鹿地亘の監禁事件③
鹿地亘と山田善二郎の証言

(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)

山田善二郎は、ジャック・キャノンの紹介で目黒区・代官山の「US-七四〇」で働き、そこから川崎・新丸子の「東川クラブ」に転勤となった。

東川クラブに移った翌日であった。

善二郎は、ウィリアム光田・軍曹から「クレゾールと白マスク、ドクターの使う手術衣を買ってこい」と命じられた。
結核患者が来るからだと言う。

その日、東川クラブに1人の捕虜が連れてこられた。

出迎えたのは東川クラブの支配人役として、キャノン機関に雇われていた日系二世のロイ尾崎だった。

ロイ尾崎は、ジャック・キャノン中佐の副官をしていたビクター松井の先輩で、マーク・ゲイン記者の通訳をしていたが胸を病みマークのオフィスを去って、東川クラブで働いていた。

連れてこられた捕虜が自殺を企てたのは、3日後の1951年12月2日だった。

当時の日本は、サンフランシスコ講和条約に調印し、その発効を控えていて、米軍占領体制が解除される前夜であった。

サンフランシスコ講和条約は、中国を調印国から外しており、アメリカ政府のジョン・フォスター・ダレスが吉田茂・首相に台湾と平和条約を結ぶよう圧力をかけそうだと噂されていた。

1951年12月2日の午前8時に、東川クラブに雑務役で雇われていた榎本が、慌ただしく駆け込んできて「光田が呼んでいます!」と山田善二郎に言った。

行ってみると、白衣を着たウィリアム光田が、真っ青な顔で立っていた。

ウィリアムは白衣とマスクを差し出し、「お前もこれを着て中に入れ!」と言った。

善二郎が着衣して室内に飛び込むと、天井から吊るされていたシャンデリアが、床に落ちて壊れていた。

シャンデリアにタオルが結び着けられているのが目に入った。
善二郎は「捕虜が首を吊ったな」と直感した。

部屋の奥にトイレがあり、ドアが閉まっている便所の中からゼーゼーという低音が聞こえた。

善二郎が便所の中に入ると、捕虜が倒れており、ウィリアムと一緒にベッドまで運んだ。

捕虜はシャツも顔も髪の毛も、ベタベタの黒い粘液だらけになっていた。
大量のクレゾール液を飲んだのである。

顔が赤紫色に腫れて、腕も胸元も赤く黒ずんで焼けただれていた。クレゾールで火傷した跡だ。

善二郎がシャツを脱がせてパジャマに着替えさせた時、捕虜が骨と皮だけというほど痩せているのにびっくりした。

ベッド脇の机に紙切れがあり、ウィリアム光田はそれを善二郎に突き出して「なんと書いてあるんだ?読んでくれ!」と言った。
ウィリアムは、日本語は話せるが、字は読めなかった。

『信念を守って死にます。家族や皆さんによろしく。時計は午前二時を。この時計は暁子へ。鹿地。内山様』

文言から、これが遺書である事と、捕虜の名が「鹿地」である事を、善二郎は知った。

善二郎は、トイレの上部にある鉄管に、革ベルトがぶら下がっているのを見て、衝撃を受けた。

ベルトはぶち切れており、首吊り自殺に失敗したに違いあるまい。

捕虜はシャンデリアで首吊り自殺をして失敗し、次にトイレで革ベルトを使って首吊りをして失敗し、最後にクレゾール液を飲むことを考えたのである。

この顛末を山田善二郎がロイ尾崎に報告すると、ロイは捕虜の身元を説明した。

「彼は鹿地亘という大物だ。
戦時中に重慶か延安かに居た人で、毛沢東や周恩来と接触した有名な反戦作家だよ。」

鹿地亘は、この戦後秘史シリーズの第3巻と第4巻ですでに登場している。

本名は瀬口貢で、東大を卒業後にナップと呼ばれた「全日本無産者芸術連盟」の書記長兼部長になり、機関誌「戦旗」の編集長をした作家である。

彼は1936年1月に上海に渡り、内山書店主の内山完造に身を寄せた。

そして革命作家の魯迅と知り合い、魯迅の死後に上海が戦火に巻き込まれると、許公平(魯迅の未亡人)の家に匿われた。

宋慶齢(孫文の未亡人)やアメリカ人の左翼作家マックス・グラーニッチの協力で、重慶に移住し、そこで周恩来や郭沫若に助けられて「日本人反戦同盟」を組織した。

「日本人反戦同盟」は、延安で野坂参三が組織した「日本人民解放連盟」と提携して、中国で日本軍を悩ませた。

(日中戦争に従軍している日本人兵士に、中国との戦争を止めるよう宣伝工作をした)

鹿地亘は、日本の敗戦後に帰国してきたが、ジャーナリズムから凱旋将軍と評され、次々に反戦小説を発表して注目された。

しかし結核に罹り、アバラ骨を7本も切り取る「胸郭成形手術」を受けた。

この手術は、肋骨を切り取って病巣のある肺葉を押しつぶすもので、当時は多くの結核患者が受けた。

手術後は療養のため、鵠沼の友人の別荘を借りて住んでいた。

鹿地亘の拉致事件は、1951年11月25日の夕方7時すぎに起きた。

亘は散歩中に、緑の軍服を着たアメリカ軍人に捕まり、車に乗せられて拉致された。

亘は手錠をかけられ、白布で目隠しをされ、車は動き出した。

拉致犯は、ジャック・キャノン中佐、ロイ・グラスゴ准尉で、車には他に運転手と、平井という通訳が乗っていた。

ジャック・キャノンは、「結核を我々が治してやろうじゃないか。どうだ月額5万円を出すよ。我々に協力しないか。」と亘に言った。

亘が「この病気は治らないのだ。早く降ろしてくれ!」と言うと、ジャックは「まあいい。今夜は熱海に連れていってやるよ。そこで話し合おう。」と言った。

この時に亘の頭には、下山事件などが思い出された。

自動車が市街地にさしかかると、歩行者に見られないために、ロイ・グラスゴと平井が鹿地亘の身体を押し倒した。
手慣れた動作であった。

さらにロイは、亘の脇腹に拳銃を突き付けた。

2時間ほど走って、車は建物に入った。

亘の証言からみて、そこは目黒区・代官山の「US-七四〇」だったと思われる。

そこで30分ほど休憩した後、亘は再び目隠しされ、車は走り出した。

やがて建物に着き、部屋に入れられて目隠しが取られた。

鹿地亘はそれから起きた事を、後にこう書いている。

『キャノンは耳元でガンガン怒鳴りたてた。

私に「英語が話せるか」と尋ねたので、「出来ない」と(嘘で)答えた。

キャノンは私の処置について、英語で部下にこう言った。
「医者たちに問い合わせたが、こいつに拷問を加えると一息で参ってしまうそうだ。ゆっくりやらねばならないぞ。」

私は写真と指紋をとられた。

翌日にキャノンは通訳を通してこう言った。
「君は拷問では身体がもたない。けれども限界までやる。
麻酔薬を使って言わせてやる。」

私は何を質問されても答えなかった。

翌26日の夜10時頃に、「これから病院に行ってレントゲンをとる。目隠しをとってはならない。病院の職員と口をきくと酷い目に遭うぞ」と言われ、車で1時間半運ばれた。

病院でレントゲンをとられたが、後に分かったがそこは横浜中区のアメリカ人が経営する病院(横浜中央外人病院)だった。

連れ帰られると、またベッドに鎖で縛られ、朝まで拷問が続いた。

私の病態は悪化し、意識はときどき朦朧となった。

29日の午前に、私にストマイの注射が始まった。
それがキャノンの言う「病気は治してやる」である。

私の世話役はビル光田(ウィリアム光田)で、私を診た医者はモールトンといった。

私は自分の身体の限度がきたと自覚し、自殺して彼らの残虐な仕打ちに抗議しようと決心した。

そして自殺の機会をつかむため、彼らの要求を呑むふりをした。

すると29日の夜10時頃、「もっと良い所へ連れていく。そこでゆっくり話し合おう」と言われ、また目隠しされて自動車で1時間ほど運ばれた。

着いた建物は、外に番犬と番兵がいた。

私は自殺の段取りをたて、12月2日の午前2時に決行した。

まず机の上にあった紙に、内山完造あての遺書を書いた。

そして手ぬぐいで首をかける輪を作り、シャンデリアに下げて首を吊った。

首がしまると共に、メリメリという音がしてシャンデリアが落ちかかり、私は床に倒れた。

そこで別の手段を考え、便所に入って鉄管にベルトをかけて再び首を吊り、そのまま意識を失った。

ところが、気がついてみると便所から転がり出ていて、床で喘ぎながら息を吹き返していた。

私は目の前にあったクレゾールのビンから、半分以上を飲み、便所に入って意識を失った。』

鹿地亘は自殺未遂後、気管から胃まで焼けただれ、まったく食事できない状態になった。

ウィリアム光田は元衛生兵の経験があるらしく、ストマイ注射と、毎朝フラスコ一杯分の注射を亘に行った。

フラスコ一杯分の注射は栄養剤で、「アメリカで開発されたばかりで、優にビフテキ一枚に匹敵する」とウィリアムは威張って説明した。

ジャック・キャノンは、自殺未遂の後は別人のごとく態度を豹変させ、亘のご機嫌をとろうとした。

猫撫で声まで出して、「思い違いをしないで下さいね。あなたに危害など加えたりしませんよ。ただ友人として、あなたの協力が欲しいだけですよね」と繰り返した。

大男のロイ・グラスゴまでが、銀座の千疋屋で買った果物カゴをさげてやって来て、「ゴメンナサイネ、どうかお許し下さいね」と気味の悪い猫撫で声で謝った。

鹿地亘は、密室で小さなベッドに身を横たえながら、「なぜ私はキャノン機関にハイジャックされたのか」と考えてみた。

その時に蘇ってきた記憶は、清瀬病院で結核の補整手術を受けた直後のことだった。

亘は日本共産党の指導部に頼まれて、1950年5月末という朝鮮戦争の始まる1ヵ月前に、北京の出版物の翻訳権を取るため、中国文学者の郭沫若に手紙を送った。

亘と郭沫若は、太平洋戦争の時期に中国大陸で、共に対日の反戦活動(反戦工作)をした間柄だった。

宛先が分からず、ただ「北京市、中華人民共和国政府気付、郭沫若殿」で投函したところ、思いがけずにすぐに返事がきた。

「中国のあらゆる出版権を、あなたに一括して委託する」という快諾の返事だった。

この手紙には、郭沫若の他にも、董必武ら50名もの著作者が連名で署名していた。

それからしばらくすると、清瀬病院にGHQのCIE(民間情報教育局)の白人が訪ねてきた。

この白人は頬に赤痣があったが、人相が悪く、卑屈な笑いを浮かべて「中国から来た翻訳権についてお尋ねしたい。どんな手段で入手したか?」と尋ねてきた。

亘の手紙が、GHQの検閲で開封されていたのは間違いあるまい。

筆者が入手した情報によると、鹿地亘と郭沫若との間は、日本共産党と中国共産党を結ぶ『50年問題』のチャンネルになっていた。

筆者は、これがキャノン機関に拉致された決定的要因と考えている。
この件は後述する。

東川クラブでコックとして働いていた山田善二郎は、同じ日本人として鹿地亘に同情した。

善二郎は言う。

「鹿地さんの遺書と自殺の状況を目撃したためでしょう。

心を動かされ、この人のために尽くしたいと考え出した。
慰めの言葉でもかけようと考えたわけです。」

年を越し1952年1月になると、代官山の『US-七四〇』に居た中国人と北朝鮮人の捕虜たちが、東川クラブに移送されてきた。

そして本格的なスパイ訓練を受けだした。

捕虜たちは、日本人従業員からは隔離され、彼らのいる部屋の入り口には拳銃を持った米兵が張り番に立った。

捕虜たちの部屋は、窓に毛布が張られ外部への視界は遮断されていた。

鹿地亘は、自殺に失敗した後は、自殺は諦め逃亡計画を立てた。

亘が笑顔を作ってみせると、ジャック・キャノンは安心したらしく、監禁の目的を切り出した。

「協力してほしい。協力すれば釈放だってできる。」

ジャックは突然に現れなくなった一時期があった。

ウィリアム光田は「ボスは、いま関西に行ってるんだ」と言う。

亘は、ウィリアムからキャノン機関の正体を少しでも探ろうと考えた。

「あなたは絵描きを知らないか」と、突然にウィリアムが尋ねた事があった。

「知らないこともないが、あんたが絵を習いたいのか」と応じると、彼はこう説明した。

「ニセ札が描ける絵描きを探してるんだ。麻薬の取引ルートを押さえるのに、見せ金が必要なんだ。本物を使ったんでは随分ゼニがかかるんでな。」

亘がウィリアム光田から聞いた話を総合すると、キャノン機関が麻薬の密輸にタッチしているのは確実であった。

山田善二郎は、ジャック・キャノンが麻薬の常習者なのを知っており、筆者にこう語った。

「キャノン中佐は、タバコに詰めて麻薬を吸うんです。

私がキャノン邸でコックをしていた時、夕方になると彼はそっと台所に入ってくる。

そして小さな容器から白い粉を取り出して、タバコの中にねじ込んで吸うんです。

吸い終わるとボーッとなるが、妻のジョゼットがその姿を見つけてカンカンに怒り出す。

だがキャノンは放心状態でウー、ウウウーと言っているだけです。

毎日のようにこの状態を目撃しました。」

東川クラブに連れ込まれる中国軍と北朝鮮軍の捕虜は、百数十名の集団となった。

やがて大量のパラシュートが持ち込まれ、パラシュートで飛び降りる訓練が始まった。

それから間もなく、捕虜たちの入れ墨を消す手術をするため、マックファドンという海兵隊上がりの入れ墨師がやって来た。

そして「反共」「耶蘇のために死ぬ」などの、捕虜たちが巨済島の収容所で彫られた入れ墨が、花や魚や鳥などの絵に彫り変えられた。

1952年2月に入ると、捕虜の洗脳は一段落を告げたようだった。

捕虜たちは無線操作の訓練も受けて、米軍の軍服姿になって次々と東川クラブから出陣していった。

当時の中国共産党の『人民日報』には、次の要旨の記事が載った。

「山東省・海陽県南島群董家荘という海岸の部落に、一団の中国人スパイが上陸したが、一網打尽にされた。

1人は抵抗したが、他の2人は簡単に投降した。

中国軍は、米国製の消音ピストルや、反射鏡、赤外線・懐中電灯、無線機材、偽造証券などを押収した。

これらのスパイを訓練したのは、米国CIAの東京組織であった。」

ジャック・キャノンが媚びる様な顔で東川クラブにやって来て、鹿地亘に「帰宅させてあげる事になりそうだ。その前に、世間が騒がないため家族に手紙を書いてくれませんか」と言った。

ジャックは、手紙の内容を日本語で書いたメモを、亘に渡した。

「私は交通事故に遭った。
車の持ち主の家に運ばれ、手当てを受けている。
当方のアドレスは明かせない。なぜならこの家の主人は第三国人で、密貿易に従事しているからだ。」

亘は罠だと知りながら、その通信を書いた。

そして手紙の末尾に、さりげなく「白公館にて」と書き添えた。

『白公館』とは、亘が日中戦争の最中、重慶で活動していた頃に、中国の戴笠・藍衣社とアメリカのOSSが合同で運営したスパイ機関「中米合作社」の秘密基地だった所だ。

それは揚子江の支流の嘉陵江が重慶市を挟むあたりの盆地にあり、高圧線と鉄条網に囲まれた政治犯の特殊収容所だった。

この収容所の中で、中国人の左翼学生や労働者が、拷問されたり殺されていた。

亘は「白公館にて」と書けば、それを読んだ仲間たちが亘の置かれた状態に気付くと考えたのだ。

だがこの手紙は、人の居ない鵠沼の別荘(鹿地亘が居たところ)にウィリアム光田が投函したため、無駄ダマに終わった。

それから数日後に、山田善二郎は初めて、ウィリアム光田から鹿地亘を紹介された。

ウィリアムは服部京子という愛人ができ、しばしば愛人の許に通いだして、亘の世話を善二郎に託す気になったのだ。

ジャック・キャノンは、この頃はぶっ続けで関西に出張していた。

ウィリアム光田はボスの出張を奇貨として、愛人の許に通いつめたのだ。
それが亘と善二郎が親しくなる機会を生んだ。

ウィリアムによると、この時期のジャック・キャノンは、自らが関係する北朝鮮通いの密輸船「衣笠丸」が、和歌山県・田辺港で日本の警察に捕まり、その揉み消しで忙しかった。

しばらくして関西出張から帰ってきたジャックは、東川クラブに現われて亘に言った。

「あなたの身体が良くなり次第、すぐに釈放することになった。

それで、参考までにあなたの経歴を調べておきたい。

経歴をまとめてほしいのです。
特に戦後になって、あなたが中国から帰国してからの経歴を。」

亘は罠だと直感したが、釈放してくれるのであればこの罠にかかろうと考え、経歴を書き上げた。

すると今度はビクター松井が、「これはボス(ジャック・キャノン)の頼みだが」と前置きして、メモを取り出して言った。

「あなたが釈放された時の担保に、我々は供述書を取っておかなければならない。あなたが我々を裏切らないように。」

ビクター松井が差し出したメモは、亘にとって恐るべきフィクションであった。

その内容は、亘がソ連のスパイであること、配下の三橋某なる無線技師に命じてアメリカ側から探った情報をソ連に打電していたこと、秘密の連絡場所として鵠沼周辺を使っていたこと、などであった。

亘は、中国とは関係があったが、ことソ連に関しては全く関係がなかった。
それに三橋某を知らなかった。

亘はその内容を書く事に躊躇したが、ビクターは「外部に公開したりしませんから、釈放されたければ書いて下さい」と、執拗に迫った。

亘は書こうと決意した。とにかく釈放されたかったのだ。

ところが自供書を書いた後に、食膳を運んできた山田善二郎が意外なことを囁いた。

「ウィリアム光田はこう言ってました。

あなたの病状が良くなって動かせる状態になったら、どこか国外へ運び出す計画を進めているそうです。」

亘は顔色を変えた。釈放を信じていたので、衝撃を受けた。

善二郎は顔色をうかがいながら小声で囁いた。

「明日は日曜日で、私は休みです。外出できるから、手紙を書いておいて下さい。
地図とアドレスを書いてくれれば、そこに持って行ってあげましょう。」

善二郎が立ち去った後、亘は自供書を書かされた時の紙の残りを使って、手紙と自宅の地図・アドレスを書いた。

手紙を持って善二郎は外出したが、翌日に亘にこう報告した。

「いくら探してもアドレスの家が見つかりませんでした。
手紙は粉々にして川に流してきました。」

亘はがっかりし、「引っ越したのかもしれない」と言った。

善二郎は、この時の事をこう語る。

「東川クラブのマネージャーのロイ尾崎から、キャノン機関とCIAの間で争いが起こり、キャノンが敗れて近く帰国せねばならなくなったと聞いた。

キャノンは帰国する前に、鹿地さんをどこか遠くに移すらしいと、ロイは言った。」

亘が連れ出されたら、もう外部との連絡は出来ないと、善二郎は考えた。

だからメッセンジャーの役を引き受けたのである。

亘は新しい手紙を書き、「神田の内山書店まで持って行ってくれ」と頼んだ。

次の日曜日に、善二郎は内山書店を探しあてて、内山完造と会った。
そして鹿地亘が監禁されている事を伝えた。

完造は「あなたに連絡する時はどうすればいいか」と問い、善二郎は「僕のほうから時々連絡しましょう」と告げた。

翌日に亘に報告すると、みるみる亘の顔からシコリが取れた。

ロイ尾崎の言ったとおり、亘の身柄は52年3月上旬に神奈川県茅ヶ崎のC31ハウスに移された。

この移送の前に、帰国命令を受けていたジャック・キャノンは2人の将校を伴って東川クラブに来た。

これは亘の前にジャックが姿を見せた最後の日だった。

ジャックはこう告げた。
「ミスター・カジ。私は帰国することになった。
あなたのお世話をする人を紹介します。ガルシェ大佐とワットソン大尉です。」

鹿地亘はこの時に知るよしもなかったが、ガルシェはCIAの東京代表として着任してきた男で、ワットソンは千葉CICから横浜CIC隊長に転勤してきた男だ。

ワットソンは、エイブラハム少佐の変名である。

ジャック・キャノンは語調を改めて言った。

「ミスター・カジ。あなたは少なくとも、これから3年間は家族に会えないと思って下さい。」

亘はどきっとして、「釈放する約束はどうなったのですか!」と詰め寄ろうとした。

しかしジャックは、そんな約束あったかなというケロリとした表情で、逃げるように東川クラブを去って行った。

亘は、罠に完全にはまった事を思い知らされた。

鹿地亘がキャノン機関に拉致された時、GHQは亘と中国の郭沫若との書簡のやり取りを、検閲して探知していた。

亘が日共(日本共産党)の依頼で郭沫若と連絡をとった時期、1950年5月は、GHQが日共の幹部を公職追放する直前であり、朝鮮戦争が始まる直前でもあった。

当時の日共は、分裂していた。

というのは、50年1月7日にコミンフォルムが突如として日共に批判の矢を放ったからである。

コミンフォルム(ヨーロッパ共産党情報局)は、1943年に解散したコミンテルンが、戦後になって復活したものだ。

コミンフォルムの日共批判に、中国共産党の人民日報も賛同した結果、動揺した日共は『所感派』と『国際派』に分裂した。

コミンフォルムの日共批判を積極的に受け入れる『国際派』と、批判の対象にされ「受け入れがたい」とした徳田球一らの『所感派』に内部分裂したのだ。

この1950年の日共の内部分裂は、「50年問題」とも呼ばれる。

日共の正史は、「徳田球一や伊藤律らの所感派が、宮本顕治や志賀義雄の国際派を除外して、非公然体制の準備を進めることを申し合わせた」としている。

分裂した日共で、鹿地亘に郭沫若との連絡を依頼したのは、所感派の徳田球一グループであった。

筆者が接触した信頼できる日共の者は、「その頃、鹿地亘の家に日共幹部が集まり、亘が『50年問題』の窓口になっていた」と証言した。

徳田球一は、GHQの指令で公職追放されると、50年10月に中国へ密航したといわれる。

徳田派ナンバーツーの伊藤律も、小型漁船でゲロを吐きながら中国に渡った。

袴田里見は、豪華客船クイーン・エリザベス号の三等船客に化け、中国に密航した。

野坂参三らも、中国に密航していった。

そして『50年問題』に対応する日共の新しい綱領の作成のため、徳田球一、野坂参三、袴田里見、西沢隆二の4名が、北京からモスクワに飛んだのが51年初めであった。

モスクワで起草され、日本に密送されて、第5回全国協議会(51年10月16~17日)で採択されたのが、『日本共産党の当面の要求ーー新綱領』という「51年綱領」であった。

これが後年になって、極左冒険主義の綱領として批判された事は有名である。

1949年に(キャノン機関らの謀略で)下山事件や松川事件が起こされ、日共の武力行動と宣伝された。

そこから日共が51年綱領で武闘戦略を採るまでには、2年の時差があった。

51年11月25日にキャノン機関が鹿地亘を拉致した時、亘は『50年問題』をめぐって日中の共産党をつなぐ窓口になっていた。

この情報をキャノン機関に売った密告者がいたとの情報を、筆者は入手している。

しかし亘は、この事について触れたがらない。

ダグラス・マッカーサー元帥は、かつての上官であったドノバン将軍が率いるOSSと、OSSの後身であるCIAを、毛嫌いしていた。

ダグラスが解任され、リッジウェイが後任に就いた後、フィリピンのCIA拠点からガルシェ大佐が派遣されてきた。

ガルシェは、鹿地亘の身柄をジャック・キャノン(キャノン機関)から引き継ぎ、亘は神奈川県茅ケ崎の海岸近くにある豪邸に移送された。

この豪邸の門札には、「C-31号」という米軍接収ナンバーが掲げられていた。

この邸宅は、かつて中島飛行機の財閥が所有し、中島知久平・元軍需相の妾宅だったという。

山田善二郎も鹿地亘と同じく、キャノン機関の解散にともなって、東川クラブからCー31号に移った。

キャノン機関の本部だった本郷ハウスは閉鎖され、そこの管理人だった斎藤老人もC-31号に移ってきた。

善二郎の上司であるウィリアム光田・軍曹の話では、ガルシェは日本文学に精通し、歌舞伎にも深いうんちくを持っているという。

ガルシェはハーバード大の出身者で、「ミスター・G」と呼ばれていた。

C-31号には、ジェームズ川田・軍曹という日系二世と、白人のディミトリ・ブロビオ軍曹もいた。

ジェームズ川田は、ハワイ出身の日系二世で、人なつこい一面があり、鹿地亘と仲良くなった。

ある日ジェームズは、亘に言った。「オレはあんたが逃げたとしても、他のヤツさえ見てなけりゃ気がつかぬ振りをしてやるなあ。」

亘はこの言葉の真意を、もっと見定めねばならぬと思った。

ディミトリ・ブロビオ軍曹は、白系ロシア人だが、気味の悪いほど日本語がペラペラだった。

山田善二郎がC-31号を辞める決意をしたのは、ディミトリに殴られたためだ。
巨漢のディミトリは野蛮な男で、いきなり殴りかかってきたのだ。

善二郎は、ウィリアム光田に辞職を申し出たが、鹿地亘にもそれを打ち明けた。

この時に亘は、「これを内山完造に届けてほしい」と大学ノートにびっしり書いた手記を、善二郎に渡した。

善二郎はそれを自らのボストンバッグの底に隠した。

善二郎が辞職する際、「ここで見た事や東川クラブで体験した事を、絶対に口外するな。日本の警察には、すでに手を打ってある」と、固く口止めされた。

善二郎は、日本の警察が米軍の指揮下に完全に掌握されている事を知っていた。

キャノン機関の本部だった本郷ハウスには、田中栄一・警視総監や斎藤昇・国警長官までが、頻繁に出入りしていた。

ウィリアム光田らは、「もし謀略基地の秘密を口外すれば、アメリカ人なら本国に送還され、日本人なら消される」と善二郎に何回も話していた。

辞職して実家に帰った善二郎は、仏壇の陰に鹿地ノートを隠した。

そして2~3週間の様子を見た上で、神田の内山完造に届けたのであった。

「警察が善二郎を捜索している」と友人からきいた善二郎は、灯台下暗しで、横須賀の米海軍基地の兵器補給所の会計書記に就職した。

52年7月~11月まで、横須賀の下宿に身を隠した。

その一方で鹿地亘は、山田善二郎が辞職した後、東京・代官山に移送された。

連れていかれた先は、高いコンクリート・ブロック塀に囲まれた、2階建ての和風邸宅で、亘は2階に監禁されたがまるで座敷牢だった。

ここではジャック高橋・准尉という日系二世が、新たに監視役で加わった。

この座敷牢の所在が、代官山の猿楽町小学校の近くである事を、亘は総選挙(52年10月1日)に向けて宣伝カーが来た時に知った。

拡声器で「本日の午後6時半から、この裏の代官山猿楽町小学校で演説会があります」と叫ぶのを聞いたのだ。

この座敷牢に閉じ込めてから、CIAのガルシェ大佐は、亘を協力者にさせる抱き込み戦略を採ってきた。

CIAは、破壊工作やスパイ作戦の他にも、学者や知識人をスカウトしてアメリカに留学させ、洗脳してから本国に戻して影響力を発揮させる事もしていた。

日本人の学者や知識人は、この抱き込みに意外なほど簡単に引っかかってきた。

ある日突然に、亘の部屋からラジオが持ち去られ、新聞の配達も止まった。
亘は「何かが起こったな」と思った。

ガルシェの態度は一変し、亘を嘘発見器にかけて、カメラを持ち込んで亘のあらゆる姿態のスナップを撮った。

このスナップ写真は、後に亘を痛めつける道具に使われた。

52年11月29日に亘は、「身の回り品をかばんに詰めて下さい。東京が危険になったので、国外にあなたを移します」とウィリアム光田に告げられた。

亘がガルシェに「どのくらい国外に退避されるのか」と訊くと、「私にも分かりません。本国の訓令を待たねばなりません」と答えた。

夜に入り、亘は目隠しをされて、羽田空港まで連れていかれた。

そこから軍用機に乗せられて、5時間ばかり揺られて沖縄に着いた。

幌つきのジープで空港を出発したが、亘は「嘉手納だな」と思った。

ジープは山道に入り、2時間ほどで知念基地に着いた。

当時は知念基地はまだ建設中だったが、後に米軍の東洋一の基地としてベトナム戦争で活躍する。

亘は、裸電球のぶら下がるバラック造りの兵舎に連れ込まれた。

ウィリアム光田は、「このすぐ後ろが、日本最南端の岬だそうだよ。沖縄戦の時に日本軍が玉砕した所で、断崖の下の波打ち際には白骨がたくさん重なっているんだ。後でジープで行ってみよう。」と言った。

山田善二郎が横須賀の下宿先に、社会タイムス紙の記者の訪問を受けたのは、1952年11月22日だった。

日本では講和条約が発効し、米軍の占領が終わっていた。

善二郎は、記者に鹿地亘の監禁を語った。

取材した記者は、次のように報じた。

「山田善二郎は、2月頃に神田の内山書店へ内山完造を訪ね、鹿地亘の情報をもらたし、それ以来3回も内山と連絡をとった。

鹿地が失踪している事を暴露した英文の怪文書が出回ると、各新聞社が鹿地失踪を取り上げた。

ところが山田の名が、某週刊誌に出てしまった。
山田の安全を懸念して公表を控えていた関係者はびっくりした。

記者(社会タイムス紙)が山田の下宿を訪ねて、問題の週刊誌を提示すると、彼はおびえて困りきった様子だった。

『どうしますか』という記者の質問に、山田は『内山完造さんを訪ねましょう』と答え、私たちは内山と会った。

その後に山田は、某知人宅に身を隠した。

さらに11月24日に社会党の猪俣浩三を衆院議員会館に訪ね、国会での調査を正式に依頼した。」

以上が、鹿地亘が沖縄の知念基地に連行される前に発生した、新事態であった。

亘が国外の沖縄に連れ出されたのは、山田善二郎が国会での調査を依頼したためであった。

(※当時の沖縄は米軍の軍政下にあり、日本にまだ返還されていない)

鹿地亘が、「今日、東京にあなたを連れて帰る」と告げられたのは、12月6日の夜であった。

亘を乗せたB17は、7日の午前6時ごろに米軍・立川基地に着いた。

ガルシェ大佐が、車で亘を代官山猿楽町のアジトへ連行した。

ガルシェは新聞の束を取り出して亘に見せたが、そこには無数のマイクが林立する前で緊張する山田善二郎の顔が掲載されていた。

「とうとうやってくれたな」と、亘は心の中で善二郎に感謝した。

ガルシェは言った。

「あなたに協力を願う我々の希望は捨ててません。

その気があれば、米軍の最高司令部・気付で、私あての手紙を、最寄りの日本の警察署長に渡して下さればよいのです。」

鹿地亘が解放されたのは、1952年12月7日の夜19時頃で、神宮外苑においてである。

目隠しが外されて、ジープから放りだされたのだ。

亘が解放される2日前に、猪俣浩三・社会党議員は、国会の食堂で斎藤昇・国警長官から意外な依頼を受けていた。

次に書くのは、筆者が1974年7月に猪俣浩三にしたインタビューの抜粋である。

「私は12月5日に斎藤昇・国警長官と、秘密裡に参院の食堂で会っていた。

『鹿地を救ってくれ』と頼んだが、斎藤は難しい顔をして腕組みをする。

『極秘であんたに相談にきた』と伝えたが、斎藤は『見当はついているが難しい』と言うんだ。

さらに斎藤は、『この事は新聞記者に言わないでくれ。それを約束してくれればカネの100万や200万円は出そう』と仄めかすんだな。

私はピンときた。この野郎はグルだなと。

こんな野郎といくら交渉しても埒があかんと思ったので、一か八かで新聞に発表することにした。

6日に記者会見をやって、6日の夕刊にパアッと出たわけだ。」

12月8日に米極東軍・司令部は、次の嘘の発表を行った。

「鹿地亘は1951年末に米極東軍に軟禁され、尋問のため短期間の留置をし、拘禁を解いている。

その後、鹿地はいかなる米軍機関によっても拘禁や尋問を受けていない。」

12月9日には、日本国警の嘘も朝日新聞の一面で報じられた。

「国警当局は、鹿地が米軍に監禁されたか確認していない。

いまのところ、鹿地から事情聴取することが先決だ。」

9日の夜には三橋正雄なる某国スパイが、国警本部に自首して、「私は鹿地の連絡下で、ソ連に秘密情報を打電していた」と語った。

あまりにもタイミング良く自首してきた三橋正雄は、シベリアからの引き揚げ者で、シベリアでソ連のスパイに仕立てられ帰国したというのだ。

帰国すると1949年1月に、丸の内の郵船ビルにあった米CICに呼び出され、キャノン機関の下で二重スパイになるよう強要されたと自供した。

そして正雄は、ソ連代表部からの命令で、鹿地と連絡をとっていたと言った。

よく出来た米CIAの作ったシナリオである。

このシナリオが、斎藤昇・国警長官から発表されたため、新聞は一斉にこれに飛びついた。

猪俣浩三は著書『抵抗の系譜』で、こう書いている。

「12月8日に私が、鹿地の声明を衆院で発表すると、世論の憤激は頂点に達した。

米国側と日本官憲は、周章狼狽に陥ったが、その結果が翌9日の三橋正雄の自首となった。

次いで11日に、米国大使館は『鹿地を拘禁した事実はない。本人の請求で保護したものである』と発表した。

斎藤昇・国警長官も、国会で『鹿地は某国スパイ』と発表し、こうして三橋正雄の電波法違反の裁判となり、三橋の自供に基づく鹿地裁判も始まった。」

12月12日のUP通信の特電は、鹿地監禁事件が国警とCIAの共同作戦であった事を、暴露する内容だった。

「権威筋の語るところでは、鹿地を拘留していたのはCIAで、鹿地からソ連と中国共産党のスパイ網について大量の情報を入手した。

そしてこの情報の多くは、国警当局に連絡されていた。

この筋によれば、CIAと国警は、国警が鹿地を逮捕してスパイ容疑で公判に付すべきと意見が一致していた。」

12月16日には米大使館が、声明を発表した。

「鹿地本人の意志で米人の家に置いた。半年間は彼の療養に当てた。」

鹿地亘が電波法違反の容疑で起訴されたのは、1953年11月であった。

東京地裁は61年に、一審判決で有罪判決を下した。
亘はただちに控訴した。

東京高裁が二審判決で無罪を宣告したのは、69年6月である。

(2020年4月11日、9月12~20日に作成)


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