(『東京新聞2021年6月7日』から抜粋)
極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑の判決を受けた、東条英機らA級戦犯7人の、遺骨の行方。
遺骨は遺族に返還されず、太平洋や東京湾に撒かれたとの説があった。
アメリカ軍の将校が「太平洋の上空から私が撒いた」と記した、公文書が見つかった。
文書を作成したのは、横浜市に司令部があったアメリカ軍の第8軍である。
文書は、1948年12月23日付と、49年1月4日付のもので、現場責任者のルーサー・フライアーソン少佐が報告書として記したものだ。
ルーサーは、48年12月23日の午前0時すぎに、巣鴨プリズンで7人の処刑に立ち会った。
遺体を乗せたトラックは、午前2時10分に巣鴨プリズンを出発し、1時間半後に横浜市にあるアメリカ軍の第108墓地登録小隊に到着した。
そして午前8時ころに同市の火葬場に到着し、遺体は焼かれた。
火葬後に骨つぼに入れられた遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれて、「横浜の東の太平洋上を約30マイル(48km)地点まで進み、遺骨を広範囲に撒いた」とルーサーは記している。
処刑に立ち会ったGHQのウィリアム・シーボルト外交局長は、著書にこう書いている。
「戦争の指導者たちの墓が、将来に神聖視されないように、遺灰は撒き散らす事になっていた」
日暮吉延(帝京大学の教授)
「太平洋への散骨は、ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の死刑囚が川に散骨されたのと同じで、戦犯の殉教者化を防ぐ措置だった。
発見された文書は、遺骨処理を具体的に述べていて、重要な意義がある。」
(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)
1948年12月23日に、東条英機らA級戦犯7人が、絞首刑となった。
巣鴨拘置所で処刑されると、7人の遺体は米軍が警備しつつ、横浜の火葬場に運ばれた。
焼却後は、遺骨は米軍が持ち去り、残灰は近くの興禅寺に預けられた。
そして1951年のサンフランシスコ講和会議の後に、残灰は家族の手に渡された。
遺族は遺骨の返還を求めたが、米軍は応じなかった。
1951年11月29日付の、GHQのG2の内部メモには、こうある。
「(遺骨の返還は)以下の3点から、極めて不適切である。
①我々の戦犯に関する長期的な方針を逆転させる
②日本の急進的なナショナリストに、格好の集結点を提供してしまう
③日本人の多くは、東条英機ら戦犯を背信者と見ており、(遺骨返還をすれば)我々との間に距離を生んでしまう
従って、遺骨は返還できず、破棄されたと回答すべきである。」
上のメモにある「我々の戦犯に関する長期的な方針」とは、天皇を戦犯にせず、全責任を東条英機らに押し付ける政略のことだ。
『戦争裁判余禄』には、マッカーサーの軍事秘書のボナー・フェラーズが、終戦直後に米内光政・元首相に語った言葉が出てくる。
「天皇が罪のないことを、日本側から立証してくれる事が、最も好都合である。
そのためには、近々始まる裁判が最善の機会と思う。
その裁判において、東条に全責任を負担させることだ。
すなわち、東条に次の事を言わせてもらいたい。
『開戦前の御前会議では、たとえ陛下が対米戦争に反対しても、自分は強引に戦争まで持っていく腹を決めていた』と。」
昭和天皇の戦争責任を、全て東条英機にすり替えて負わせた事を裏付ける文書が、アメリカ・バージニア州のマッカーサー記念館にある。
ボナー・フェラーズの部下だったジョン・アンダートン少佐が、1945年10月1日にマッカーサーに提出した覚書だ。
天皇が開戦の詔書に署名したことを記してから、こう進言している。
「結論
詐欺、威嚇、脅迫により不本意な行動をしたと天皇が立証できれば、裁判で有罪判決を受けることはない。
勧告
(a)占領を平和裏に進めるため、開戦の詔書の作成と、その後の天皇の立場をめぐって、詐欺、威嚇、脅迫が行われていたと証明する事実を、全て収集する
(b)収集した事実が、抗弁を立証するに足るものであれば、天皇が戦犯として訴追されるのを阻止すべく措置を講じる」
この後、GHQのCIE(民間情報教育局)は、軍国主義者の糾弾キャンペーンを始めた。
そして東条英機に背信者のイメージが確立した。
遺骨の返還は、この政治宣伝を崩す恐れがあったのだ。
JR根岸線の山手駅から歩いて10分のところに、「横浜カントリー・アスレティック・クラブ(YC&AC)」がある。
140年以上の歴史を持つ、外国人専用のスポーツ・クラブだ。
YC&ACは、明治元年にイギリス人の貿易商が設立したクリケット・クラブを前身とする。
ここには、会員専用のバーやレストランや図書室があり、テニスコート、プール、グラウンドがある。
YC&ACの所在地は、GHQの占領時代は米軍の墓地だった。
そしてA級戦犯として処刑された東条英機らの遺骨が、ここに捨てられたという話がある。
YC&ACの古参会員に、「東条英機らA級戦犯の遺骨をここに埋めたとの話を聞いたことはないか」と訪ねた。
「その噂は耳にしたことがある。
ずいぶん昔に、ここの会員から聞かされた。
処刑後に火葬した遺骨を、敷地に持ち込んで捨てたという話だ。」
「遺骨を埋めた場所は分かるか?」
「下の駐車場の辺りらしい。
当時は沼地だった場所に、撒き散らしたという話だ。」
当時の事情を調べてみた。
YC&ACは、日米が開戦すると日本政府に接収されたが、内部は荒れ放題となった。
終戦後に、広い敷地に目をつけたGHQは、米軍の共同墓地とした。
グラウンドに十字架が置かれ、続々と棺が運び込まれた。
やがてYC&ACから返還の要求があり、1949年2月21日にマッカーサーは「4月25日をもって一部を除きYC&ACに返還せよ」と指示した。
つまり、東条英機らの処刑の4ヵ月後に、返還されたのだ。
A級戦犯の遺体を処理したのは、米軍・第8軍のクォーターマスターで、指揮官はブルース・ケンドール中佐だった。
クォーターマスターは、食料や燃料の調達を行う部門だが、米軍の死者や日本の戦犯の埋葬も担当した。
クォーターマスターの活動記録を見ると、「米軍共同墓地・横浜」が出てくる。
A級戦犯の遺体が持ち込まれてもおかしくはなかった。
(2021年10月7日に作成)