(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)
吉田茂・首相は、国内向けとアメリカ向け(占領軍向け)では態度が全く違った。
日本国内では、吉田茂は口の悪さが何度も問題になっている。
①
1947年の元旦のラジオ演説で、スト労働者を「不逞の輩」と呼んだ。
②
1950年の講和条約の論議で、全面講和を主張した南原繁・東大総長のことを「曲学阿世の徒」と呼んだ。
③
1953年の衆院予算委員会で、西村栄一・議員の質問に怒り、「バカヤロー」を連発した。
しかし吉田茂は、アメリカ政府の要人に対しては、好人物を演じた。
ジョン・ダワー(MIT教授)によると、茂はマッカーサー夫人の許に通い、1945年12月には花、46年6月にはメロン、12月にはリンゴ、47年5月にはトマト、8月には桃を、せっせと持参した。
だがダグラス・マッカーサーは、48年に吉田茂のことを、「大変な怠け者で、政治に不適格だ」と評している。
茂は、アメリカ要人との会談では、正面切った本質的な議論を避けながら、問題をはぐらかして煙に巻く作戦を採っている。
そのせいか、アメリカ政府の文書には、茂の力量を評価した記述はあまりない。
1953年にCIC(GHQの諜報部隊)がまとめた吉田ファイルでは、こう評している。
「吉田茂は日本国内では、思考も行動も独自性がありマッカーサーと対抗できると評判で、日本のチャーチルとも言われている。
だがチャーチルの手腕はまったく無くて、議会での論議を楽しむ事も無い。」
しかしながら、低評価する吉田茂を(※むしろ能力が低いので操りやすいと思っていたのだろう)、CICは総選挙で支援した。
1947年4月25日に、5月3日の新憲法の施行を目前にして総選挙が行われた。
茂は、初めて衆院選挙に立候補し、高知県から出馬した。
(※それまでの茂は、議員よりも官僚の道を進んでいた)
CICが、選挙戦で吉田茂を支援した事実が、CICの秘密文書に記されている。
「47年4月7日に、1200人を集めて行われた演説会で、2人のアメリカ陸軍MP(憲兵)が吉田茂の両脇に立った。
その様子を見た聴衆の間でざわめきが起きたので、CICは出席者の感想を調査した。
聴衆は、吉田をMPがエスコートしたので、吉田は偉大な人物で占領軍に好かれていると感じた。
自由党のメンバーも、MPの存在は過激派による混乱を防いだと感じた。
県民たちは、吉田の当選の可能性をMPが高めたと感じた。」
1949年の総選挙でも、G2のナンバー2のルーファス・ブラットン大佐が、「吉田茂の面倒を見てやれ」と極秘の指示を出していた事が、ポール・ラッシュの手記に書かれている。
ポール・ラッシュの研究をする井尻俊之によると、ポールはMPに指示して吉田茂の自由な通行を認め、ガソリンも提供した。
吉田茂は、反共の活動に積極的だった。
茂は1949年3月28日付で、GHQのG2を率いるチャールズ・ウィロビー少将にあてて書簡を送り、こう述べている。
当時は、アメリカで赤狩りが激しかった頃だ。
「日本の共産主義者の反逆的な行動を暴露し、彼らの戦略に関して国民を啓発する手段として、アメリカ議会の非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置したい。
国会だと日本共産党の議員が妨害するので、総理府に付属させるのが良い。
貴殿の支援を得るため、数日のうちにお目通りいただければ有難い。」
チャールズ・ウィロビーは、部下のルーファス・ブラットン大佐に書簡を回し、「注意深く検討せよ。私の代理として彼に接触せよ」と命じた。
非日活動委員会は結局、法務府(現在の法務省)の特別審査局に設置された。
特別審査局はそれまで、軍国主義と超国家主義で公職追放になった人物の監視が仕事だったが、新たに共産主義者の監視を専門とする機関が設置されたのだ。
この機関は、1952年7月に破壊活動防止法(破防法)が公布されると同時に、『公安調査庁』となった。
吉田茂は、日本でレッドパージ(赤狩り)を実行した人で、1949年の末から公共部門でレッドパージが始まり、50年6月に朝鮮戦争が始まると民間人まで広がった。
そうして2.2万人の公務員と民間企業従業員が、解雇されていった。
ジョン・ダワーは、「追放のリストは、特別審査局とG2が作った」と言う。
同じ時期に、『内閣調査室』も発足した。
これは吉田茂が、自分の元秘書で警察官僚の村井順に命じて設置した。
公安調査庁と内閣調査室は、アメリカの諜報謀略機関であるCIAとの協力関係を、今も続けている。
この協力関係の基礎をつくったのが、吉田茂である。
1952年5月22日に吉田茂は、ロバート・マーフィー駐日アメリカ大使と夕食したが、こう提案した。
「日本は、対中国の第五列として役立つことも可能だ」
第五列とは、古い用語で「戦時に後方攪乱やスパイ行為で、他国の進撃を助ける者」を意味する。
茂は、このアイディアを前年12月にも、ジョン・フォスター・ダレス国務長官に宛てた秘密メモで提案していた。
アレン・ダレスCIA長官は52年1月24日に、国務省のアリソン国務次官補に秘密メモを送り、「CIAは早めに吉田とこの問題を話す」と連絡していた。
日本は、アメリカの対中工作の拠点として使われたが、吉田茂は自ら秘密工作への加担を申し出ていたのである。
吉田茂は52年5~6月に、公職追放が解除された緒方竹虎を、首相特使として東南アジア各国に派遣した。
竹虎は、台湾で蒋介石・総統と3回にわたって会談している。
さらに茂は、首相を辞任する直前の54年11月に訪米した際も、「日英米が合同でシンガポールに最高司令部を設置しよう」とドワイト・アイゼンハワー大統領に提案している。
反共の活動司令部を作ろうというアイディアだ。
ドワイトとダレス国務長官は「検討する」と答えたが、結局55年1月4日に「この提案は東南アジア条約機構に抵触する恐れがある」として断った。
上記の吉田茂の活動は、これまで全く知られてこなかった。
ジョン・ダワー(MIT教授)は、「吉田茂は、日本駐在のアメリカ代理人」と評している。
吉田茂は、GHQ内のリベラル派であるチャールズ・ケーディスGS次長と激しく対立したが、1949年5月にチャールズが退官して帰国する際、チャールズを尾行する工作をG2と共に行った。
この事は、警察庁長官などを務めた斎藤昇が回想録『随想十年』で明らかにしている。
吉田茂と親しかったハリー・カーンも筆者に、「吉田茂は、チャールズ・ケーディスの女性関係を調べさせて、証拠写真を撮らせた」と明かしてくれた。
なおCIAは、今も吉田茂のファイルのうち、13ページを非公開にしている。
(2020年6月10&12日に作成)