(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)
キャノン機関を率いたジャック・キャノンは、1952年に本国アメリカに帰国させられた。
この原因に、キャノン機関が手がけた北朝鮮への密輸船「衣笠丸」の事件があったのは否定できないだろう。
『衣笠丸事件』が日本の新聞記者の耳に入ったのは、1950年1月ごろだった。
毎日新聞の記者だった私の記憶にも、はっきり残っている。
当時の日本は、朝鮮や台湾や香港との密輸船の事件が、続発していた。
当時の私は、毎日新聞で同僚の小西健吉・記者と共に、「消えた根本博・元陸軍中将」を追っていた。
そして台湾の国民党政府と、東京の右翼との間で、台湾義勇軍の創設計画が練られていたことを調べ上げた。
根本博・元中将は、(右翼の)児玉誉士夫の手引きで、旧日本軍のパイロット集団を連れて、宮崎県の延岡沖から漁船で密かに台湾に渡っていた。
児玉誉士夫は、台湾軍にパイロット集団を斡旋したのと引き換えに、台湾から大量の金の延べ棒を持ち帰ったといわれた。
根本博らの渡台は、中国共産党軍に敗戦を続けている国民党軍が、劣勢を立て直すための苦肉の工作だった。
台湾の蒋介石・国民党政府は、旧日本軍のパイロットを使って、(中国領の)青島の爆撃を計画した。
この計画は実行されなかったが、国民党政府から大量の軍資金が出たため、(カネを求めて)日本の右翼たちが群がったのである。
台湾に送られた根本博らと引き換えに、「海烈号」という香港籍の商船が、川崎の日本鋼管・埠頭に入港し、ペニシリンなどの時価5億円の物資を陸揚げした。
これがアメリカ軍のCID(犯罪捜査局)に検挙されたのが、「海烈号事件」である。
CIDに逮捕されたのは、五・一五事件で共謀者の1人だった三上卓である。
三上卓はこの時期、東京銀座の児玉誉士夫の事務所にいた。
私は、海烈号事件を報じた時に、台湾の国民党政府の朱世明・中将の逆鱗にふれて、プレス・コード違反で危うく逮捕されそうになった。
三上卓の動きは、キャノン機関と連絡があったと言われていて、キャノン機関が発行する手筈になっていた輸送証明書が間に合わず、所轄違いのCIDに検挙されたという。
「キャノン機関が密輸や麻薬取引に関わっている」という噂は、広く伝わっていた。
和歌山県・田辺港で検挙された「衣笠丸事件」は、海烈号事件と同列の事件と見なされた。
私の同僚の小西健吉・記者は、衣笠丸事件の情報を大阪地検で入手した。
この事件に、大手メーカーの松下電器が絡んでいるのが発覚した時の、健吉の驚きは大きかった。
ところがGHQの圧力で紙面の扱いは異常に小さく、健吉と社会部デスク責任者が大喧嘩していたことを、私は記憶している。
北朝鮮に通って密輸を行う「衣笠丸」に、田辺港で日本の警察の捜査が入ったのは、1949年の末だった。
船主は和歌山市の平井勝太郎(46歳)で、船には北朝鮮の特産品が満載されていた。
船主が船員たちに分け前の10万円を支払わなかったため、トラブルになって船員の投書からこの密輸が明らかになった。
警察と検察が調べた結果、密輸の主役が松下電器貿易と分かり、大騒ぎになった。
衣笠丸が北朝鮮に運んでいたのは、電熱器、ラジオ、モーター、アイロン、ソケット、コンセント、コードなどで、1千万円分の製品だった。
衣笠丸は1949年10月4日に大阪港を出発し、北朝鮮の元山港に入ったのは10月19日だった。
元山で、ウニ、タラコ、石鹸、ローソク、甘草、肝油、塩ブリ、アルコールなどを満載し、田辺港に戻ってきたのである。
関係者の自供から、この密輸にキャノン機関が関与していた事が明らかになった。
塩谷栄三郎という元大陸浪人が、衣笠丸とキャノン機関の連絡役だった。
この男は、戦前に日本共産党の佐野学と共に上海で逮捕され、獄中で転向し、それからは上海で日本陸軍のスパイをやったという。
塩谷栄三郎は、1946年ごろから上海、台湾、大阪を結ぶ三角貿易をして、船を15~16隻も動かしたというが、それが警察に見つかり、懲役1年の判決を受け、控訴・保釈中だった。
栄三郎が書いた『衣笠丸事件の真相発表』(1966年)によると、この密輸は中国共産党軍に必要な機材を日本から補給する目的だったという。
彼は戦前の上海時代から親交のあった、元日本共産党の幹部という中尾勝男から、「中国共産党軍が通信機材や電気資材を欲しがり、私がやることになった。君の顔でアメリカ軍の保証をとりつけてほしい」と依頼された。
それで栄三郎は、元内閣情報局・総裁の伊藤述史を仲介役にして、GHQ・G2のチャールズ・ウィロビーに話を持ち込んだ。
するとウィロビーから、「(密輸の)援助をするから、代わりに北朝鮮や中国の新聞や雑誌を持ち帰ってくれ」と依頼された。
塩谷栄三郎は、この密輸を始めるにあたり、松下電器の新田亮を口説いて、貿易会社「福利公司」を設立させた。
一方、チャールズ・ウィロビーは、伊藤述史とジャック・キャノンを引き合わせて、この密輸をキャノン機関に担当させた。
ところが衣笠丸は田辺港で捕まり、松下側から新田亮・顧問と斎藤周行・専務が自首した。
塩谷栄三郎はこの後、CIC(G2傘下の諜報・謀略部隊)の日本要員と称する者の訪問を受けた。
この男は、「お前が単独犯になって自首すれば、事件はアメリカ軍が揉み消してくれる」と告げた。
栄三郎は言われた通りに、大阪地検に出頭して、「これは全部、自分がやったのだ」と語った。
するとその後に、栄三郎は「柿の木坂グループ」と称する日本人の手引きで、赤坂の料亭「山口」でジャック・キャノンと会ったが、いきなりジャックと彼の部下に拉致された。
(※柿の木坂機関は、キャノン機関の下部組織の1つである)
栄三郎は、キャノン機関の本部である本郷ハウスに連行され、連日の激しい拷問にあい、「伊藤述史の線を切って、キャノン機関の直属になれ」と脅された。
朝鮮戦争が1950年6月に始まると、ジャック・キャノンが出動したため栄三郎は釈放されたが、再び拉致されて今度はアメリカ陸軍の精神病棟に入れられた。
栄三郎の妻が騒ぎ出し、旧知の村井順・国警警備課長の許に走り込んだため、栄三郎は救出された。
塩谷栄三郎の体験した拉致・監禁は、手口が(同じくキャノン機関が行った)鹿地亘の監禁事件と酷似している。
日本が敗戦すると、松下電器を率いる松下幸之助も公職追放となり、松下電器は業績不振になった。
そこで、戦前や戦中に実績のあった朝鮮向けや中国向けの貿易に、(密輸と知りつつ)乗り出そうとしたのだろう。
また、当時は朝鮮戦争の前夜であり、G2のウィロビーは新聞や雑誌でも情報として歓迎したのだ。
キャノン機関は麻薬の密輸もやっていたから、衣笠丸は麻薬も運んでいた可能性がある。
(2022年11月18日に作成)