(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)
1950年6月に朝鮮戦争が始まると、ダグラス・マッカーサーは朝鮮国連軍の司令官に任命された。
するとマッカーサーは、すぐに吉田茂・首相に手紙を出し、『7万5千人の警察予備隊の創設』と『8千人の海上保安庁の増員』を指示した。
警察予備隊の創設責任者(軍事顧問団のトップ)となったのは、GHQ民事局の副官フランク・コワルスキー大佐だった。
彼は当時47歳のエリート軍人だったが、引退後に『日本再軍備』という本を著し、内幕を語っている。
「警察予備隊が創設された当初、本当の目的を知っていたのは、ごく少数のアメリカ人と日本政府の最高指導者たちだけだった。
朝鮮戦争が始まり大きな混乱の中、われわれ軍事顧問団に与えられた任務は、朝鮮へ出動して米軍が居なくなった日本基地に、日本の軍隊を配属する事だった。
われわれ顧問団が、事実上の警察予備隊の本部となった。
そして米軍の各基地には、日本の隊員1000名について1名、1つの基地ごとに最大2名の米軍将校を配属した。
その将校たちは、日本人の新入隊員を基地に収容し、さっそく軍事教練を開始した。
警察予備隊のすべての計画と実施は、アメリカ人が行ったのである。
つくりつつあるものが軍隊である事に疑問の余地はなかった。
だが、あたかも警察の新組織であるかの様にカムフラージュする事が求められたのである。
重要なのは、米軍と警察予備隊が同じように編成・装備されている事で、日米が共同作戦を行う場合、大きなメリットとなる。
指揮・通信・兵站をスムーズに統合できるからである。
結局、警察予備隊は米軍を小型にした様なものになった。
われわれはまず、カービン銃とM1ライフル、口径8ミリの機関銃を警察予備隊に支給した。
それでも国外からも国内からも反対の声が挙がらなかったので、口径13ミリの機関銃、60ミリと81ミリの迫撃砲、工兵器材や通信器材も支給した。
こうして、米軍の余った武器を押しつける形で、着々と日本の再軍備を進めた。
一方、吉田首相はそうした事実を否定し、警察予備隊は警察力以外の何物でもないと、断固として主張し続けた。」
現在の米軍に自衛隊が完全に従属する関係は、この創設の経緯が根底にある。
朝鮮戦争中には、もう1つ「日本国憲法の破壊」が起こっていた。
それは、『海上保安庁の参戦』である。
朝鮮戦争が始まると、北側が有利になり、(韓国側で参戦した)米軍は釜山エリアに追い込まれた。
なんとか米軍が持ちこたえていたのは、釜山のすぐ対岸にある日本から、大量の補給が行われていたからである。
その後、マッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)により戦況は一変するが、この直後に仁川の反対側(朝鮮半島の東側)にある元山へ、別動隊を上陸させる計画があった。
そしてこの元山上陸作戦に必要だった機雷の除去のため、海上保安庁の掃海艇が派遣された。
当時、海上保安庁の長官(初代)だった大久保武雄の手記(海鳴りの日々)によれば、派遣の内容はこうである。
1950年10月2日に、大久保は米海軍のバーク少将から、掃海艇の元山派遣を依頼された。
実はポツダム宣言に基づくGHQの命令(一般命令・第2号)には、「日本と朝鮮の水域における機雷は、米海軍の指示下で日本が掃海(除去)する」という項目があった。
しかしそれは平時の話で、戦争中のことではない。
大久保長官は同日に、吉田茂・首相に面会して依頼の事を報告した。
すると「国連軍に協力するのは日本政府の方針である」と出動が許可され、その行動は秘密裏に行うことになった。
この結果、10月4日に米海軍司令官のジョイ中将から山崎・運輸大臣に正式な指令が出て、6日に掃海艇部隊(掃海艇20隻など)が出動した。
掃海作業が始まったが、10月17日に1隻の掃海艇が機雷に触れ、爆発して沈没。
死者1名、負傷者18名を出してしまった。
大久保長官は10月31日に岡崎勝男・官房長官と面会し、「掃海作業を中止すべきか政府の方針を承りたい」と問いただした。
このとき岡崎は、吉田首相からの伝言として、「日本政府としては全面的に協力し、これによって講和条約(平和条約)を有利に導かねばならない」と返事した。
そのため掃海作業は続き、12月15日に解散となった。
結局2ヵ月以上にわたって、元山に他にも、仁川、海州、群山、鎮南浦でも掃海をした。
解散したのは、12月初旬に中国軍の猛反撃があり、朝鮮国連軍(米軍)が退却を始めたからだった。
マグルーダー原案(日米安保条約の米国防省の原案、1950年10月27日に作成)に、「沿岸警備隊を含むすべての日本の軍隊」という表現が何度も出てくるのは、この時期に海上保安庁が参戦していたからである。
日本政府(吉田政権)は1950年7月~12月にかけて、「軍隊の創設」と「参戦」という2つの重大な憲法違反をした。
日本は積極的な戦争支援をすることで、朝鮮特需と呼ばれる米軍から日本企業への莫大な発注をうけ、経済を復活させた。
そして吉田のもくろみ通り、翌年に結ばれた平和条約は非常に寛大なものとなった。
だが朝鮮戦争で米軍に協力する中で生まれた、米軍への完全な従属関係が、その後の2度の安保条約によって固定され、現在まで続くことになってしまった。
(以下は『しんぶん赤旗日曜版2015年9月13日号』から抜粋)
「弟は、米軍の命令で、憲法違反の海外出兵をして戦死しました」
中谷藤市さん(88)は、65年前の出来事を昨日のことのように語り始めた。
朝鮮戦争が起きた1950年に、藤市さんの弟の坂太郎さんは、海上保安庁の掃海艇の乗組員だった。
米軍は、北朝鮮が敷設した機雷の除去を日本政府に要請した。
吉田茂・首相は「憲法9条に反する」という政府内の声も押し切って、海上保安庁に掃海隊を編成させた。
掃海艇はのべ43隻で、米海軍の指揮下に入った。
坂太郎さんの乗ったMS14号は、50年10月8日に山口県を出港したが、9日後に元山沖で機雷に接触して爆発。
坂太郎さんは行方不明になり、18人が重軽傷を負った。
中谷藤市
「掃海艇は磁気機雷に反応しないように木造なので、木っ端みじんでした。弟は船底にいて犠牲になったようです。」
急遽開かれた掃海隊の艦長会議では、「米軍の戦争にこれ以上巻き込まれたくない」という意見が噴出した。
米軍は作業の続行を命じたが、一部の船は帰国した。
1週間後、中谷さんの父を訪ねてきた米軍将校は、「憲法9条があるのに米軍の命令で戦死者が出たとなると国際問題になる。いっさい口外しないでほしい」と言った。
そして坂太郎さんは「瀬戸内海で殉職」とされてしまった。
30年後に、当時の海上保安庁長官の回想録で、ようやく事実が明らかになった。
坂太郎さんと海上保安庁で同僚だった信太正道さん(88)は言う。
「機雷掃海は、米軍のためのドブさらいです。
一通り掃海の終わったエリアを試航行して点検しましたが、機雷が残っていたらドカーンです。
私たちは米軍のモルモットだった。」
信太さんは航空自衛隊に所属した時期もあるが、こう証言する。
「自衛隊の本当の名前は『米衛隊』だと、隊員自身が思っていました。
60年近く経っても本質は変わりません。
私は神風特攻隊の生き残りですが、戦死が名誉とされる時代は二度とごめんです。」
(2019年3月18日&24~25日に作成)