皇室財産の没収、GHQが明らかにした皇室財産

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

1945年11月初めに、日本の新聞は一斉に「皇室の資産」を報じた。

11月1日付の朝日新聞は、こう報じている。

「GHQは、天皇の財産を10月30日に初めて公表した。

皇室は、現金や有価証券、土地、建物だけでも、15億円以上を所有している。

精確には15億9611万5500円である。」

(※現在と円の価値が違い、当時の16億円は超高額である)

1945年11月18日にGHQは、皇室資産の凍結命令を出した。

その直前には、三井や三菱といった財閥の資産も凍結した。

GHQが公表するまで、皇室の資産は秘密にされていた。

皇室資産についての本で最も詳しいのは、黒田久太の『天皇家の財産』だろう。

そこには「当時アメリカは、皇室を金銭ギャングの最大のものと認識していた」とある。

GHQの報告書によると、1945年9月1日時点での皇室の資産総額は16億7500万円で、現在の5500億円以上にあたる。

内訳は次のとおり。

現金      3304万5960円

有価証券  3億1109万8337円

土地    3億9397万4680円

木材(森林) 5億9286万5000円

建物    3億1220万8475円

その他     3207万4621円

現金は、全体の約2%だが、14の銀行に預けられていた。

有価証券を見ると、①国債が1億3822万11513円、②地方債が2634万7217円、③株式が8798万3583円、④社債が5854万6024円である。

国債については、GHQは「日露戦争の際に、皇室が大量の国債を購入した」と指摘している。

また、有価証券の25%は海外投資だった。

皇室の保有株式は、主な銘柄と金額は次のとおりだった。

日本銀行    2080万円

横浜正金銀行  2155万231円

日本興業銀行   142万313円

台湾銀行     189万1500円

帝国銀行     133万6990円

日本郵船     826万534円

北海道炭鉱鉄道  670万200円

南満州鉄道    329万563円

台湾製糖     198万円

王子製紙     358万2150円

関東配電     173万7950円

帝国ホテル     59万6250円

所有株を見てまず気付くのは、投資が銀行、海運、鉱山に集中している事だ。

さらに財閥系の安定株が目立つ。
三菱系の日本郵船、三井系の王子製紙などである。

日本郵船や夕張鉄道では、皇室の保有比率が8%に達している。

また、台湾や満州という植民地の企業も目立つ。

日本銀行の場合、皇室の1940年時点の保有株は14万852株で、全体の47%にあたり、最大の株主だった。

2番目の株主は6345株だから、皇室の持ち株の多さが分かる。

この株は、「内蔵頭」の名義で保有し、宮内省の「内蔵寮」の長官が管理した。

横浜正金銀行でも、皇室は22万4912株を持ち、22%を占めた。
2番目の株主は2.2万株である。

GHQの報告書「皇室資産」は、こう述べている。

「横浜正金銀行は、東南アジアの開発の多くで資金調達を行い、支店網は1936年の10から、43年では53に増加した。

さらに(皇室が株主の)日本郵船と大阪商船は、占領地の物資輸送に関わった。

だから皇室は、太平洋戦争を資金支援したのは明らかだ。

皇室が、日本銀行と横浜正金銀行の圧倒的な大株主になっていた事について、黒田久太は明治政府の戦略があったと言う。

明治の帝国憲法が制定される頃、政府は皇室の威信ために、政府予算外の皇室資産を作ることにした。

そして1885年に、日本銀行と横浜正金銀行の政府保有株が皇室に移された。
名義は「内蔵頭」である。

1887年には日本郵船も移された。

さらに「御料地の創設」が行われた。

1885年に宮内省は、「御料局」を設置し、全国の官有地を吸収した。

こうして天皇は、日本一の資産家となった。

GHQの報告書「皇室資産」には、次の一節がある。

「皇室資産は、占領当局への敵対行為に流用されやすい。
数億円は、金塊や譲渡可能な流動資産である。

また皇室は、持ち株の特権を使って占領政策を妨害できる。」

1945年11月14日のGHQメモには、こうある。

「非公式に昭和天皇が、必需品の購入のために宝石類を輸出(売却)したいと打診してきた。それは戦時中に各地に分散され、8万点と推定される。」

皇室の持つ美術品や宝石について、GHQは977万ドルの価値があると試算している。

その1ヵ月後、裕仁(昭和天皇)は別の要請をした。

宮内省の大幅な人員整理をするが、26名に退職金を出したいという。
添付表を見ると、木戸幸一・内大臣が10万円(現在の3千万円)の退職金で、他は5万円~750円と幅がある。

1946年に入り東京裁判(極東国際軍事裁判)が近づくと、3月に裕仁は皇室資産の処分をGHQに提案した。

森林など76万ヘクタール、農地4万ヘクタール、建物4500坪、現金と有価証券2億5千800万円を、手放すとの提案だった。

一部の御料地は、強制的に取得したもので、返還は当然だった。

裕仁の提案にGHQは喜び、46年3月24日のGHQメモはこう書いている。

「これは農地改革の政策や、土地所有者数の拡大をはかる政策に適う。さらに天皇の威信向上の道具として利用できる。」

つまり、GHQの政策と合致するし、温情ある天皇の姿を演出できると考えたのだ。

(2021年10月1~2日に作成)


『日本史の勉強 敗戦・GHQの占領下~形だけの独立まで』 目次に戻る

『日本史の勉強』 トップページに戻る

サイトのトップページへ行く