょう。
竹内修司
幣原喜重郎が(人間宣言の)英文を書いたという話ですね。
半藤一利
詔書は46年1月1日に出ましたが、当時の色んな人の日記を見ると、日本人は誰も驚いてませんね。
むしろ外国人の記者が「これは大変だ」と驚いている。
保阪正康
ええ、人間宣言の事はそれほど日記に書いてない。
半藤一利
当時の日記は、本当にみんな無視ですよ。
保阪正康
日本に進駐したGHQは、反GHQの報道を見て驚き、プレスコードを出して検閲の基準を出した。
それが45年の9~10月にかけてです。
その検閲の影響もあったでしょう。
半藤一利
高見順の日記だけは、人間宣言に言及しています。
「かようなことを敗戦前に私が言ったら、不敬罪としてすぐに獄に投ぜられたであろう。
さような言を天皇自ら言う。驚くべき変わりようである。」と。
でもほとんどの国民はね、ビックリしなかったんです。
竹内修司
当時の日本人が驚かなかった事は、そのこと自体が驚きですね。
日本人は「天皇が神だなんて建前だ」と、当たり前に思っていたのかなあ。
半藤一利
そうですね。「誰でも神でないと知っていたよ」とね。
松本健一
三島由紀夫の著作『英霊の声』では、人間宣言をとっても重要な事件とし、呪詛の言葉もあります。
しかし裕仁自身は、1977年8月23日の記者会見で、「あの詔書の第一の目的は五箇条の御誓文の伝達にあって、人間宣言が目的ではない」と明確に言ってます。
保阪正康
でも裕仁は、三島由紀夫が自決までして訴えた意味はよく分かったでしょうね。
刃を突きつけられた感じになったかもしれない。
松本健一
三島由紀夫は『英霊の声』で、「二・二六事件と特攻隊の時は、天皇は神であるべきだった」と。
「自ら人間宣言なんてしてしまって、そんな人間天皇制は生き延びられない」と言っている。
半藤一利
裕仁は「それは違うよ、君」と言いたかったでしょうね。
でも二・二六事件の青年将校の生き残りが、私に言ったことがあります。
「俺たちがあんなに一所懸命だったのに、今の天皇は相撲を見に行って手を叩いている。
そんな姿を見ていると、俺たちは…」と。
保阪正康
二・二六事件の史料を収集した河野司は、「たった一言でいい、二・二六事件の将校に言葉をかけてほしい」と言ってました。
事件当時の侍従武官長だった本庄繁が、「勅使を送ってほしい」と裕仁に懇願したのと同じですよね。
でも裕仁は、立憲君主制を揺るがすあの事件を、全人生をかけて否定した。
半藤一利
話を戻すと、人間宣言の時に私たち中学生は、何とも思わなかったですね。
むしろ同じ1月1日にあったGHQの指令、「歴史と地理と修身の教育をしてはならぬ」という通達に心が動いた。
この指令は先ほどにも申した、ご真影と教育勅語の否定を日本政府が拒否したので、その代わりだったと思う。
僕ら中学生は、修身はどうでもいいけれど、歴史と地理は暗記物なので無くなる事に大喜びする奴がたくさん居た。
だけど私は「俺たちに日本人を辞めろというのか」と怒った。
そしたら他の奴らが「お前はそんなに日本人だったのか」と驚いてね。
保阪正康
だって地理は、樺太も台湾も朝鮮も日本だと教えていたからじゃないですか。
松本健一
人間宣言の前に、1945年12月15日に「神道指令」が出ているでしょう。
そこでは「国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離せないものは、その用語は使用を禁止する」とある。
その辺りから、天皇の神格化や神話は禁じられた。
だから裕仁の人間宣言は、流れからいって衝撃ではないわけです。
半藤一利
関連して面白かったのは、「天皇は神様ではなかったのだから、天皇に手紙を出せる」という事です。
我々は飢えてしようがないから、何とかしてくれと手紙を出そうという話が出て、出した奴も居たんです。
後になって調べてみたら、46年1月11日の東京新聞にあったんです。「天皇に投書ができます」という記事が。
「元日の詔書にて天皇は民主主義に率先されたのだから、国民は各自の意見を開陳して新生日本の建設に邁進しなければならない」との内容です。
松本健一
それが46年5月19日の「食糧メーデー」になると、「ヒロヒト詔書に曰く、国体は護持されたぞ、朕はたらふく食ってるぞ。なんじら人民は飢えて死ね、ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられるまでになる。
一気にあそこまで書けるようになるのですからね。
保阪正康
それを掲げた松島某は、当時はまだ不敬罪が有効だったので、起訴されてます。
後に新憲法の公布に伴う大赦令で、免訴になりました。
話は変わりますが、幣原喜重郎・内閣の時に、「大東亜戦争の調査会」を作りますね。
大東亜戦争の原因や、その他の色々な事を纏めようとした。
ところがその組織に、辰巳栄一などの旧軍人を入れてしまう。
それで対日理事会でソ連から止められた。
「あれは何だ、(日本はもう一度戦争をやる気で)今度はどうすれば勝てるかを研究しているんじゃないか」と牽制して、潰れてしまうんです。
大東亜調査会の廃止は、GHQの意向もあったでしょう。
GHQは、天皇に戦争責任がないように持っていこうとしていた。
そこには戦犯裁判が絡んでいた。
半藤一利
裏側にはいつも天皇の戦争責任があるのです。
竹内修司
天皇の巡幸について伺いたいです。
巡幸は1946年2月19日に始まった。
当時は人間宣言があり、極東軍事裁判が始まる時期です。
巡幸は誰が言い出したのか。
保阪正康
裕仁が自ら希望したのです。
それをダグラス・マッカーサーに申し出ると、「どうぞやって下さい」と。
これは加藤進という当時の宮内官僚の証言です。
半藤一利
巡幸は、むしろ新憲法と絡んでいると思います。
GHQ原案の憲法草案が示されて、裕仁が「これでいいよ」と言うのと、同じ時期なのです。
たしか最初の巡幸から戻って来た翌日に、「これでいいよ」と。
保阪正康
裕仁は、君主制下のデモクラシーが成り立つという点に、賭けて勝負したと思うのです。
それが後になって、小泉信三とかキリスト教徒の侍従長・三谷隆信とか田島道治といった、キリスト教人脈の側近が出てきて、「天皇には戦争責任がある」と言い出した。
田島道治はそれを明文化しようとした。裕仁は愕然としたと思う。
松本健一
つまり、裕仁にしてみると、人間宣言の内実は「あれは人間宣言ではなく、天皇制下の民主主義の再確認だ」と。
半藤一利
そう、裕仁は「私はもともと民主主義者だ」と考えている。
松本健一
明治時代から(五箇条の御誓文で)民主主義を入れているのだから、天皇制下の民主主義だと。
裕仁にすると、「それが戦後になっていつの間にか、民主主義下の天皇制になってしまった」というわけです。
明仁(平成天皇)とその妻になると、クエーカー教徒であるバイニング夫人の下で教育された結果でしょうが、「私は民主主義を遵守します」とか「憲法を守ります」と言います。
裕仁から見ると、これは逆転しているわけでしょう?
裕仁の時は、イギリス的な民主主義なのです。君主制下の民主主義。
保阪正康
だから、裕仁は戦後になって戸惑いがあったと思うのです。
息子の明仁と正田美智子の結婚を含めて。
半藤一利
あの結婚あたりからですよ。民主主義下の天皇制になったのは。
保阪正康
私は、裕仁が小泉信三らを「自分の時代の側近とは別なタイプ」と思っていたと、受けとめています。
松本健一
美智子が宮中に入って、崇仁(三笠宮)や正仁(常陸宮)を集めて聖書研究会をやるでしょう。
そうすると裕仁が激怒するんです。「そういう事は宮中ではやるな」と。
これが、美智子が長期にわたって体調を崩した原因です。
保阪正康
話を巡幸に戻すと、裕仁は臣民たちとの関係を確認する目的で、全国巡幸をやろうとしたのです。
ところが新憲法によって、臣民が市民に変わっていった。
そして市民になっていく国民に対して、天皇はどうあるべきかを小泉信三らは示したわけです。
でもGHQは、巡幸で国民が熱狂する事実が、国民を臣民に戻させる事に気付いて1948年に止めさせますね。
松本健一
裕仁にすると、戦争中は軍部に権力を奪われていたが、それを戦後になってアメリカを使って取り戻したと思っていた。
だから彼の感覚では、日本は天皇の国であり、国民は臣民なんです。
GHQにしてみれば、「それは違う」となる。
保阪正康
巡幸の時の人気には、裕仁も困ったと思うのです。
裕仁は侍従長の大金益次郎にその困惑を言い、益次郎は書き残しています。
「戦争の時に皆に迷惑をかけたが、それを伝えたいのに分かってくれない。ワーッと列を乱して万歳なんかをやっている」と。
半藤一利
でも裕仁は嬉しかったと思いますよ。これで(天皇制は)間違いないと思って。
保阪正康
だけど、過剰な反応でしょう。
三谷隆信の回顧録などを読んでも、裕仁は田島道治や三谷隆信に冷たいと感じます。
松本健一
田島道治は、裕仁に戦争責任を認めさせようとして、勅語を準備しましたね。
保阪正康
裕仁は、そういう動きに対して微妙な感じです。
(2020年3月19日に作成)