(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)
スイスのジュネーブにある赤十字国際委員会(ICRC)の本部。
そこにある、1945年の日本の降伏の直前に皇后(良子)の名義で行われた、巨額の寄付の文書を調べた。
私が皇室の資産に関心を持ったのは、ロンドンの公文書館でICRCへの皇后の巨額寄付の記録を見つけた時だった。
見つけた英国政府の文書によると、次の事があった。
1945年8月、広島に原爆が落された直後に、赤十字国際委員会(ICRC)の代表としてマルセル・ジュノーとマルガリータ・ストレーラーが来日した。
4月に日本政府からICRCに連絡があり、良子・皇后が赤十字に1千万スイスフランを寄付すると伝えたためだ。
現在の数十億円になる金額だが、来日したマルセル・ジュノーは寄付の手続きを日本政府と交わした。
これは、日本が降伏する数日前である。
日本が降伏すると、スイス当局はスイス国立銀行(SNB)にある日本資産を凍結した。
その後、上記の巨額寄付金をめぐって赤十字と連合国が争った。
赤十字は英国に対し、皇后が寄付したカネの凍結を解消するよう求めた。
当時、ICRCは破産状態だった。
第二次大戦中にカネが枯渇し、債務は650万スイスフランに達していた。
一方、英国は「皇后の寄付金は、元々は英国が日本に捕まった捕虜たちの救援で送ったカネだ」と主張した。
赤十字と英国の争いには、第二次大戦中に日本政府とスイス政府が結んだ「金融協定」が絡んでいた。
第二次大戦中、信用力のある通貨は、スイス、ポルトガル、スウェーデンといった中立国の通貨だった。
特にスイスフランは人気で、日本もそれを入手して武器・弾薬の購入などに充てていた。
大戦の初期は、同盟国のドイツが日本にスイスフランを供給してくれた。
しかし戦局が悪化すると、日本は自力調達を求められ、日本政府はスイスと交渉して協定を結んだのである。
協定の仕組みは、こうだった。
まず連合国が、日本の捕虜になった者達を救援するためのカネを、スイス国立銀行に振り込む。
スイス国立銀行はそれを、チューリッヒの横浜正金の口座に入れる。
すると東京の横浜正金は、それに相当する日本円を、駐日スイス公使に支払う。
公使はそのカネで、日本にいる連合国の捕虜に慰問品を送る。
私はベルンの連邦文書館で、日本政府が駐日スイス公使に宛てた書簡を見つけた。
1944年8月17日付、差出人は重光葵・外相で、「金融協定」の文書だった。
横浜正金銀行は、日本政府が公認する外国為替銀行である。
上に書いたのは、そのチューリッヒ口座でスイスフランを調達する仕組みだ。
この金融協定のおかげで、1944年9月末には2398万スイスフランが、日本の降伏時点で7477万スイスフランが、スイス国立銀行に預けられた。
アメリカ人のジャーナリストであるポール・マニングが書いた『ヒロヒト』(邦題は『米従軍記者の見た昭和天皇』)によると、次の事実があった。
1944年1月に敗戦の可能性が高いと知った裕仁(昭和天皇)は、木戸幸一・内大臣に指示して、皇室の資産を密かに海外に移すことにした。
現金をスイスに送りつつ、金塊は香港で売却してそのカネも送金する。
その業務は横浜正金が行った。
ダグラス・マッカーサーは、この事を知ったが、無視する方針を選んだという。
赤十字国際委員会(ICRC)の文書と、GHQの文書によると、上記した良子・皇后の1千万スイスフランの寄付の経緯は、次の通りだった。
1945年4月に、スイスの首都ベルンの日本公使館から、ICRCに非公式の連絡が入った。
良子が赤十字に「重要な贈り物」をしたいと言うのだ。
この時期は、ちょうどアメリカ軍が沖縄に上陸した頃である。
45年8月7日に東郷茂徳・外相は、ICRCへ書簡を送り、1千万スイスフランの寄付を伝えた。
翌8日に横浜正金は、チューリッヒ駐在員の北村孝治郎に、ICRCへの送金を指示した。
ところが直後に日本政府は、スイスを通じて連合国に降伏の意思を伝え、14日にスイスは日本資産を凍結した。
8月20日にスイスのベルンにいる加瀬・公使は、スイス国立銀行に1千万スイスフランの送金を要請したが、拒否された。
興味深いのは、横浜正金がスイス国立銀行に開設していた口座だ。
次の4つの口座を持ち、GHQの文書によると凍結時点の残高は次の通りだった。
①第一勘定 3699万6310スイスフラン
②第二勘定 1992万9565スイスフラン
③振替勘定 29万9510スイスフラン
④金預金 500万7432スイスフラン
これらの口座が開設されたのは、1944年8月で、グアム島の守備隊が全滅した頃である。
開設してからわずか1年で、合計6200万スイスフランも預けられたわけだ。
日本政府のICRCへの1千万スイスフランの寄付は、第一勘定から行う予定だった。
英国の1945年5月の外務省メモでは、「日本公使が東京に電報を送り、ICRCに1千万スイスフランの寄付を提案した」とある。
同年10月にも「(駐在員の)北村が500万スイスフランを引き出した」とある。
英国が、スイスの日本公使館の公電を傍受していたのは明らかである。
1948年に入ると、赤十字と連合国の交渉は泥沼になった。
英外務省は48年11月15日の書簡で、「我々は、日本から赤十字への贈り物を、降伏前の資金処分と見ている。これは英国政府が日本の捕虜になった者たちに送った救援資金を、日本が為替操作で蓄積したものである」と述べている。
ICRC(赤十字国際委員会)の48年12月17日の書簡は、「赤十字の資金不足は、(英国の)好意的な決定で劇的に緩和できる」と返事している。
当時、極東委員会では、日本が中立国に蓄積した資産を、復興に使う話が出ていた。
そして同委員会は終戦直後に、皇后の寄付を有効と認めない決定を下していた。
しかし1人のユダヤ教徒の弁護士が、1千万スイスフランをICRCに与える流れを作った。
その弁護士とはセイモア・ルービンで、長年ワシントンで活躍し、国務省でも働いた人だ。
セイモアは第二次大戦中に、「セーフヘブン作戦」に参加した。
この作戦は、中立国にあるドイツの資金を追跡する作戦で、ドイツが中立国に移した資産は10億ドルと推定され、その中には金塊が含まれた。
セイモアはこの作戦で、スイスとの交渉役を担当した。
セイモア・ルービンは1948年6月に、アメリカのトルーマン大統領に宛てて覚書を出し、こう直訴した。
「今のICRCを維持できるのは、日本が寄付した1千万スイスフラン(250万ドル)です。
英米の政府が寄付していたと認めれば、ICRCに役立ちます。」
アメリカの働きで、英国は1千万スイスフランの所有権を放棄し、1949年5月6日にICRCに伝えられた。
私はチューリッヒの「スイス国立銀行(スイス中央銀行)」へ行き、そこの歴史文書を管理するパトリック・ハルベッセンと会った。
スイス連邦政府の1946年12月6日付の文書を見せてもらうと、それは日本の1千万スイスフラン寄付の記録で、冒頭部はこうだった。
「1945年4月に、ベルンの日本公使館のアドバイザーであるJ・バーネンスは、内密にICRCへ皇后の寄付を受け取るかを問い合わせた。
ICRCのピクテは、同意の返事をした。
8月7日に、日本の外相はICRC代表のジュノーに、1千万スイスフランの寄付の旨を伝えた。
日本側は、ベルンの日本公使に送金を指示した。」
上の文書では、送金が遅れて口座が凍結された事も記述していた。
J・バーネンスは日本公使館のスイス人アドバイザーで、ピクテはICRCの法律顧問であるジーン・ピクテを指す。
スイス国立銀行には、東郷茂徳・外相がICRCのマルセル・ジュノーに宛てた、45年8月7日付の書簡もあった。
この書簡がスイス国立銀行にある事は、同銀行がICRCと連携した事を意味している。
アメリカ陸軍の報告書によると、1945年5月以降、スイス国立銀行にある横浜正金の口座から、相次いで現金が引き出された。
受取人は日本公使館の加瀬・公使らで、総額は226万スイスフランに達している。
パトリック・ハルベッセンは、1945年のスイス国立銀行の理事会の議事録を見せてくれた。
45年5月11日の議事録にこうあった。
「ベルンの日本公使館がスイス外務省に、スイス国立銀行の口座のカネを使えるか問い合わせてきた。
モスクワの日本公使館に600万スイスフランを送金したいと言うのだ。
これをスイス外務省は、ロシア中央銀行との関係を改善する好機と見ている。」
5月11日は、ドイツが降伏した直後である。
さらに日本が降伏した翌日の1945年8月16日の議事録には、こうある。
「スイス国立銀行の口座にある日本の残額は、6千万スイスフランである。
日本は100万スイスフランの引き出しを図ったが、スイス政府と協議して支払いを拒否した。」
これらの文書を読むと、敗戦が確実になった1945年の春以降、日本政府(皇室)がスイスから資金を移そうとしたのは間違いない。
パトリック・ハルベッセンが助言をくれた。
「その時期は、カリー使節団がスイスに来て、ドイツの資産を協議した頃だ。日本の資産も対象だったと思う。」
カリー使節団とは、1945年2月にスイスを訪れた連合国の調査団である。
この一団は、ドイツ資産の凍結や、スイスを通過するドイツとイタリアの物資輸送の停止を要請した。
そして3月8日に、終戦したらドイツ資産を凍結する「カリー合意」が結ばれた。
その2日後の3月10日には、東京にアメリカ軍の大空襲があり、10万人が死亡している。
日本政府(皇室)は敗戦すると確信し、スイス国立銀行にある横浜正金口座の6千万スイスフランを引き出そうとし、モスクワに送金したり、ICRCに巨額の寄付をしようとしたのだろう。
皇室や横浜正金の海外コネクションを調べる中で、スイスのビューレ社が浮かび上がってきた。
ビューレ社は、スイスを代表する兵器メーカーで、第二次大戦中はドイツに兵器を売っていた。
1948年2月12日に、スイス国立銀行の横浜正金口座から、ビューレ社に299万5千スイスフランが支払われており、駐在員の北村孝治郎が終戦時に指示していたという。
スイス国立銀行の1948年9月1日付の議事録には、「横浜正金のビューレ社への支払い指示」という文書があった。
それを見ると、日本の三菱商事が兵器を買い、その支払い額が299万5千スイスフランだった。
終戦で日本の口座が凍結されたため、48年2月によくやく支払われたわけだ。
横浜正金銀行は、表向きは外国為替銀行だが、実態は皇室資産の逃避や、日本企業の兵器購入に携わっていたのである。
そして皇室は、横浜正金銀行の22%の株を持つ、大株主(最大株主)だった。
横浜正金銀行のカネは、GHQにとって魅力的だった。
1949年9月13日のGHQ覚書には、こう書いてある。
「横浜正金銀行は、スイスに5200万スイスフランを預金している。
これは凍結されている。
スイスと日本は交戦状態にならず、敵国資産の手続きは適用されない。
スイス政府によると、凍結は没収ではない。
この資産を解除してドルに交換すれば、日本経済に相当な利益をもたらすだろう。」
この文書は、ウィリアム・マーカット経済科学局長の名が記されている。
(※以下はおまけで加える記事です。
同じ書物からの抜粋になります。
外国にある日本公使館の実態が分かります。)
1946年1月20日に、約70名の日本人が、バスでスウェーデンの首都ストックホルムを出発した。
彼らのもとに、東京にいるマッカーサー元帥から「欧州にいる日本人は直ちに帰国せよ。1月29日にナポリから出航する船で帰国せよ」との命令が届いたのだ。
彼らの乗るバスには、スウェーデンのアメリカ公使館の書記官アドルフ・リアムも乗っていた。
この男は、実はOSS(アメリカ政府の諜報機関)の工作員だった。
ナポリに向かう日本人の中に、榎本桃太郎がいた。
榎本桃太郎は、毎日新聞の特派員だが、日本の降伏後に英国公使館と接触し、「日本の在外公使館にカネが隠されている」と密告した。
英国公文書館にある1945年11月の文書には、桃太郎が接触してきて話した事が出ている。
1945年11月3日に、現金200万クローナを詰めた皮袋が、スカンディナヴィスカ銀行に持ち込まれた。
これは、日本から送られてきて、日本公使館が保管していたカネだった。
「スウェーデンにある保管金は600万クローナだが、他にもスイスの日本公使館もカネを隠匿している」と、桃太郎は証言した。
榎本桃太郎は、数か国語を話せて、スパイ活動をし、闇市場にも手を出していた。
そんな男を、英国はアメリカに紹介した。
そして前述のOSS工作員アドルフ・リアムは、桃太郎から日本政府の在外資産などの情報を聞き出した。
桃太郎らの乗った帰国船は、ナポリを出航して45年2月22日にセイロンに着いた。
そこから出航した後の3月10日に、桃太郎からアドルフ・リアムに宛てて乗船客たちの調査報告書が送られた。
帰国船には、原田健・駐バチカン公使らが乗っていた。
桃太郎は、こう報告している。
「原田と話した結果、連合国への協力は日本のためにならないとの意見だった。彼によると、愛国者の最高の方針は占領当局(GHQ)に協力も反抗もしない事だと言う。」
桃太郎の調査報告は、16名に及んでいる。
アドルフ・リアムがワシントンに送った機密報告「ジャパニーズ・レポート」(1946年5月31日付)を読むと、帰国船に乗っているスウェーデン公使館の駐在武官だった小野寺信をリーダーに、スパイ組織を作ろうとしたのが分かる。
同レポートは、「適切に選抜した10名のジャーナリストを帰国させ、小野寺の指揮下に置けば、浸透できない対象はないだろう」と書いている。
榎本桃太郎は帰国後、毎日新聞を退社して、友人とインド貿易の会社を設立した。
そして1949年にインドに渡ったが、2年後に自殺したとの知らせが日本に届いた。
ジャパニーズ・レポートでは、「榎本を記者として近東諸国へ送りスパイ活動を行わせる。週1回でアメリカ領事に報告させる」と提案している。
そして榎本桃太郎の46年3月3日付のアドリフ・リアム宛ての書簡では、「私は極東よりも近東で有益に働けると思います」と述べている。
これを見ると、彼のインド行きはスパイ活動だった可能性が高い。
だから本当は自殺ではないかもしれない。
なお、アメリカ政府の榎本桃太郎のファイルは、今も一部が機密扱いである。
(2021年10月1~2日に作成)