ダグラス・マッカーサーとフリーメイスンの繋がり、
フリーメイスンとは何か

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

ダグラス・マッカーサーは、フリーメイスンの有力組織である「スコティッシュ・ライト」で、33という最高位の幹部だった。

1947年12月8日に、東京の米国大使館で、ダグラスは第33階位を授与された。

この昇進儀式に出席した者には、ポール・ミュラー少将、コートニー・ホイットニーGS局長、ウィリアム・マーカット経済科学局長らがいた。

1949年7月29日付のダグラス・マッカーサーの書簡には、こうある。

「(フリー)メイスンは、日本占領の強力な精神的砦の1つとなった。

キリスト教、民主主義、メイスンの教訓は、占領政策の基本哲学である。」

これを見ると、ダグラスがフリーメイスンの思想を占領政策に反映させた事が分かる。

面白いのは、キリスト教カトリック派の総本山であるバチカン市国(ローマ教皇庁)は、フリーメイスンと戦ってきた事である。

1738年にローマ教皇のクレメンス12世は教書を出し、信者たちがメイスンに入会するのを禁じた。

それ以来、両者は対立してきた。

私は2008年10月に、バージニア州ノーフォークへ行った。

そこはマイアミから飛行機で数時間の場所で、世界最大の米海軍基地がある。

ノーフォークに着くと、マッカーサー記念館を訪ねた。

ダグラス・マッカーサーのフリーメイスン・コネクションを調べるためである。

フリーメイスンは、伝統的に男性のみ入会できる。

33の階位があり、ロッジと呼ばれる集会場で会合し、メンバーだけに通じるシンボルや儀式が教えられる。

私は、マッカーサー記念館の記録保管人であるジェームズ・ゾベルと会い、メイスン関係の文書を見せてもらった。

そこには、ダグラスがメイスンに入会した時の記録があった。

記録を見ると、ダグラスは1936年1月17日に、フィリピンの首都マニラのロッジで入会している。
会員番号は「367781」だ。

アーカンソー州で1880年に生まれたダグラス・マッカーサーは、陸軍士官学校を卒業後、米軍の工兵大隊に任官して、フィリピンに派遣された。

そしてマニラ湾の改良や、コンヒドール島の要塞の構築で働き、第一次世界大戦では欧州戦線に従軍した。

その後、米軍の陸軍参謀総長に就き、1935年からフィリピンの軍事顧問になった。

(※当時は、フィリピンはアメリカの植民地である)

私はフィリピンのマニラ・ホテルに行き、5階にある「マッカーサー・スウィート」と呼ばれる部屋を見学した。

この部屋は、1935年にダグラス・マッカーサーが「フィリピン軍事顧問」に就任して以来、妻や息子と共に住んだ所である。

案内をした女性は、こう述べた。

「マッカーサーは当初、マラカニアン宮殿を住居に要求したが、拒否されました。

そして妥協案としてマニラ・ホテルのスウィート・ルームに決まったのです。

しかしフィリピン政府は、彼のために多額の経費を支出する口実がありません。
そこで考え出したのが、マッカーサーをホテルのジェネラル・マネージャーにする事でした。」

マラカニアン宮殿は、フィリピンがスペインの植民地だった時代に、官邸だった所である。

そこに住もうとし、断られると名門ホテルのスウィート・ルームを要求する。

ダグラス・マッカーサーの人間性を物語っている。

話をフリーメイスンに戻す。

フリーメイスンは厳格な階位制になっていて、入会した者は第1階位となり、まず第3階位を目指す。

第3階位(マスター・メイスン)になると、ロッジの役職に就くことができる。

その先は、各地の団体に加入するが、これらは独立した存在で、ホーリー・ロイヤル・アーチ、テンプル騎士団、ヨーク・ライト、スコティッシュ・ライトなどが有名である。

スコティッシュ・ライトは、第4階位から第33階位までで、名前からスコットランドが発祥と見られやすいが、フランス発祥である。

スコティッシュ・ライトは世界に拡がり、現在はワシントンDCの評議会がマザー(母体団体)となっている。

ダグラス・マッカーサーが入会したのは、この組織だった。

ダグラス・マッカーサーは特別扱いを受け、1936年1月のフリーメイスンの入会式で、一気に第3階位に昇級した。

しかも入会式は、歴代のグランド・マスターなど600名以上が参集する豪華さだった。

ダグラスへの優遇は続き、入会から2ヵ月後の1936年3月13日には一気に第14階位まで昇級し、翌14日に第18階位、28日に第30階位、28日夜に第32階位に昇った。

(つまり、入会から2ヵ月半で第32階位まで行った)

この特別扱いの理由は、ダグラスの父であるアーサー・マッカーサーが有力なメイスンだったからだ。

(※つまりフリーメイスンは、実力よりも、縁故がものをいう組織なのである)

アーサー・マッカーサーがメイスンに入会したのは、1879年11月26日で、場所はアーカンソー州リトルロックだった。

アーサーは南北戦争で戦功をあげると、戦後はネイティブ・アメリカンとの戦争に従事した。

1898年に米西戦争が起きると、スペインの植民地であるフィリピンでマニラ占領作戦を指揮した。

米西戦争の後、フィリピンはアメリカの植民地となったが、エミリオ・アギナルドを指導者にした独立運動が起きた。

アーサーは、独立運動を鎮圧した。

ダグラス・マッカーサーは、先祖をたどるとスコットランド人である。

彼は著書『マッカーサー回想記』で述べている。

「マッカーサー家はスコットランドの出で、アーガイル家とどちらが古い家かを長く論争した、キャンベル家の流れをくんでいる」

7世紀前にキャンベル家は2つの家系に分裂したが、その1つがマッカーサー家である。

マッカーサー家は名門だったが、1427年に王(ジェームズ1世)に反抗した家長ジョン・マッカーサーが処刑され、領地を没収されてグラスゴー近郊に移住した。

そして1828年にアーサー・マッカーサー1世が、グラスゴーからアメリカに渡った。

アーサーは弁護士になり、ウィスコンシン州・副知事や最高裁判事となった。
これがダグラスの祖父である。

スコットランドは、フリーメイスンの発祥地という説がある。

テンプル騎士団がフランス国王のフィリップ4世によって弾圧されると、団員たちは迫害を逃れて移住したが、スコットランドに渡りロバート・ブルースの許に身を寄せて、イングランドと戦ったという。

そして18世紀になって、フリーメイスンとなって再び表に現れたという。

メイスンには、「ナイツ・テンプラー(テンプル騎士団)」という団体がある。

ダグラス・マッカーサーがフィリピンに居た当時、最も重要なフィリピンのフリーメイスンは、マニュエル・ケソン大統領だった。

マニュエルは、マニラ・ロッジのグランド・マスターだった。

マニュエル・ケソンは、弁護士から政界入りし、1935年に大統領となった。

日米戦争が始まり、日本が1942年にフィリピンを占領すると、彼はアメリカに渡り亡命政権をつくったが、44年8月にニューヨークで病死した。

ダグラス・マッカーサーは、日本軍がフィリピンに攻めてくるとオーストラリアに逃げたが、その後にフィリピンのゲリラを支援した。

そのゲリラの中核にも、メイスンが含まれていた。

私は2009年5月にワシントンDCを訪れて、スコティッシュ・ライトのハウス・オブ・テンプルに行った。

ここは図書館で、フリーメイスンの資料が多くある。

私はここで、GHQの占領下時代の日本の資料を調べた。

1945年の夏、日本が降伏して米軍が占領を始めてから2週間後に、横浜の空き家でフリーメイスンの書類が見つかった。

そこは元は英国系のロッジで、日米の開戦後に活動停止になっていた。

米軍・第8軍の対応は早く、急いで書類を回収しつつ、英国ロッジに問い合わせた。

上記の横浜ロッジで活動したマイケル・アプカーは、1941年の真珠湾攻撃の朝、私服警官に逮捕され、拷問を受けた。

警察はアプカーをスパイだと疑っていて、フリーメイスンを諜報機関だと睨んでいたのだ。

日米開戦の直前の時点で、東京、横浜、兵庫、大阪にロッジがあり、全員が外国人で、開戦前に帰国した者が多かった。

GHQは、日本で活動していたロッジの資産目録を入手し、一刻も早い返還を日本政府に求めた。

そして1946年4月に、ロッジの活動が再開した。

日本に初めてフリーメイスンのロッジが出来たのは、1864年である。
横浜に来たイギリス兵が駐留先につくった軍隊ロッジで、「スフィンク・ロッジ」と名乗った。

その後、在日の外国人たちは「横浜ロッジ」や「東方の星」を設立し、活動記録はロンドンのロッジに送られた。

日本が1894年に、イギリスとの不平等条約の改正を行うと、在日フリーメイスンは不安を募らせた。

今までは外国人の居留地は治外法権だったが、その特権が無くなり、さらに日本政府は保安条例で秘密結社の活動を禁じたからだ。

在日のメイスンは、ワシントンのスコティッシュ・ライト南方評議会に助けを求めた。

同評議会のトマス・キャスウェルは、グラヴァー・クリーブランド大統領に書簡を送り、フリーメイスンは秘密結社ではなく慈善団体だと訴えた。

このロビー活動もあって、フリーメイスンと日本政府の間に『メイスンは日本人を会員にしない。その代わりに日本政府はメイスンを禁止しない』との協定が成立した。

流れが変わったのは1930年代で、「フリーメイスンは世界支配を目指す秘密結社である」との説が、欧州から流れてきた。

ドイツでは、ユダヤ教徒とフリーメイスンの繋がりが語られ、ナチスがメイスンの弾圧を始めた。

弾圧に拍車をかけたのが、『シオンの長老の議定書』だった。

この議定書では、「民族や宗教の対立を煽り、それを利用してユダヤ教徒が超国家政府を樹立する。フリーメイスンはそのための秘密結社だ。」と語っている。

この書は、フランス作家モーリス・ジョリーの『マキャベリとモンテスキューの地獄における対話』を、ユダヤに置き換えた偽書の可能性が高い。

日本の軍国主義者たちは、この書を信じて、日米戦争が始まると在日のメイスンを投獄し、ロッジの活動は停止した。

戦後になると、ダグラス・マッカーサーらは、日本でフリーメイスンを復興させようとした。

スコティッシュ・ライトの資料「HOO(鳳凰)」を見ると、GHQに多くのフリーメイスンがいたと分かる。

主な者を挙げると、次のとおりだ。

ダグラス・マッカーサー GHQのトップ

ロバート・アイケルバーガー 米軍・第8軍の司令官

ウォルトン・ウォーカー アイケルバーガーの後任の第8軍・司令官

エドワード・アーモンド(第32階位) GHQの参謀総長

チャールズ・ウィロビー(第32階位) GHQのG2のトップ

ウィリアム・マーカット GHQの経済科学局長

コートニ・ホイットニー GHQの民政局長

シドニー・ハフ(第32階位) マッカーサー専属の副官

以上は、GHQのメイスンの一部だが、GHQにメイスンのネットワークがあったと分かる。

米軍の占領中に、日本各地にロッジが創られ、会員の大半は米軍の関係者だった。

ベントン・デッカーは、米海軍人だが、4代にわたるメイスンの信者の家の出で、日本で第32階位に昇級し、「横須賀海軍ロッジ」を開設した。

ベントンはこう語っている。

「占領軍の将官の大半はメイスンだった。だから日本で民主主義を学びたい者がメイスンへ目を向けた。メイスンを通じた民主主義教育こそ、私たちが望んだ事であった。」

ベントン・デッカーは1949年7月22日付の手紙で、こう書いている。

「GHQの占領は、この未開の国をキリスト教文化と民主的政府に向かわせた」
「マッカーサー元帥は常に、キリスト教とフリーメイスンの教義に導かれてきた。自分のその方針に忠実に従った」

ベントンは49年の別の手紙では、こう書いている。

「民主的な政府は、キリスト教から誕生した。

キリスト教の原理原則を理解せずに日本の民主化はあり得ない。

この国にキリスト教を広めることが必須で、宣教師が重要な役割を担っている。

私たちは横須賀で、その政策を推進している。
横須賀は理想的な実験室である。」

1947年の暮れに、フィリピンからフレデリック・スティーブンスが来日した。

ダグラス・マッカーサーに、第33階位を授与するためだ。

この昇級の儀式には、ウィリアム・マーカット、コートニー・ホイットニー、シドニー・ハフに加えて、ポール・ミュラー参謀長やハバート・スケンク天然資源局長も出席した。

儀式は12月8日の昼間に行われたが、この日は1941年に真珠湾攻撃のあった日で、わざわざ日時を合わせたのではと思える。

ちなみに東條英機らが処刑されたのは48年12月23日だが、この日は明仁(皇太子)の誕生日だった。
偶然なのだろうか。

「HOO(鳳凰)」の1950年1月号には、こうある。

「信頼できる報告によると、アメリカ議会の50%以上はメイスンである。

上院議員96名のうち58名、下院議員455名のうち225名がメイスンである。

彼ら高位職に就く者は、独立宣言や憲法に込めた理想や信念を共有している。」

「HOO(鳳凰)」の1950年4月号には、こうある。

「フリーメイスンが世界に大きな影響を及ぼす機会が過去にあったが、今の日本は目前にある。

メイスンは(日本に)大きな影響を及ぼす優位な立場にある。

これは永続的で幅広い成果を生むであろう。」

なお、「HOO(鳳凰)」にはペリー提督の紹介もあるが、実はマシュー・ペリーはアメリカの名門ロッジのメイスンだった。

マシュー・ペリーのメイスン入会は1819年で、ニューヨークの「ホランド・ロッジ」だった。

このロッジは、オランダ系アメリカ人が設立したもので、ジョージ・ワシントンも会員だった。

私はイギリスのロンドンに行き、そこにあるフリーメイスンの「グランド・ロッジ」を訪れた。

グランド・ロッジは、開設は1717年で、最古のロッジの1つである。

現在のグランド・マスターはケント公爵で、彼は陸軍元帥でエリザベス女王の従弟に当たる。

ちなみに、ウィンストン・チャーチルもフリーメイスンで、1901年に26歳で「スタッドホルム・ロッジ」に入会した。
このロッジは、上流階級のロッジである。

アメリカのシアトル郊外に、ナイル・シュライン・センターという施設がある。

ここは「シュライン会」、つまりフリーメイスンの組織「神秘的聖堂の貴族の古代アラビア結社」の拠点であった。

シュライン会は、1872年に設立され、北米各地にテンプル(神殿)を置いた。

ダグラス・マッカーサーは、ここの会員でもあった。

シュライン会の代表団が1950年11月に来日し、ダグラスと会って日本の民主化の意見交換をしている。

(2021年9月10~11日に作成)


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