公職追放④
Y項追放、吉田茂の暗躍、松本治一郎の追放

(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)

「Y項パージ」(Y項追放)という言葉がある。

Yとは吉田のイニシャルで、吉田茂が差配して公職追放したと思われるものが「Y項」と呼ばれた。

茂は、巧妙に自分のために公職追放令を利用したと見られている。

(『戦後秘史・第6巻』大森実著から抜粋)

公職追放令は、明らかに国政選挙を狙ったものだった。

1946年1月30日に、『立候補資格の確認に対する内務省令(総選挙の資格審査令)』が公布され、即日実施となった。

これで立候補者の審査が可能となり、総選挙に立候補する者は1931年(昭和6年)以降の自己の経歴を書き、本人署名の日英両文の申請書を提出しなければならなくなった。

46年2月9日に開かれた日米合同会議(GS、CIS、日本政府が参加)で、追放のC項とD項が決められた。

この結果、「東條内閣の時代の総選挙で、推薦候補になった者は、全部が追放該当者になること」が決まった。

同年2月28日には日本政府は、勅令109号「就職禁止、退官、退職に関する件」を公布した。

これと同時に発表されたのが、追放のA項、B項、E項、F項の具体的な内容であった。

こうして46年4月10日の衆院総選挙は、GHQのお墨付きが与えられた者だけが立候補できる仕組みとなった。

鳩山一郎が追放令でばっさりと殺られたのは、彼の率いる自由党が1946年4月の総選挙で勝利し、首相になる直前の5月4日であった。

(そして代わりに吉田茂が首相となった)

吉田茂が、公職追放令を密殺の手段にして悪用した第一例は、社会党の松本治一郎を血祭りにあげたケースである。

治一郎は、46年4月の衆院選挙の時、日本政府の立候補者の審査に引っかかり、立候補できなかった。

住本利男の著書『占領秘録』は、次のように書いている。

戦時中の東条内閣選挙で推薦議員になった者が追放対象になったのは、できるだけ範囲を広げろというGS(民政局)の指示に基づいて、日本側が考えたことである。

社会党の松本治一郎は、推薦議員だったので46年1月4日に追放されたが、治一郎はすぐに抗議し、全国の水平社からも山のように追放解除を求める嘆願書が日本政府や総司令部に舞い込んだ。

松本治一郎の言い分はこうだった。
「東条選挙の時、内務省は水平社の解散を条件にして、私を推薦議員にしたいと交渉してきたが、自分は拒否した。
ところが推薦されなくても私が当選すると分かったので、政府は翼賛選挙を公平なものに見せるため、私を推薦したのだ。」

松本治一郎は、幣原首相の秘書官の福島慎太郎に、「総司令部へ行って話をしてくれないか」と頼んだ。

慎太郎は、松本治一郎の経歴と、部落解放運動に一生を捧げてきたことや、戦時中は弾圧されていた事を、手紙に書いた。
そして書記官長の楢橋渡の名で署名した。

そしてGSのケーディス大佐に会いに行ったが、ケーディスの返事はこうだった。

「推薦議員を追放せよという命令は、総司令部は出していない。
あれは日本政府の構想だ。
追放の実施はCISのマーカム中佐がやっているから、そっちに話してみろ。」

福島慎太郎がマーカムを訪ねると不在で、例の手紙を置いてきた。

1946年4月3日は、衆院選の立候補の届け出の最終日だったが、朝10時ごろに曾禰益(終戦連絡事務局の政治部長)のところへ、マーカムから電話があった。

「松本治一郎は追放から除外すべきだと思う」とマーカムは言う。

曾禰益はすぐにマーカムを訪ねていき、「日本政府は除外例を設けない方針だ。そんなことを言われても困る。」と言った。

マーカムは「尾崎行雄と松本治一郎は、追放しないのが総司令部の考えだ」と主張した。

押し問答になり、「それは命令か」と聞くと、マーカムは「そうだ」と言った。

曾禰益は上司に伝える事にしたが、肝心の楢橋渡は選挙に向けて福岡に帰っていて留守だった。
そこで幣原喜重郎・首相と吉田茂・外相に伝えた。

茂は、「その命令は文書で来ているのか」と訊いた。

「口頭だ」と益が答えると、「口頭の命令は受け取れない」と茂は突っぱねた。

これをマーカムに伝えると激怒したが、それ以上の方法には出られなかった。

『占領秘録』には、次の曾禰益の談話も添えられている。

「私は公職追放について、楢橋・書記官長によく相談していたが、それが吉田・外相のカンに触ったらしい。
吉田・外相と私は、前から気まずい感情が流れていた。

そうした事が、吉田・外相が口頭命令を蹴った一原因だと思う。

私はこの事件の責任をとって辞表を出した。」

こうして松本治一郎は、1946年4月の衆院選には出られず、47年4月の参院選でやっと資格確認書をもらって当選し、参院の副議長に選出された。

この参院選では、CISのマーカムは前回に懲りたのだろう。治一郎の追放解除命令を正式書面で日本政府に送り、治一郎は立候補締め切りの3日前に資格確認書を入手できた。

参院副議長となった松本治一郎は、就任挨拶でこう述べた。

「広田弘毅・内閣の時、私は貴族院の廃止を叫んだが、広田首相はそれが天皇大権に触れるという理由で、答弁を拒否した。

今その広田は巣鴨の獄につながれ、私はこの壇上に立っている。」

治一郎は痛烈な皮肉を述べたわけだが、この言葉は保守陣営から激しく野次られた。

さらに松本治一郎は、カニの横ばい事件を起こした。

1947年12月の国会開会式に裕仁(昭和天皇)が臨席したが、両院の正副議長は天皇の拝謁を賜る慣例があった。

この時、正副議長は天皇に横顔を見せるのは不敬に当たるとして、裕仁に真っ直ぐ顔を向けたまま、身体だけ横ばいにして進む。

治一郎はこれを、「あんな事をするのはカニの横ばいだ」と自嘲したので、保守陣営が副議長の不信任案を出す出さぬと騒ぎ出したのである。

治一郎はさらに、平民に下ることが決まった皇族に対し、総額2600万円もの巨額の金が贈呈される時、これに反対した。

この件は多数決で可決されてしまったが、治一郎は「その金は、国民の血と汗の結晶ですから、心して使ってほしい」とクギを刺した。

治一郎は他にも、皇室の赤坂離宮が遊休の国有財産になっていると指摘して「水平社の事務所として使わせろ」とか、「天皇の巡幸の費用が高すぎる」とか、皇室批判をした。

吉田茂が第二次政権を発足させると、1949年1月1日に茂は、ダグラス・マッカーサー元帥に秘密書簡を送り、松本治一郎の追放を要請した。

治一郎の擁護者であったGSのチャールズ・ケーディスが、G2のウィロビー一派に敗れて、前年12月に日本を去って帰国した事も影響していただろう。

吉田茂がダグラス・マッカーサーに宛てた秘密書簡は、ライフ誌のアメリカ版にスッパ抜かれた。

ライフ誌から引用しよう。

『親愛なる元帥閣下。

参院副議長の松本治一郎は、社会的に排斥されていた階級の解放に尽力した水平社運動の指導者として、追放は解除されてきました。

しかるに今、彼が追放令に該当していた大和報国会なるウルトラ国家主義団体の強力メンバーであったと判明しました。

松本治一郎は社会党員で、天皇制に激しく反対しています。

かかる事実に照らして、日本政府は彼を追放該当者に入れる事に決定しました。

願わくば、この措置を御承認賜わりますよう。

吉田茂』

こうして松本治一郎は、再び吉田茂によって追放された。

この秘密書簡をスッパ抜いたジョン・オズボーン記者は、次の「注」を付けていた。

「ホイットニーもマッカーサーも、吉田書簡の紙背に何があるか、完全に知っていた。

吉田首相は総選挙が迫ってきたので、松本治一郎を除きたかったのだ。
吉田は、松本を密殺しようとした。

マッカーサーは命令書を出さず、口頭で承認を与えた。

松本治一郎の追放は、総選挙の投票完了の1時間後に発表されたのである。」

1949年1月24日の総選挙の開票直後、法務庁が松本治一郎、田中松月、田原春次らの追放を発表した。

GHQのGS(民政局)は、日本政府に大和報国会の調査を命じている。

日本当局は、松本治一郎や大和報国会の旧役員から事情聴取した。

そして1941年5月5日の大和報国会の全国大会に、治一郎が出席したが、内容を知って直ちに手を切ったと分かった。

調査した特審局は、「追放の理由に該当しない」とGSに報告している。

1950年10月13日に吉田茂・内閣は、1万90名の追放解除の名簿をGHQに渡した。

この解除リストには、松本治一郎の名も含まれていたのだが、吉田茂が外してしまった。

松本治一郎の追放解除は、51年8月6日に決定した。

この時にやっと追放の手錠を外されたのである。

(2020年4月16~17日に作成)


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