(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)
私は、松川事件より25日前に大阪で起こったスパイ事件を、当時に取材した。
1949年7月下旬、毎日新聞に勤めていた私は、同僚の北川に喫茶店に誘われた。
北川が訊いてきた。
「国鉄労組の仲井保という名前に心当たりはないか」
「聞いたことがある。うるさ型の共産党員だな」と私は答えた。
「その仲井保が、きょう共産党から除名された」と、彼は言った。
49年7月29日付の『アカハタ』には、次の記事が載っている。
「日本共産党ならびに国鉄の労組を破壊しようとした、大阪市警のスパイ団が、23日に摘発された。
仲井保はスパイ団の一員として活躍していたが、それを自白した。
日本共産党は除名を通告して、同人を曽根崎署に送って、公安主任の安田郁之助に身柄保護を申し入れたところ、同主任は承諾した。」
仲井保の除名通告では、理由を3つ挙げている。
① 元警官、海軍特務機関員であった経歴を偽ったこと。
② 党ならびに労組の動向を、国鉄当局と警察に通報したこと。
③ 党の指令と称して、デマを流布し、党内部の攪乱を謀ったこと。
私は、大阪上本町にあった米軍CICに取材した結果、CICが仲井保の除名事件に関連ありとの心証を得た。
さらに大阪市警の公安担当の宮田警視に取材したが、事件の真相を知っているとの強い心証を得た。
私が大阪住吉区に住む仲井保の愛人、山本正子(仮名)から衝撃の供述を得たのは、その翌日であった。
山本正子の供述の要旨を紹介する。
彼女は、国鉄の電話交換手で、国鉄労組の婦人部長を務めていた。
「私は危うく、逢坂山トンネルの中で、列車追突の事故を起こす役目を果たしかけたのです。
ある日、仲井保から紙片をもらったが、そこには国鉄の運転指令部へ電話すべき内容が書き込まれていました。
指令通りにかけようとしたが、交換室の監督さんの目が怖ろしく、やめました。
それが追突事故につながる指令だったと、後で知りました。」
彼女はさらに証言した。
「私がサークル活動に出席した夜、講師役で来ていた仲井さんに惹かれて入党しました。
知り合ってから10日か11日目の夜、あの人は酔って暴力で…」
「許したのですね」
「ええ」
山本正子が失踪したのは、上の告白をした直後であった。
一方、仲井保は大阪北浜2丁目の旅館「山根」に隠れていた。
山根には、「大光製作株式会社」の看板が掲げられ、仲井保と少年警察官時代の同期生で元警官の後藤某と田中信一がいた。
仲井保は49年6月の国鉄闘争以来、この旅館に泊まり込み、ここを連絡所にしてスパイ活動をしていたという。
保がスパイだと割れたのは、大阪・産別議長をしていた三谷秀治(のちに共産党・衆院議員)が曾根埼署を訪れた時に、保が私服刑事と懇ろに話しているのを目撃した事からだった。
同僚の北川記者は、旅館「山根」にいる仲井保を捜し当て、毎日新聞社に連れてきた。
私は保に取材し、警察のスパイだとの強い心証を得たが、山本正子の証言にあった列車追突事故を計画した証拠は入手できなかった。
仲井保は、1948年に共産党に入党したが、奇異とされたのは常に激烈な米軍批判をやっていた事だった。
当時の細胞仲間は「あれだけやれば米軍のCICにやられるのに、仲井はやられなかった」と不審に思っていた。
仲井保を操っていたのは、大阪CICのジョン田中・中尉と、大阪市警・公安責任者の宮田警視だったと考えられた。
私は、仲井保のスパイ事件を原稿にまとめたが、「キメ手を欠いている」としてボツにされた。
保を新聞社まで連れてきておきながら、大魚を逃したのは遺憾だった。
福島で松川事件が起きたのは、原稿がボツにされてから2週間後だった。
(2020年9月22日に作成)