(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)
ジョン・フォスター・ダレスは、1950年4月に米国務省の顧問に就任し、翌5月に対日の平和条約の責任者に任命された。
そして来日し、6月21日から1週間にわたって、マッカーサーや吉田茂・首相や昭和天皇の側近と会談した。
ダレスは6月17日(来日する直前)には、韓国を訪れている。
そして「朝鮮半島には差し迫った危険はない」と日本に報告していた。
しかし6月25日に朝鮮戦争が始まったのである。
朝鮮戦争の開戦前、アメリカはマッカーサーを筆頭に「北朝鮮は攻めてくることはない」と判断していた。
開戦の第一報が入った時マッカーサーは、「おそらく威力偵察にすぎない。ワシントンが邪魔しなければ片手で片付けてみせる」と豪語したという。
だがわずか2日で北朝鮮軍は、韓国の首都ソウルを陥落させた。
米軍は釜山周辺に追いつめられた。
だが9月15日にマッカーサーが周囲の反対を押し切って仁川上陸作戦を行い、一気に形勢が逆転した。
10月初旬には米軍が北朝鮮に侵攻し、中国国境まで進軍した。
すると10月末に中国軍が参戦してきて、米軍は敗走となった。
翌51年1月に中国軍はソウルを奪ったが、3月には今度は米軍が奪回した。
その後は38度線を挟んで、53年7月27日の休戦協定まで攻防が続いた。
朝鮮戦争の時期、日本は米軍に占領されているのを終えて、国際社会に復帰していく最中だった。
歴史を振り返ると、戦後日本の在り方に朝鮮戦争が大きな影響を及ぼしたことが分かる。
特に大きかったのは、マッカーサーが仁川上陸作戦の後にトルーマン大統領に逆らって強硬路線を採り続けた結果、1951年4月11日に解任された事である。
マッカーサーは戦後日本の最初の設計者で、日本国憲法の草案をまとめ、天皇制を残すことや軍事力を放棄することを決めた。
その人物が、日本の占領が終わろうとする直前に居なくなったのだ。
朝鮮戦争が始まる前にアメリカが考えていた、日本の独立のモデルは、次の3つがあった。
①マッカーサーの案
日本の非武装中立+沖縄の軍事要塞化
②アメリカ国務省の案
NATOのような集団防衛条約(太平洋協定)
③アメリカ国防省の案
早期の独立には反対、独立するならば軍事面での占領は継続する
①の非武装中立は、マッカーサーの基本理念だったが、これは「戦争の違法化」という国連憲章の理念を反映すると同時に、敵国だった日本から軍事力を奪う目的があった。
このモデルに基づいて書かれたのが、軍事力と交戦権を放棄した憲法9条2項である。
日本近代史を研究するジョン・ダワーは、こう述べている。
「マッカーサーの構想では、日本の非武装中立は、沖縄を含む太平洋の島々に国連軍を配置することで守られることになっていた」
マッカーサーは、沖縄に米空軍と核兵器を配備しておけば、東アジア沿岸の敵軍は破壊できると考えていた。
そもそも国連は、国連軍という新しい安全保障の仕組みが最大のセールスポイントだった。
マッカーサーが日本国憲法の草案に着手した1946年2月3日は、ロンドンで国連軍創設のための第1回会議が始まった日でもあった。
その日、マッカーサーが部下に示した日本国憲法の原則には、日本の防衛は「いまや世界を動かしつつある崇高な理念に委ねられる」と書かれていた。
憲法9条2項が国連軍を前提に書かれたのは、疑問の余地がない。
国連憲章では、国連軍を次のように位置づけている。
まず国連の安全保障理事会が、「平和に対する脅威」や「侵略行為」が存在するかどうかを決定する。(39条)
存在すると決めた場合、「暫定措置」(40条)、「勧告」(39条)、「非軍事的措置」(41条)という3段階の対処をする。
それでも状況が改善しなければ、国連軍を使って攻撃する。(42条)
国連軍は、国連加盟国と安保理が結ぶ「特別協定」に基づいて編成される。(43条)
その行動は5大国(米・英・ソ・中・仏)の参謀総長をメンバーとする軍事参謀委員会(47条)の助言のもと、安保理が決定する。(46条)
もしマッカーサーが1948年のアメリカ大統領選で勝利していたら、国連軍の構想は現実になったかもしれない。
(※マッカーサーには新生・中国ともソ連とも協調する意思はなかったと、私は見ています。この本ではマッカーサーがアメリカ外交を動かせばもっとましになったはずと語っているのですが、強い違和感を持ちます。)
実際には、国連軍を編成するために必要な「特別協定」(43条)についての協議が、米ソの対立で全く進展しなかった。
そのため「特別協定」は一度も結ばれることなく現在に至っている。
次は、アメリカ国務省が1950年ごろから考え始めた、NATOの太平洋版である「太平洋協定」である。(「②アメリカ国務省の案」のこと)
このメンバーは、アメリカ、カナダ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、日本が想定されていた。
これは軍事同盟だから、日本は再軍備と憲法改定が必要だし、成立していたら朝鮮戦争やベトナム戦争に日本は何らかの形で参戦することになっただろう。
太平洋協定については、ジョン・フォスター・ダレスは当初から「アメリカがNATO諸国に対し持つような兄弟愛を、日本との間には持てない」と否定的だった。
マッカーサーもこの案には明確に反対しており、オーストラリアやニュージーランドは第二次大戦中の記憶から日本と同盟関係になるのを拒否した。
(※日本は第二次大戦中に、オーストラリアを攻撃している。
そしてオーストラリアとニュージーランドは、イギリス連邦に入っている国である。)
結局この構想は、3つに分割する形で成立した。
アメリカは、日本とは安保条約を結び、フィリピンとは米比相互防衛条約を結び、オーストラリア・ニュージーランドとはANZUS条約を結んだ。
太平洋協定について日本人が憶えておかなければならないのは、「日本が再び侵略行動を採るのでは」という不安に配慮した構想でもあった事である。
トルーマン大統領は「この取り決めは、加盟国の1国が、たとえば日本が再び侵略的になった場合、その攻撃に共同で立ち向かう目的も持つ」と明言していた。
つまり在日米軍基地は、いざとなったら他国と共同で日本を攻撃するのを想定していた。
私たち日本人はすっかり忘れているが、日本の独立に向けた安全保障の構想には、「日本に対する(周辺諸国の)安全保障」の側面があった。
第二次大戦で日本軍に攻撃された周辺諸国は、日本への不信感がとても強かった。
アメリカが密約で「日本軍の指揮権」を確保しようと拘ったのには、日本が再び脅威にならないようにコントロールする目的があった。
次は、「③アメリカ国防省の案」だが、アメリカ軍部は米軍基地が使えなくなる形での日本の独立に絶対反対を採っていた。
軍部が唯一認めていたのは「部分的な講和」の構想で、提案者の陸軍次官ヴォーヒーズは「在日米軍の法的地位は変えない半分講和」と表現していた。
国務省はこの構想を、こう表現している。
「政治と経済については正常化する協定を結ぶが、軍事面では占領体制を継続する」
これが戦後日本で続いていく事になり、今でも在日米軍の将校たちは「1952年(占領終結)や1972年(沖縄返還)で日本に返還したのは、民政であって軍政ではない」と言うことがある。
『米日の統一指揮権』の歴史を振り返ると、朝鮮戦争の影響が強い。
1950年6月25日に朝鮮で開戦すると、ソ連が欠席中だった国連安保理は、立て続けに韓国に攻め込んだ「北朝鮮の侵略行為」を非難する3つの決議を可決した。(6月25日、6月27日、7月7日)
7月7日の決議(第84号)では、アメリカに対して国連軍の統一指揮権を認め、司令官の任命権と国連旗の使用を認めた。
この件では実は、国連と米軍との間で激しい対立があった。
トリグブ・リー国連事務総長は、国連軍が軍事行動をするにあたり、その行動を監督する特別委員会(朝鮮援助の調整委員会)を設置しようとした。
ところがアメリカ軍部が猛反発し、国連が関与しない形でアメリカが国連軍を指揮することで決着した。
7月7日の決議こそが、「国連軍のような米軍」の法的根拠となっている。
だが本当は、「暫定措置」「勧告」「非軍事的措置」の3段階の対処をして、それでも状況が改善しなければ国連軍が軍事行動するのがルールである。
それに各国が兵力を提供する「特別協定」も成立していなかった。
だから朝鮮戦争での国連軍の編成は、正規の手続きではなく、加盟国への強制力を持たない「勧告」の形となった。
この結果、国連軍に参加したのは米軍と韓国軍がほとんどで、あとはアメリカの同盟国などがごく少数の兵力を派遣するにとどまった。
問題だったのは、この朝鮮国連軍スタイルが続き、「国連の勧告にもとづいて編成された、米軍が統一指揮権をもつ連合軍」、いわゆる「多国籍軍」が誕生してしまった事である。
アメリカはこの後、ソ連が安保理に出席するようになってからも同じ事をやりたいと考え、1950年11月3日に国連に「平和のための結集決議(第377号)」を提出した。
アチソン国務長官とダレスが考えたこの決議は、安保理の勧告ではなく、「国連総会の勧告」で軍事行動を可能にするものだった。
当時の国連加盟国60ヵ国のうち、社会主義国(ソ連側の国)は6ヵ国だけだったので、「総会の3分の2以上の賛成で軍事行動を勧告できる」としたこの決議は、安保理でソ連が持っていた拒否権を無効にすることになった。
(2019年3月13日~17日に作成)
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