三鷹事件

(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)

三鷹事件は、1949年7月15日の夜に発生した。

下山事件の10日後に起きたのである。

三鷹事件の3日前(7月12日)に、国鉄は第二次の首切りを開始していた。

中央闘争委員会は、この通告を拒否したが、闘争の方針をめぐって日本共産党、国鉄労働組合・革新同志会の統一左派、右寄りの民同派(国鉄民主化同盟)が意見対立してしまった。

7月15日の21時24分ごろ、中央線の三鷹駅の車庫から、突如として7両の無人電車が走り出し、駅前の交番と民家に突入した。

6名の死者と、7名の重傷者を出した。

検察当局は、直ちに日本共産党の仕業だと決めてしまった。

そして容疑者の逮捕が続き、9名の共産党員と、非共産党員の竹内景助が逮捕された。

翌1950年の8月に、東京地裁の第一審で、「被告人たちの共同謀議はなく、竹内景助の発作的な犯行だった」と判決が出た。

第二審では改めて竹内景助に死刑が言い渡され、1955年6月に最高裁で景助の死刑が確定した。

景助は再審を申し立てたが、1967年に東京拘置所で病死した。

(2022年11月18日に作成)


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