(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)
1949年8月に、丸の内1丁目の三菱商事ビルの612号室に、『日本スコティッシュ・ライト協会』が入居した。
会長はマイケル・リビスト、幹事はアブラハム・ヤコブソン、理事はグレン・マクブライトとクロフォード・サムスだ。
この組織こそ、フリーメイスンの駐日拠点であった。
1941年12月に日米が開戦すると、日本政府は国内のフリーメイスン資産を押収したが、その時のフリーメイスンの資産記録がある。
各ロッジの預金や不動産などだが、その管理人は三菱信託だった。
預金は三菱銀行に預けられている。
マイケル・リビストは、スコティッシュ・ライトの文書によると、第33階位(最高位)で、ダグラス・マッカーサーの右腕的な存在だった。
彼は、軍における階級は少佐だが、メイスンではマッカーサーに次ぐ地位にいた。
マイケル・リビストは、1909年にニューヨークのイタリア系移民の家に生まれた。
ニューヨーク大学で学んだ後、アメリカ陸軍に入り、戦後はGHQで民間情報教育に携わった。
マイケルは、40代の若さで第33階位に昇ったが、裕仁(昭和天皇)のメイスン入会を目指した。
ニューズウィーク東京支局長のコンプトン・パケナムの1950年1月の手紙によると、マイケルは宮内省の松平康昌・式部官長を追いかけて、裕仁のメイスン入会を求めた。
だが村山有は著書『日本のフリーメーソン』に、こう書いている。
「リビスト少佐は、マッカーサーに可愛がられていて、『日本のフリーメーソンを実現するよ』と意気込んでいた。
不幸にして彼は、同僚に汚職を告発されて、日本を去った。」
私はワシントンで、マイケル・リビストの妻エルシーに会った。
エルシーが見せた夫の遺品には、フィリピンのエルピディオ・キリノ大統領の署名の入った写真もあった。
エルシーは言った。
「夫はフィリピンのフリーメイスンのロッジへ行き、日本人をメイスンに迎えるよう説得していました。
戦争中の日本軍の行いのため、フィリピンの対日感情はとても厳しかった。
努力の結果、日本人のメイスン入会が認められたのです。」
1949年にマイケル・リビストは、フィリピンのマニラを訪れて、日本人のメイスン入会を要請した。
そして1950年1月に、東京で初の日本人の入会式が行われた。
マイケル・リビストは日本人のメイスンにとって恩人だが、なぜ日本から追放されたのか。
エルシーによると、マイケルの功績に嫉妬した人々から、フィリピンでの汚職の責任を負わされたらしい。
マイケルは、裕仁の入会を求めた頃に、旧日本海軍の施設をメイスンに払い下げる工作を行い、強引な手法で日本政府と軋轢を起こしている。
これも排除された一因かもしれない。
フリーメイスンのスコティッシュ・ライトの文書「HOO(鳳凰)」には、戦前と戦後の日本の国家体制をイラストで示したものがある。
戦前は、天皇を中心にして、元老や軍部が意思決定を行い、国民や国会は下に置かれた。
戦後は、憲法の下に行政・立法・司法が置かれ、天皇はシンボルとなった。
これは、メイスンの思想が移植されたものだ。
戦後の新憲法では、女性に初めて参政権や財産権が与えられ、言論の自由や婚姻の自由も保障された。
これは良い政策だが、不幸なのはGHQの占領下で強引に行われた事だ。
本来は、日本人が自ら導入するべきだったが、それが出来ずに敗戦まで行ったのだ。
私がワシントンのスコティッシュ・ライトの「テンプルの間」(儀式を行う間)を訪れた時、祭壇上の7冊の本を見て驚いた。
聖書、コーラン、バガヴァッド・ギーター、ゼンド・アベスタなどが並んでいたからだ。
フリーメイスンの特徴は、宗教的な寛容さである。
フリーメイスンの「マニラ・グランド・ロッジ」は、1912年に開設され、フィリピンの上流階級が続々と入会したロッジである。
だが1942年に日本軍が、フィリピンの首都であるマニラを占領すると、フリーメイスンは弾圧された。
日本の降伏後に、ロッジは再建された。
私は、フィリピンのフリーメイスンの上部組織である「最高評議会」のビルを訪れた。
案内役のネヴィル・ペネローサは、まずこう述べた。
「ウチは日本の山下大将の降伏文書を所有していました。それが、ある人物に貸したら行方不明になり、本当に残念でした。」
山下奉文は、日本軍の将軍で、日本の降伏後にマニラの軍事裁判で死刑となり、絞首刑となった人だ。
ネヴィルはさらに、「このロッジは日本軍のマニラ占領中は、憲兵隊が使用して、フィリピン人の反乱分子やスパイを監禁して拷問しました」と語った。
彼は駐車場の敷地を指して、「逮捕された人はそこで一列に並ばされて、機関銃で銃殺されました。死体は焼却されたそうです。」と言った。
このロッジに残る文書を調べたところ、日本をGHQが占領していた当時の、日本でのフリーメイスンの動きが分かった。
それをここから書く。
1949年のある晩、マニラ・ホテルの一室で、フリーメイスンの会合が開かれた。
マニラ・グランド・ロッジの幹部たちが集まり、彼らの前に座ったのはアメリカ軍人で日本から来たマイケル・リビストだった。
マイケルは当時、日本に作られたフリーメイスンの組織「日本スコティッシュ・ライト協会」の会長である。
マイケルは、「マッカーサーは、日本人をフリーメイスンの会員に迎える決定をした。それをマニラ・グランド・ロッジに認めてもらいたい。」と話した。
ロッジの幹部たちの顔は青ざめ、軽蔑の視線を送る者もいた。
フィリピンは3年間の日本占領下で、言葉に尽くせぬ苦難を経験した。肉親や財産を失った者も多かった。
その憎い日本人を、マッカーサーはメイスンに迎えると言うのだ。
マイケルの懸命の説得で、彼らはついに折れた。
そして1950年1月5日に、東京都港区栄町にある旧日本軍の水交社ビルで、初の日本人メイスンの入会式が行われた。
このビルはGHQに接収されて、フリーメイスンの拠点となっていた。
この入会式には、GHQのメイスン会員である米軍将校が集まり、次の7人の日本人が入会した。
佐藤尚武(参議院の議長)、高橋龍太郎(参議院の議員)、植原悦二郎(元内相)、栗山長次郎(衆議院の議員)、三島通陽(参議院の議員)、芝均平(ジャパン・タイムズの編集局長)、村山有(ジャパン・タイムズの社会部長)。
入会式ではマイケル・リビストが司会を務め、ダグラス・マッカーサーも祝福のメッセージを贈った。
1951年4月27日には、マニラ・グランド・ロッジの代表団が来日し、10日かけて日本のロッジを訪問した。
この時には、すでに日本人の会員は50名を超え、その中には韓国の旧皇族の李垠、後に日米協会・会長になる小松隆、梁瀬自動車の梁瀬長太郎もいた。
この時すでにダグラス・マッカーサーはトルーマン大統領によって解任されており、マニラ・グランド・ロッジはどのように日本のメイスンと付き合うべきか模索していた。
マニラ・グランド・ロッジの1952年のANCOM議事録には、こう書いてある。
なおANCOMは、アンニュアル・コミュニケーションの意味で、いわば年次総会である。
「フリーメイスンは、日本の人々を教え導き、共産主義の侵略を阻止する役割を担うべきである。
我々は民主主義陣営に属している。
メイスンは反共を誇り高く宣言しなければならない。」
私は上のANCOM議事録を読み、驚いた。
なぜなら政治信条の違う者への寛容がメイスン思想で、ロッジで政治や宗教の話をする事は禁止されているからだ。
だが考えてみれば、フリーメイスンは「至高の存在」を信じる宗教に近いし、対して共産主義は無神論である。
だからメイスンが敵意をむき出しにするのも理解できる。
実際に、GHQのG2を率いたチャールズ・ウィロビーと、アメリカ政府のFBIを率いたエドガー・フーバーは、反共主義で有名だったが、2人共にメイスンである。
エドガー・フーバーは、1920年にワシントンのフェデラル・ロッジで入会した人だ。
エドガー・フーバーとチャールズ・ウィロビーは、非合法の活動に熱中したが、それは自由・平等・友愛を掲げるメイスン思想とかけ離れている。
(この2人が異端なのか、それともフリーメイスンの本質が掲げている理念とかけ離れたものなのか)
1955年3月26日、鳩山一郎・首相の屋敷は朝から賑やかだった。
(※鳩山一郎は、54年12月に首相になっていた)
来客は大勢の外国人で、ジョン・ハル極東軍司令官や、李垠(日本の皇族と結婚した李氏朝鮮王朝の末裔)もいた。
最も注目を浴びたのは、フィリピンから来たフリーメイスンの幹部たちである。
この日の来客たちの目的は、鳩山一郎にフリーメイスンの第3階位を授与する儀式に参加することだった。
通常だと儀式は、ロッジで行われるが、脳溢血の後遺症ものこる鳩山一郎に配慮して、自宅で行われたのである。
さらに儀式は、日本語で行われた。
通常だと、英語の聖典を暗記するよう求められる。
1953年にマニラのグランド・ロッジは、聖典の日本語訳を承認した。
これにより日本人の入会者の負担は軽減した。
鳩山一郎は、1950年にフリーメイスンに入会し、第1階位を与えられていた。
これは、彼が公職追放中のことだ。
鳩山一郎は、1950年1月5日に初めて日本人がフリーメイスンに入会した前後から、フリーメイスンと接触を始めた。
そして同年に入会した。
51年3月20日にはロッジを訪れて、幹部と食事をしている。
同月の29日にも、ロッジでマイケル・リビストと面談した。
しかし51年8月6日に自らの公職追放が解除されると、その後はメイスンと距離をとった。
一郎は、追放解除のためにメイスンのコネを使ったと見られる。
話を一郎の第3階位への昇格に戻すが、これに対しては、トルーマン前大統領や、ダグラス・マッカーサーからも祝電が来た。
ダグラス・マッカーサーは、1957年7月17日の書簡にこう書いている。
「日本において私は、フィリピンのグランド・ロッジの下で、フリーメイスンの発展に全力を尽くした。
それは急速な成長を遂げて、著名な日本の指導者を会員にした。
日本人が独自のロッジを望むようになったのは、健全かつ自然である。」
石橋正二郎は、ブリヂストン・タイヤの社長だが、娘の安子が鳩山一郎の息子・威一郎に嫁ぎ、鳩山一郎に資金援助をしていた人だ。
正二郎は、1955年2月10日に、ジョン・ロックフェラー3世に手紙を送っている。
「私と鳩山一郎は、20年以上も密接な関係を持ってきました。
昨年12月に鳩山内閣が成立して以来、私はアメリカの反応を注意深く見てきました。
反応は好意的ではなく、ミス・インフォメーションが原因です。」
この手紙をうけてジョン・ロックフェラー3世は、アメリカ国務省に連絡し、3月4日にこう返事した。
「日本での鳩山の人気と重要性は、当地で理解されています。
アメリカ国民が鳩山の政策を誤解することはないでしょう。」
石橋正二郎は、鳩山内閣が掲げる日ソの国交回復などの政策について、アメリカの反応を気にしたらしい。
鳩山一郎は、フリーメイスンのコネを外交に利用したと思える。
鳩山内閣は、防衛分担金(日本が負担する在日米軍の費用)を削減しようとし、その交渉は1955年3月25日に始まった。
これは一郎がメイスンの第3階位に昇格する儀式の前日で、しかも交渉者の1人は儀式に出席したジョン・ハルである。
この交渉は、4月下旬にアメリカが178億円の大幅削減に同意した。
55年3月25日は、フィリピンのセサール・ラヌーサ外務省経済局長らが、戦後賠償の交渉のために来日した日でもあった。
少し前の3月5日に、フィリピンのラモン・マグサイサイ大統領は、鳩山首相に親書を送り、交渉を要請していた。
フィリピンでは、長くフィリピンを植民地支配したアメリカの影響で、フリーメイスンが大きな力を持っていた。
歴代の大統領ら、要人の多くがフリーメイスンに入会していた。
だから賠償交渉でも、鳩山一郎のメイスンのコネは有利に働いただろう。
(2021年9月20日、10月2&6日に作成)