(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)
1946年7月4日に、厚木飛行場に2人の男が到着した。
ジョン・オハラ司教とミカエル・レディ司教で、米カトリック界の有力者だった。
出迎えにはローマ教皇庁・駐日使節のパウロ・マレラ大司教らが現れ、一行は帝国ホテルへ向かった。
3日後には日比谷公会堂で2人の歓迎式典が行われたが、参加者には東京裁判の裁判長ウィリアム・ウェッブも居た。
それから3週間、ジョン・オハラとミカエル・レディは全国を回り、国会議員、文化人、皇族、キリスト教の司祭らと面談した。
2人が日本に来たのは、1946年1月にローマ教皇庁に向けてダグラス・マッカーサーから支援の要請があったからだ。
アウグスト・ギアハードという従軍神父が、46年1月16日付の書簡で、マッカーサーの意向をローマ教皇庁・駐米使節館に届けていた。
「45年12月後半に、マレラ大司教との会見でマッカーサーは、日本の精神的な復興に米カトリックの協力を切望すると語りました。
マッカーサーの発言は、以下の通りです。
『日本人は、国家神道の廃止による空白を埋める物を求めている。
この精神的空白を埋められるのは、カトリックしかないと思う。
教会組織、道徳上の教え、その儀式は、日本の国民性に最も適している。
日本人を良き新しい生活に導くのが私の務めだが、米国の聖職者の支援を歓迎したい。』」
すでに1945年12月15日に、GHQは「神道指令」を出していた。
国家と神道を分離し、教育から神道を排除した。
そして46年1月には、天皇の「人間宣言」が出た。
裕仁(昭和天皇)は、自身の神格性を否定し、それを信じ込まされてきた国民は茫然自失となった。
この状況は、宗教団体にとって千載一遇の機会であり、日本という市場で信者の獲得が見込めた。
1945年11月の時点で、米国プロテスタントは代表団を来日させていた。
だから、モタモタしていられないと、米国カトリック界は色めき立った。
前述したアウグスト・ギアハードの書簡は、NCWCのハワード・キャロル事務局長に転送された。
NCWCは、「カトリック救済奉仕団」の略で、ワシントンに本部を置き、全米のカトリック教会を監督していた。
そしてハワード・キャロルの選考で、ジョン・オハラ(バッファロー教区司教)とミカエル・レディ(コロンブス教区司教)が選ばれた。
選ばれた2人は、米議会にも太いパイプを持っていた。
日本カトリック復興委員会が1946年7月7日に作った報告書には、こうある。
「日本人は言われるままに戦い、血を流して死に、敗北と災禍で終わった。
この事態に日本人はうろたえているが、現人神だった天皇は米国人への服従を命じて、自分を神としたのは虚偽だったと言っている。
尊崇された偶像は崩壊し、神聖な国土も不可侵ではなくなった。
これが巨大な精神的空白を生んでいる。」
敗戦後の日本では、全国で新興宗教が誕生し、「神々のラッシュ・アワー」と揶揄されるほどだった。
ジョン・オハラとミカエル・レディは、GHQはを訪れて、ダグラス・マッカーサーと会談した。
この時のことは、「オハラ・レディ司教の報告書」に書いてある。
「マッカーサーは、数千人規模の宣教師を派遣するように促し、こう語った。
『日本に巨大な精神的空白が生まれている。
自分はプロテスタントだが、フィリピン滞在時にカトリック教会を見てきた。
東洋では、罪の赦免を行うカトリックが受け入れ易いだろう。
世界平和のためカトリックはこの機会を逃してはならぬ。』」
当時、キリスト教に最も親近感を示したのは、天皇と皇族だった。
キリスト教の社会運動家である賀川豊彦は、裕仁(昭和天皇)に講義を行っていた。
女性キリスト教運動家の植村環は、良子(皇后)に聖書を進呈した。
宣仁(高松宮)の妻・喜久子は、1946年7月20日にジョン・オハラとミカエル・レディの出席したレセプションで、こう発言した。
「私たちは、日本の敗戦を神に感謝します。
軍部を崩壊させたのですから。
敗戦は大きな痛手ですが、この国には偉大な精神的未来があり、そこで導けるのはカトリック教会しかありません。」
(オハラ・レディ司教の報告書より)
喜久子の発言は、当時の皇室の空気を如実に示している。
余談だが、喜久子の父方の祖父は、徳川慶喜(徳川幕府の最後の将軍)である。
1946年12月12日に、マッケイブ司教がバチカン(ローマ教皇庁)に宛てた報告書には、こうある。
「マッカーサーは、『日本では村落の指導者の改宗に努力を傾注すべきだ』と語った。
一般民は指導者の指図に従うので、それが最も効果的らしい。
マッカーサーは、宣教師を迅速に送り込めない場合、共産党が改宗者を獲得すると恐れている。」
ダグラス・マッカーサーは、キリスト教の布教のために、天皇の改宗を検討していた。
ジェームズ・フォレスタル海軍長官は、来日してダグラスと会談したが、1946年7月10日にこう書いている。
「マッカーサーは、天皇のキリスト教改宗を許可する事を少し考えたが、実現にはかなり熟考を要すると語った。」
ジョン・オハラとミカエル・レディは、滞日した3週間に調べた事を、バチカンに報告した。
これを受けてバチカンは、1946年11月9日に「ローマ教皇庁・国務省メモランダム」を作成したが、こう書いている。
「オハラとレディや、他の情報源によると、日本の情勢がカトリックに極めて有利なのは明らかだ。
大規模な改宗も十分に可能である。
ローマ教皇は、日本をアメリカの司教に任せたい意向だ。
日本のニーズに応えるため、特別に宣教師を養成する必要がある。
日本語や日本人の慣習や心理を教える神学校の開設が望まれる。」
この文書からは、市場拡大への執念すら伝わる。
まるで多国籍企業の経営戦略を読んでいるようだ。
1946年のクリスマスに、GHQはキリスト教の宣教師の入国を許可した。
その窓口を委ねられたのが、「日本カトリック復興委員会」だった。
以降、宣教師が続々と来日した。
この時期に、カトリック界が神経を尖らせていたのは、フリーメイスンの日本進出だった。
すでに1942年6月3日に、ワシントンにいるミカエル・レディ司教に次の書簡が届いていた。
ミカエルは当時、NCWC(カトリック救済奉仕団)の事務局長だった。
書簡の差出人は、インディアナ州のジョン・ノール司教である。
「フリーメイスンは、第一次大戦後の英国の政策を動かし、現在の世界大戦でも戦後の秩序を準備している恐れがあります。
この事は各国の司教も証言しています。」
1944年6月25日にもジョン・ノールは書簡を送り、こう書いている。
「フリーメイスンの南方評議会は、外交団にメイスンを入れるため、ジョージ・ワシントン大学に100万ドルの寄付をしました。
カトリック教会に敵対する全機関と協力する、委員会も設置しました。
英国にある各国の亡命政府は、メイスンの支配下にあり、対抗策を採らなければメイスンとユダヤ人が和平を支配する恐れがあるそうです。」
ジョージ・ワシントン大学は、国際政治学が有名で、ホワイトハウスに隣接し、外交官を目指す学生も多い。
その大学を握ろうとしているとの報告である。
また当時の英国には、ナチスを逃れてきた者たちの亡命政府がつくられていた。
1953年10月に、チコニャーニ大司教がNCWCに送った書簡では、フリーメイスンの問題を司教会議で取り上げるのを教皇庁が承認した事を伝えている。
NCWCのミカエル・レディ司教が保管していた、フリーメイスンの内部資料が、私の手元にある。
それは、スコティッシュ・ライト南方評議会が作成した、1941年版の活動報告書である。
この報告書は、ナチスのメイスン弾圧を述べ、各国の有力メイスンの名を挙げている。
ルーマニア王家や、英国のケント公、ペルーのベナヴィデス前大統領などが、列記されている。
この資料がバチカンの手に渡り、研究されていたのである。
(2021年9月20日、10月1日に作成)