白洲次郎の正体

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

イギリスのケンブリッジに、クレア・カレッジという名門校がある。

ここに1923年に白洲次郎は入学した。

白洲次郎は、1902年に兵庫県芦屋の実業家の家に生まれ、中卒後にイギリスに留学した。

彼は、日本が1945年に敗戦すると、GHQと深く関わり、マスコミから「陰謀家」「吉田内閣の宮廷派長官」「ラスプーチン」などと批判された人である。

白洲次郎が入学したクレア・カレッジは、彼の入学した頃は女子学生は皆無で、彼の同期にはロバート・セシル・ビング(後のストラッフォード伯爵)がいた。

次郎が専攻したのは、欧州の中世史だった。

彼は座談会で、こう述べている。

「日本だと、商売人になる奴は経済学部に行く。そのくせ本当の経済は知らない。商売人になる奴が経済学、政治家になる奴が法律学なんて、大間違いなんだよ。」

私は、多くのイギリスの外交官や企業幹部に会ったが、驚いたのは学生時代の専攻に歴史や哲学が多い事だ。

これはジャーナリストでも同じである。

白洲次郎は1928年に日本に帰国したが、就職したのは英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」だった。

これは東京に本社を置き、B・W・フレイシャーというアメリカ人が発行していた。

当時の次郎の署名記事を読むと、イギリスの上流文化に慣れた彼が、日本の欧米を真似たカフェやダンスに接し、あまりの違いにショックを受けたのが分かる。

本場との違いに驚き、怒って罵倒する内容である。

その一方で、高野山のレポートでは、日本人の公共マナーの悪さに憤慨しつつ、巡礼者たちの純真さに心を打たれている。

要するに白洲次郎は、外国かぶれの若者であった。
そして鋭い観察眼を持っていた。

白洲次郎の妻となった樺山正子も、10代でアメリカに留学しているが、帰国後に聖心女子学院に入った時を自伝でこう書いている。

「アメリカの女学校から聖心へ入学したが、ことごとに癇にさわり、敬虔な顔つきをした女の子に虫唾が走った」

次郎と正子は、似た者同士の結婚と言える。

ついでながら正子は、貴族院議員をした樺山愛輔の次女である。

ジャパン・アドバタイザーを読んで気になったのは、白洲次郎の記事の署名が「ジョン・シラス」(Jon Shiras)な事だ。

他の日本人は本名で寄稿しており、強い違和感を覚えた。

彼の記事を読むと、日本と一定の距離を置いていたのが分かる。
日本人を「彼ら」と呼び、日本文化を欧米の視点から見ている。

この個性が、後になってGHQの占領下で重宝されたのだ。

白洲次郎は、ジャパン・アドバタイザーの後は、外資系のセール・フレーザー商会や、日本食糧工業(後の日本水産)の取締役をした。

だが太平洋戦争が始まると、鶴川村に引っ越して農民をした。

1945年8月に日本が敗戦し降伏すると、白洲次郎は進駐してきたGHQの本部に出入りし始めた。

正面玄関ではなく裏の通用口から入る事もあり、高価な葉巻やウイスキーを将校たちに配って、「調子のいい男」と呼ばれた。

白洲次郎は、「終戦連絡事務局」の参与に就任した。

終戦連絡事務局は、GHQと日本政府の折衝を行う役所で、外務省が機能停止した当時、重要な役所だった。

次郎を終戦連絡事務局に抜擢したのは、外相の吉田茂だった。

次郎と茂は、茂が駐英大使の時代からの付き合いである。

1946年2月3日にGS(民政局)のコートニー・ホイットニー局長は、チャールズ・ケーディス次長やマイロ・ラウエル法規課長らを呼び出し、次の指示をした。

「マッカーサーは我々に憲法草案を書くよう命令された。毎日新聞の記事を見ても、日本政府の憲法案は天皇の地位を何ら変更していない。」

その2日前、毎日新聞は日本政府の「憲法問題調査委員会・試案」をスクープしたが、その中身は明治憲法の域を出ていなかった。

これにGHQが激怒し、マッカーサーはホイットニーに新憲法の指針を手渡したのだ。

そしてGSの憲法草案委員会は、約1週間で草案を完成した。

46年2月13日にコートニー・ホイットニーは、吉田茂・外相らと面談し、英文の憲法草案を渡して告げた。

「先日に日本政府が提出した草案は、受け取れる内容ではない。マッカーサー最高司令官は、日本の情勢に合致した草案を作成して、あなた方に渡すよう命じられた。」

GHQが作成した憲法案は、天皇はシンボル、戦争放棄といった言葉が並んでいた。
吉田茂らは愕然とした。

GHQの憲法案が、日本語に訳されたり文章修正されて、3月6日の臨時閣議で了承された。

1946年3月に、白洲次郎は終戦連絡事務局の次長に昇進した。

そして「読売新聞の労働争議」で暗躍した。

当時の読売新聞は、国内第3位の新聞だったが、社長の正力松太郎はA級戦犯の指定を受けて45年12月に収監されていた。

松太郎のいなくなった読売は、急速に左翼化し、46年1月5日の社説は天皇の戦争責任を示唆し、翌6日の社説は共産党を含む「人民戦線内閣を作れ」と訴えた。

その立役者は、鈴木東民・編集局長や、坂野善郎・編集局次長、山主俊夫・整理部長たちだった。
いずれも共産党員だった。

社長は元ジャパン・タイムズ編集長の馬場恒吾だったが、組合との争議に疲れて辞任した。

馬場恒吾の辞任から4日後の1946年6月11日に、白洲次郎はGHQの渉外局長であるフレイン・ベーカー准将を訪ねた。

この時に次郎は、読売の幹部が作成した共産党員リストを持参した。

GHQの労働課長だったセオドア・コーエンは、著書『日本占領革命』で内幕を明かしている。

「白洲次郎はリストを手に、交際を深めているベーカー准将に会った。

白洲は読売争議を論じて、馬場は善玉だとベーカーに納得させた。

このリストは、マッカーサー指令(公職追放の指令)に変身してしまった。」

フレイン・ベーカーは、白洲次郎に会った翌日に、馬場恒吾を呼び出して、次郎からもらったリストを基にして、鈴木東民ら共産党員6名の名前を挙げた。

恒吾はその足で読売新聞社へ行き、鈴木東民らの解雇を言い渡した。

フレイン・ベーカーは、熱心な反共主義者として知られていた。

この件で、正力松太郎と読売新聞にとって、白洲次郎は恩人となった。

その後、次郎は読売系の日本テレビの社外役員に就任している。

終戦連絡事務局のポストは、白洲次郎にとてつもない権力を授けた。

1951年3月8日のミルウォーキー・ジャーナルに載ったレイ・ファークの記事はこう述べている。

「吉田茂・首相は、ロンドン時代の友人(白洲次郎)に終戦連絡事務局を任せた。

GHQと日本政府の間の全文書は、白洲のデスクを通過する。

GHQの希望とは、イコールで日本政府への命令なので、それを知ることは権力であった。

白洲は2つの政府の中央交換台に座っていたのだ。」

占領期の日本では、GHQの意向は命令を意味した。

GHQ本部からの指示は、日本の官庁や企業に回された。

白洲次郎の当時の権力を実感した1人に、松方ハルがいる。

ハルは、元勲・松方正義の孫で、エドウィン・ライシャワーの妻になった人だが、終戦直後は外国人特派員の助手として働いた。

ある日、次郎から「松方公の孫のあなたが共産主義者とは驚いた」と告げられた。

面食らったハルが事情を調べると、同僚の特派員がGHQに批判的で、ブラックリストに載ったと分かった。

家族に累が及ぶのを恐れたハルは、仕事を辞めてしまった。

白洲次郎がGHQ情報に精通していた事が分かる話である。

白洲次郎は公私の混同をしていたが、それが分かる良い例が、「樺山愛輔の公職追放」である。

1946年8月22日に、GHQは終戦連絡事務局に樺山愛輔の公職追放を命じた。

愛輔は、海軍大将だった樺山資紀の長男で、日本製鋼所の役員や貴族院議員をしていた。

驚くことに日本政府は、GHQの命令を無視して、樺山愛輔の追放を実施しなかった。

GHQが調査したところ、白洲次郎の妻・正子が愛輔の娘だと分かった。

1947年7月2日のGSの報告書は、こう述べている。

「追放の覚書は、吉田首相が受け取ったが保留された。
これを命じたのは樺山愛輔の義理の息子・白洲だったという。」

結局、愛輔は追放され、GHQファイルは「白洲の高潔さが疑われた」と記している。

他にも、白洲次郎のアンフェアさを明らかにしている事として、徴兵忌避の件がある。

白洲次郎の友人で東部軍・参謀長だった辰巳栄一は、こう語っている。(『風の男 白洲次郎』)

「戦争の末期に、ある日、白洲が家に見えて、『俺、召集されちゃったよ』と言うんです。

早速に召集主任に連絡をとり、白洲次郎を召集するなと言いました。

それで取り消しになったんです。」

こんな話もある。

1947年5月6日に、裕仁(昭和天皇)とダグラス・マッカーサーは4回目の会談を行った

この時は日本の軍事防衛について話し合われ、裕仁は米軍の関与を求めて、ダグラスは非武装こそが日本の最大の安全保障になると自説を述べた。

この直後、会談の内容がアメリカのマスコミに漏れた。

犯人にされたのは通訳をした外務省・情報部長の奥村勝蔵で、彼は懲戒免職になった。

それから28年後、裕仁は真相を話し、それを入江相政・侍従長が日記に記している。

「(天皇に)うかがったら、『奥村には全然罪はない。白洲がすべて悪い。だから吉田茂が白洲をアメリカ大使に薦めたが、アメリカはアグレマン(フランス語で承認の意味)をくれなかった』との仰せ」

その後、白洲次郎は終戦連絡事務局を退任し、初代の貿易庁長官になり、通商産業省の設立に関わった。

さらに白洲次郎は、吉田茂の特使として訪米し、講和条約について話し合った。
1951年のサンフランシスコ講和会議には、顧問として出席した。

白洲次郎は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議に、日本の全権団の顧問として参加した。

吉田茂・首相が講和条約の受諾演説をする2日前(9月6日)に、次郎は演説の原稿が英語で書かれている事を知り、激怒したと回顧記事で述べている。

「敗戦国とはいえ、講和会議では戦勝国と同等の資格で出席できるはず。

それなのに演説原稿を、相手方(アメリカ)と相談した上で、相手側の言葉(英語)で書くバカがいるか。

僕は外務省の役人に染みついた植民地根性に、あきれ返るばかりだった。」

白洲次郎の一喝で、首相の演説が日本語に変更されたというのが、世に広まった逸話である。(次郎が広めた話である)

ところが調べてみると、別の事実が浮かび上がった。

東京の外交史料館に、講和条約の過程を記録した文書がある。

作成者は西村熊雄・外務省条約局長で、『平和条約の締結に関する調書』にこう書いている。

「9月5日の夜、(アメリカの)シーボルト大使から、アメリカ代表部のホテルに来るよう連絡があった。

急いで行くと、大使は『吉田総理の演説は日本語でされるのがよろしいであろう。ディグニティ(尊厳)のために。』とサゼスト(提案)した。

これを白洲次郎・顧問に伝えたところ、それが良かろうとの意見であった。

問題は、それをどう吉田総理に進言するかであった。」

上にあるシーボルト大使とは、GHQの外交局長だったウィリアム・シーボルトのことだ。

では、上にある「ディグニティ(尊厳)」とは、どういう意味か。

その答えは、アメリカの文書で分かった。

アメリカ側は、吉田茂の英語力に懸念を抱いていたのだ。

サンフランシスコに到着後、吉田茂はディーン・アチソン国務長官と会談したが、その直前にディーンに提出された国務省メモには、こうある。

「吉田は、英語を話す時にしばしば狼狽する。
だから国務長官は、ゆっくり明瞭に発音すべきである。」

ウィリアム・シーボルトは、回顧録でこう述べている。

「(日本語に変更された)理由は、吉田茂の発音が多くの日本人と同様に下手で、慣れない語句だと聞き取れないことがあったからだ。

下手な発音で、妙な調子で読み上げるのを考えただけで、身震いするほどだった。」

9月7日に(吉田茂の講和条約の受諾演説の前日)に、アメリカ代表部は「演説の原稿を見たい」と伝えた。

首相秘書官の松井明が、英文の原稿を持参すると、ウィリアム・シーボルトらはアジア諸国についての記述で修正を求め、別の表現に書き換えさせた。

そして日本語で演説するように、再び要請した。

西村熊雄・外務省条約局長は、『平和条約の締結に関する調書』にこう書いている。

「日本語でやる事をすすめる旨が、松井秘書官より持ち帰られた。

白洲次郎・顧問が、吉田総理に日本語でやるべきと今朝に手紙で申し上げたが、総理は英語でやると言下に答えられた。」

結局、アメリカ側の説得で吉田茂は折れ、9月7日の午後に日本語でやると決まった。

この事実を見ると、白洲次郎の語った「戦勝国の代表と同等の資格」云々は、全くの作り話である。

吉田茂の英語力不足や、アメリカの指示に従った事を隠すための、虚偽の話だったのだ。

白洲次郎は、GHQ占領期について家族にも語らず、晩年に手元にある大量の書類を庭で燃やしてしまった。

自分の過去を消そうとしたのである。

私はロンドンで、ジョージ・ラウドンという金融コンサルタントと会った。

ジョージは、白洲次郎と1970年代に何度も食事をした人だ。

ジョージの父は、ロイヤル・ダッチ・シェルの会長だったジョン・ラウドンである。

ジョン・ラウドンは、ロックフェラー財閥の中核であるチェース・マンハッタン銀行のアドバイザリー・コミッティー(経営諮問委員会)の委員長も務めた人だ。

白洲次郎はジョン・ラウドンと親交を結び、戦後の一時期は日本でのシェル顧問も務めた。

ジョージ・ラウドンに白洲次郎の人物像を聞くと、「一言で言えばエリート主義でした。西洋化されていて、傲慢な一面もありました。」と答えた。

ジョージは、1つのエピソードを話した。

銀座のソニー・ビルの地下にあるフランス料理店で、白洲次郎と一緒に食事していると、1人の日本人が近づいてきて丁寧にお辞儀して挨拶した。

その日本人は、ソニーの創業者の盛田昭夫だった。

すでにソニーは国際的なメーカーだったが、次郎は挨拶に対して微かに頷いただけであった。

その傲慢な態度が、ジョージには印象的だった。

白洲次郎はイギリスに留学して、ケンブリッジ大学を卒業しているが、イギリスの上流社会は「会員制クラブ」が盛んである。

次郎が通ったと思われる会員制クラブに、「ホワイツ・クラブ」がある。

創立は1693年で、会員にはチャーチル首相やロスチャイルド男爵もいた。

ここはビジネスマンの社交場で、SIS(別名はMI6)の長官も利用した。

アメリカのニューヨークの近くに、ロックフェラー・アーカイブ・センターがある。

ここは、ロックフェラー財閥の記録を保管している。

ロックフェラー家は、スタンダード・オイル社を経営し、アメリカの石油産業の90%を支配した一族だ。

ロックフェラー財閥は、独占禁止法で会社は分割されたが、大きな力を持ち続けている。

ロックフェラー財団やロックフェラー兄弟基金を通じて、様々な事業に投資している。

さらに「外交問題評議会」などの、エリート組織の運営にも関わっている。

このため、ロックフェラー財閥を「影のアメリカ政府」と呼ぶ者もいる。

私はロックフェラー・アーカイブ・センターを訪れたが、出迎えたエイミー・フィッチは「独立したアーカイブで、アメリカ政府の資金を受けていません」と言った。

エイミーは「資金援助は必要ありませんから」と笑った。
カネが唸るほどあるらしい。

私は、白洲次郎の資料を出してもらった。

1950年代に次郎とロックフェラー家が交わした書簡があった。

1951年1月25日に、羽田空港に1機の特別軍用機が着陸した。

乗っていたのはジョン・フォスター・ダレスで、アメリカ国務省や国防省のスタッフも一緒だった。

出迎えに来たマッカーサー夫妻らと挨拶を交わすと、カメラのフラッシュが一斉に光った。

ダレスの訪日目的は、日本が結ぶ講和条約の中身をつめる事だった。

「長かったGHQの占領がようやく終わる」と、多くの日本人が予感し興奮した。

ダレスの一行には、文化顧問の肩書で、40代半ばのジョン・ロックフェラー3世も加わっていた。

実は、ダレスは当時、ロックフェラー財団の理事長だった。

ダレスたちは、帝国ホテルに落ち着き、マッカーサーや吉田茂・首相と会談して、講和条約の内容を詰めていった。

講和条約が結ばれれば、アメリカ軍が日本に居る根拠が消える。
そのため日米安全保障条約をアメリカ側は提案し、それも話し合われた。

来日中のジョン・ロックフェラー3世は、2月1日に日本料理店で、樺山愛輔、白洲次郎と妻・正子、松本重治らと夕食を共にした。

白洲次郎は、第二次・吉田内閣で1948年12月に貿易庁長官になっていた。

そして次郎は、「外貨(ドル)の獲得のため、国内産業の育成から(対アメリカの)輸出産業の振興に変えるべきだ」と主張し、役人の反対を押し切って「通商産業省」を設置させた。

ジョン・ロックフェラー3世は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議にも、アメリカ側の一員として参加している。

講和会議の直後の9月21日に、ジョンがダグラス・オバートンに送った書簡がある。

ダグラス・オバートンは、後にニューヨークのジャパン・ソサエティの専務理事になった人で、ジョンの側近である。

書簡でジョンは、約20名の日本人のリストを添付し、「彼らを文化交流に使えないか」と提案している。

そのリストには、白洲正子の名もあった。

ジョン・ロックフェラー3世が文化交流に乗り出したのは、裏にアメリカの戦略があった。

前年の6月に朝鮮戦争が始まっており、アメリカは日本を反共の砦にするため、親米の政権の樹立を目指していた。

そこで注目したのが、広報活動や文化交流(つまり宣伝工作)だった。

ジョンは1951年4月16日に、ジョン・フォスター・ダレスに80ページの報告書を提出したが、テーマは「日米の文化関係」で、エドウィン・ライシャワーらの協力で作成したレポートだ。

講和条約の締結後に、文化交流を促進するためにカルチャー・センターやインターナショナル・ハウスを開設するという内容である。

そしてインターナショナル・ハウスは、樺山愛輔(白洲次郎の義父)らが関わり、国際文化会館として実現した。

ジョンらが狙ったのは、知識層に親米派を増やすことで、知識人の影響力で世論にアプローチしようとした。

ロックフェラー・アーカイブ・センターの文書を読むと、ロックフェラー家と白洲家が家族ぐるみの交際をしたのが分かる。

ジョン・ロックフェラー3世と白洲次郎の手紙交換では、「ジョン」「ジロー」とファースト・ネームで始まっている。

1951年12月に訪米した次郎は、ニューヨークでジョン夫妻と食事し、次郎は日本の情勢を克明に伝えている。

アーカイブ・センターの文書を読んでいて、私は白洲次郎が日本の政財界に君臨した理由が分かる気がした。

戦後の日本経済は、政府も企業も資金不足に悩んでいた。
その中で、次郎のロックフェラー家との繋がりは魅力だったはずだ。

ロックフェラー家は、ダレス兄弟と深く繋がり、アメリカ政府の国務省やCIAとコネがあった。

アーカイブにあるロックフェラー家に届いた日本人の手紙を見ると、政財界の要人ばかりだ。

中には露骨な資金援助の手紙もあり、ロックフェラー家は「ペッキング・レター(物乞いの手紙)」と笑っていた。

アーカイブには、白洲正子のファイルもある。

正子は1950年代に、銀座に「こうげい」という染色工芸の店を始めたが、来日したジョン・ロックフェラー3世に「ニューヨークにこうげいの店を出したい」と相談した。

正子はロックフェラー関係者と出店を話し合ったが、どうなったかはファイルに無い。

話は変わるが、ロックフェラー家は1948年の夏に、GHQに「産児制限」の提案をした事がある。

GHQは、医療や福祉の改革も行い、医療保険の拡充、児童福祉法の制定、アメリカ式の保健所システムの導入、などをした。

ロックフェラー財団は、日本に調査団を派遣して、「出生率と死亡率の改善で、日本では人口が急増する。食料供給が間に合わないので、産児制限が有効だ」と提言したのだ。

これには、中絶を認めないカトリック教会が猛反発した。

カトリック教会の標的になったのは、GHQの公衆衛生福祉局長のクロフォード・サムス准将だった。

『GHQサムスン准将の改革』には、こう書いてある。

「アメリカのカトリック教会は、日本の出生率低下をもたらす措置を採らぬよう、我々に圧力をかけてきた。

私はアメリカの新聞で、こっぴどくやられる羽目になった。
神の道に反していると攻撃された。」

なお、クロフォード・サムスは、GHQ占領下の日本で三菱商事ビルに入居したフリーメイスン組織「日本スコティッシュ・ライト協会」の理事だった。

スコティッシュ・ライトの記録では、クロフォードは1948年に日本で入会している。

シティ・オブ・ロンドン(略称はシティ)は、ロンドンのテムズ川の北岸にある、1平方マイルの地域を指す。

そこには、世界最古の中央銀行である「イングランド銀行」や、シティの市長の公邸でイギリス国王ですら勝手に踏み込めない「マンション・ハウス」がある。

私はシティに、ジェームズ・デービスを訪ねた。

彼は、IMIF(国際海事産業協議会)の会長で、IMIFは世界中の船会社や保険会社が加盟している。

ジェームズは1954年から2年間、神戸に駐在したことがあり、親日家である。

彼はケンブリッジ大学の出で、白洲次郎の後輩にあたるから、話を聞こうと思ったのだ。

私は、ジェームズに白洲次郎の経歴やエピソードを話した。

私が彼に訊きたかったのは、白洲次郎と外資企業の関係だった。

白洲次郎は日本の敗戦後、英国系の企業の顧問やアドバイザーを務めた。

ジャーディン・マセソン社、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル、投資銀行のS・G・ウォーバーグといった大企業である。

次郎は、S・G・ウォーバーグの創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿や、ロイヤル・ダッチ・シェルのジョン・ラウドン会長と親交を結んだ。

白洲次郎は、外資企業が得をするために画策している。

戦後に日本製鉄は、GHQの「集中排除令」で八幡製鉄、富士製鉄など4社に分割された。

広畑製鉄所は、富士製鉄に返還されると見られた。

それを白洲次郎は、ジャーディン・マセソン社と合併させようとしたのだ。

これに激怒したのが、後に富士製鉄の社長になった永野重雄で、必死の政治工作で合併を阻止し、銀座のクラブで白洲次郎と乱闘までした。

白洲次郎が外資企業のために画策したもう1つは、四日市の旧日本海軍の燃料廠の払い下げである。

これは無傷のままGHQに接収されており、各石油会社が落札に奔走する中、三菱石油と組んだロイヤル・ダッチ・シェルを次郎は強力に支援した。

結局、昭和石油が落札し、三菱シェル・グループと連携して、大規模なコンビナートを建設した。

次郎は、「通産省を動かして力ずくで落札させた」と批判された。

私の話を聞いていたジェームズ・デービスは、静かに言った。

「白洲次郎はコンプラドールだったようだな。

コンプラドールとは、19世紀の中国で外国企業のビジネスに協力した中国人のことだよ。」

(※当時の中国は清王朝で、アヘン戦争などで負けた結果、イギリスなどの半ば植民地になっていた)

コンプラドールは、中国に進出して収奪する外国企業を助けて、その見返りに莫大な報酬を手にした。

中でもジャーディン・マセソン社のコンプラドールは有名である。

ジェームズの言う通りだと思った。

GHQの占領下の日本で、外資の進出を助けた白洲次郎は、いわば外資の総合コンサルタントだった。

そして彼は、莫大な報酬をもらっていた。

私のインタビューで、白洲次郎の長女である牧山桂子は、こう証言した。

「外資の会社を、父は契約書もなく個人の信用でやって、報酬をもらっていました。

イギリスやアメリカの銀行に、預金口座があったようです。」

白洲次郎はGHQと結びつき、吉田茂の側近としてとてつもない権力を手にした。

彼が大活躍できたのは、GHQの占領の賜物だった。

1953年2月に白洲次郎は、吉田首相の特使としてロンドンを訪れ、イギリス外務省の幹部たちと会った。

その時の会談録を、後に駐シンガポール高等弁務官になったロバート・スコットが残している。

この会談で、白洲次郎はこう発言した。

「アメリカ人の占領は、日本に偉大な恩恵をもたらしたが、非常に好ましくない遺産も負わせた。

1つは日本のニーズに合わない憲法で、もう1つはマッカーサーの下で行われたプロパガンダである。

これにより日本人に平和主義が植え込まれてしまった。

日本人は、戦争が悪で軍隊も不要だと教えられた。

そのアメリカ人が今、『日本は自衛の軍隊を持て。無防備は自殺行為だ』と説いている。」

(2021年9月14日、10月3&6日に作成)


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