マッカーサー暗殺計画、実行されずに終わる

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

1946年4月25日に、GHQのCIC(対敵諜報部隊)に緊急の連絡が入った。

駐留米軍にボクシングを教えるコンウェイというイタリア人が、カナツ・コーイチという日本人の話を横浜CICに伝え、幹部が色めき立ってCIC本部に連絡したのである。

10日前にカナツ・コーイチは、タカヤマ・ヒデオという友人と再会したが、2人は戦時中に朝鮮の憲兵隊学校で同窓だった。

タカヤマは、「来たる5月1日のメーデーの日に、GHQのダグラス・マッカーサーを殺害する」と話し、その手助けをカナツに求めた。

カナツはこれを、コンウェイを通じてGHQに通報したのだ。

4月25日のCIC報告書には、「カナツによると、朝鮮にいるホッジ中将にも同じような企てがあり、マッカーサー暗殺と同時に実行される予定だ」とある。

当時の日本は、国民が猛烈なインフレと食糧不足に喘いでいた。

11年ぶりのメーデーには、全国から参加者が見込まれ、皇居前に数十万人が集まる予定だった。

さらにメーデーの2日後に開廷する極東軍事裁判では、昭和天皇の戦争責任が追及されるかもしれなかった。

この状況下では、マッカーサーの暗殺を考える者が出てもおかしくはなかった。

CICはすぐに、マッカーサーの儀仗兵隊長であるウィリアム・ジョンストンに連絡を入れた。

4月27日にGHQは、警備の見直しを報告している。

「CID(犯罪調査部)は、第一生命ビル(GHQの本部)前の群衆に特別工作員を配置し、大使館へのルートやビルも同様とする」

「メーデーの当日は、皇居前で開く集会は秩序を保つ限り心配ない。群衆が侵入した場合に備えて、第二騎兵旅団は皇居内の警備を大幅に増員する。」

つまりGHQは、群衆内に工作員を置いて不審者を見つけたら逮捕し、メーデーが暴徒化した場合に備えて皇居内に米軍を待機させた。

カナツも動員されて、「タカヤマを路上で見つけたら、直ちに米兵に連絡しろ」と指示された。

メーデーの当日、GHQ渉外局はマスコミに暗殺計画の記事を掲載させた。
朝日新聞は一面にタカヤマの顔写真を載せ、「居所を知っている者は日本政府に通告すべきである」と結んだ。

これらが功を奏したのか、マッカーサー暗殺は実現しなかった。

当時の東京の街は、まだ焼け野原で、浮浪者が溢れていた。

GHQの作成した東京の地図を見ると、皇居を囲む主要な道路には英語名が付いている。

現在の内堀通りは「1st Street」で、青山通りは「F Avenue」、銀座・和光前は「タイムズ・スクウェア」といった具合で、ニューヨークをモデルにしている。

代々木公園は将校用の住宅「ワシントン・ハイツ」となり、帝国ホテルや聖路加病院もGHQに接収された。

横文字の標識や看板が立てられて、どこの街か分からなくなった。

正に占領下であった。

『ガイジン・ショーグン』という、デイビッド・バレーの書いた本がある。

そこではバドというマッカーサーの儀仗兵が、日本女性の慶子と恋人になる話がある。

終戦直後に第一生命ビル(GHQの本部)の警護役になったバドは、接収された大蔵省の宿舎で寝起きしていたが、日本人の職員から「親戚の21歳の矢作慶子は、米兵のボーイフレンドが帰国してしまい、新しい相手を探している。良かったら紹介する。」と持ちかけられた。

それから間もなく、バドは慶子の働く銀座の「クラブ・オアシス」を訪れた。

そこは松坂屋デパートの地下にある巨大なダンスホールで、RAA(日本政府がつくった特殊慰安(売春)用の施設と協会)の施設になっており、米兵の溜まり場になっていた。

クラブ・オアシスでは、壁に日本の若い女がずらりと並んでいた。

多くは和服で、米兵が声をかけるのを待っている。

バドはここで慶子に会い、外に連れ出すとさっそくホテルに誘った。

私が著者のデイビッド・バレーに取材すると、「作中のバドは自分であり、自らの体験を書いた」と告白した。

デイビッドは次のように語った。

彼は渋谷にアパートを借りて、慶子と1年ほど半同棲の暮らしをした。

慶子はデイビッドと付き合いながら、銀座のダンスホールで働き続けた。

デイビッドは何度も仕事を辞めるよう頼んだが、「それならばカネをくれ」の一言だった。
だが彼にそこまでの余裕はなかった。

結局、ケンカ別れをし、間もなくデイビッドはアメリカに帰国した。

朝鮮戦争が始まって、デイビッドが従軍しマラリアに罹って東京の病院に入院した時、慶子は見舞いに来てくれた。

(2021年9月14日に作成)


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