帝銀事件②

(『何も知らなかった日本人』畠山清行著から抜粋)

帝銀事件は、1948年1月26日に、東京都豊島区の帝国銀行・椎名町支店で起きた。

午後3時を少しまわった時、背広姿に東京都防疫班の腕章をつけた男が入ってきて、支店長代理にこう言った。

「近所に集団赤痢が発生したから、進駐軍の命令で全員が予防薬を飲まねばならない」

そして指示に従って毒薬を飲んだ16名のうち、12人が死亡した。

犯人は小切手を奪って逃げた。

東京12チャンネル報道部編『証言私の昭和史』から、いくつか証言を紹介する。

まずは毒薬を飲みながら生き延びた、村田正子・銀行員の証言である。

「初めに(犯人の)男は、行員の出入口である裏玄関から入ってきた。

給仕が取り次いで、15時で銀行は閉店していたから、閉まっている入口を小間使いさんが開けて、男を表玄関から入れた。

その男は、しばらく支店長代理と話した。

私たち行員は、薬を飲むんじゃなくて、進駐軍の持ってきたDDTの粉末を銀行内に撒くのだと思っていた。

それが支店長代理が『皆さん、ここへ集まって下さい』と言うので、支店長代理の机を囲むように集まったら、机の上に湯呑み茶碗が頭数だけお盆にのっていた。

もう(湯呑み茶碗に)薬が入っていて、犯人が『この薬は強くて歯のほうろう質を痛めるから、私のやるように飲んで下さい』と言って、飲んでみせた。

それで皆が一緒に飲んだ。

第一薬は、ノドがヒリヒリと焼ける感じだった。
ウイスキーをストレートで飲んだ感じだった。

犯人は第二薬を机の下から取り出し、次にそれを飲まされた。

第一薬と第二薬の間が1分くらいで、ノドがヒリヒリするから誰かが『うがいに行っていいか』と聞いたら、犯人が『よろしい』と言った。

それで皆が台所と洗面所に分かれて、うがいに行った。

私は洗面所に行ったが、前に並ぶ2~3人を待った。

そしたら私の前にいた西村さんがバタッと倒れた。

普通なら変だと思うが、私は別にどうとも思わず、もう思考力が無くなっていた。

それでも支店長代理の吉田さんに『西村さんが倒れました』と言ったが、私は洗面所から2、3歩出たら、意識が分からなくなった。」

次は、犯行現場の銀行近くで米屋兼葉茶屋を営み、最初に銀行に駆け付けた並木幾太郎の証言である。

「午後3時頃に、私が店にいたところ、前の酒屋の奥さんが帝銀で大変な問題があるらしいと言った。

行ってみると、村田という娘が裏玄関から苦しそうな格好で『入れ』と言った。

中に入ると、人があちこちに倒れている。
医者を呼ぼうと、家に帰って電話をした。」

毒薬を飲まされた16人のうち、苦悶中だった4人は近くの聖母病院に運ばれ、一命をとりとめた。

生き残った4人の一致した証言は、「犯人は鼻筋の通った品の良い好男子であった」である。

他の部分については、証言は少しづつ違っていた。

調べたところ、第二薬はほとんど水に近く、第一薬からは少量の青酸が検出された。

しかし青酸カリならば即効性だから、1分経ってから第二薬を飲む余裕はない。

帝銀事件の1週間前の1月19日にも、午後3時頃に新宿区の三菱銀行・中井支店で似た事件が起きていた。

品の良い紳士が現れ、「この銀行のお得意から集団赤痢が出た。行員も現金も帳簿も消毒する」と言った。

支店長が抗議すると、男はカバンから小さな瓶を出して、中に入っていた液を小為替にふりかけ、「たぶんこれで大丈夫だろう」と言って去った。

もう1つは、前年(1947年)の10月14日で、やはり午後3時をすぎた頃に、品川区の安田銀行・荏原支店に上品な紳士が現れた。

そして「赤痢が発生した。消毒のため、GHQのバーカー中尉と一緒に来て調べたら、その家の同居人がこの銀行に来ているというので、やって来た」と言った。

ここの支店長は慎重な性格で、近くの交番に小使いを走らせて伝えた。

それで交番の巡査が調べたところ、赤痢発生は見つからず、巡査は銀行に来た。

この時、松井と名乗る男はまだ銀行にいて、巡査は赤痢の出た場所を聞いたが、「3丁目のマーケットのそばに、進駐軍の消毒車が来ているはずだ」と答えた。

巡査が探しに行くと、男は「予防のため、これを飲んで下さい」と言って、カバンから瓶を出し、第一薬と第二薬を銀行員に飲ませた。

そして男は出て行った。

この時は身体に害はなかったが、男の出した「松井蔚」の名刺は保存された。

以上の2つの事件も、帝銀事件と同じ犯人と思われた。

帝銀事件で盗まれた小切手は、事件の翌日である1月27日に、別の銀行でカネに替えられていた。

金額は1万7450円で、換金した男の人相は帝銀事件の犯人と全く違った。

画家の平沢貞通に逮捕状が出たのは、1948年8月10日だった。

平沢を犯人と見て追い続けた居木井為五郎・警部補は、こう語っている。

「人相、服装、腕章とか筆跡、それに松井の名刺、土地カン、アリバイが立たないといった点から、平沢の犯行と信じた。

松井名刺と結びつかない旧日本陸軍の細菌部隊には、犯人はいないと確信している。

私が平沢の容疑を警視庁の幹部たちに報告しても、全然取り上げられなかった。
私が気違い視されたくらいだった。」

当時に読売新聞の記者で、後に帝銀事件の被害者の村田正子と結婚した、竹内理一はこう語っている。

「使われた毒薬は、東大と慶大で分析したが、青酸カリと断定がつかなかった。

青酸カリだと、医学上の通説では飲んで4秒で倒れる。

しかし帝銀事件では、(飲んでから)1分は何でもなく、第二薬を飲んでうがいに行き、そこで倒れた。

青酸カリでも致死量スレスレならあり得るとの議論もあるが、致死量は体質や年齢、性別で違うし、(帝銀事件では)7歳の小使いさんが同量を飲んでいるが、これも洗面所まで行って倒れている。

調べていくと、旧日本軍に特殊な薬があって、アセトシアンヒドリンという薬で、発明者が1941年に感謝状をもらっている。」

逮捕された平沢貞通は、コルサコフ症という病気持ちで、過去を忘れたり、無かったことをあったように錯覚する人だった。

それで取り調べの中で、自白をしてしまった。

しかし彼が犯人というのは、幾多の疑問がある。

だからこそ司法省(現在は法務省)も、死刑の執行をせずに、平沢を刑務所に入れたままにしている。

(※ここで抜粋している本は、1976年の刊行である)

警視庁は、使われた毒薬が旧日本軍の開発したアセトシアンヒドリンもしくはニトリールだと気付いた。

さらにこの毒薬は、1943年に上海で、中国人の捕虜を使って日本軍が人体実験したことも突きとめた。

それで旧軍人、特務機関員、登戸研究所、七三一部隊に捜査は向かった。

だが捜査は、GHQに妨害された。

石井四郎を長とする研究室が、東京・牛込若松町の軍医学校の敷地内にできたのは、1937年の春だった。

その研究室が、満州のハルビンの南にある平房に移り、「満七三一部隊」となったのは、1938年7月である。

石井四郎が率いる七三一部隊が、中国人の死刑囚を使って細菌兵器の実験をしたのは、よく知られている。

七三一部隊は、1945年2月には、ペスト菌を持ったノミ300kgの生産が可能となり、これを空から散布する特殊弾も完成した。

同年3月には、治療用の注射薬と、一服で効き目のある治療剤も完成した。

それで6月初めに、この細菌弾でアメリカ本土を攻撃する計画が、大本営で議論された。
しかし裕仁(昭和天皇)が許可しなかった。

1945年8月に日本が降伏すると、七三一部隊は設備を破壊して、日本に引き揚げた。

ソ連軍は、満州に入ると七三一部隊を調査したが、資料は1つも残ってなかった。

ソ連と中国は、石井四郎らの引き渡しを日本政府に要求したが、日本を占領したアメリカ軍は拒絶した。

それだけでなくアメリカ軍は、「戦犯処分は絶対にしない」と約束して、石井四郎らに研究データを提供させて、それを本国に持ち去った。

アメリカ軍は、「帝銀事件の捜査が進むと、七三一部隊や、アメリカ軍が密かに行っている七三一部隊らの研究成果をまとめる作業が、世間に漏れる」と恐れた。

そのため、早く事件にケリをつけるよう日本政府に働きかけた。

そこに現れたのが平沢貞通で、いわば貞通はアメリカ軍の極秘作戦を隠す犠牲となったのである。

アメリカ軍が七三一部隊の研究成果を実戦で使ったのは、朝鮮戦争においてで、1951年春に北朝鮮から撤退した時だった。

平壌など北朝鮮の各地に、細菌を撒いて、数千人の天然痘患者が出た。

また、(アメリカ軍が支配する)韓国の巨済島の捕虜収容所でも、毎月に数千名の捕虜を使って細菌兵器の人体実験をした。

アメリカ軍は、後に起こしたベトナム戦争でも、人体実験を何度も行った。

最近でもアメリカ軍は、アジア人を対象にしてLSDを使った人体実験をしているとの噂があり、沖縄や厚木基地に大量のLSDが持ち込まれて保管されているのは事実である。

(※日本に出回っている麻薬を調べたジャーナリスト(高木瑞穂)が、そのうち3割が在日米軍基地から出たものだと報告する本を出したのを、2022年9月くらいにネットの記事で見ました。

現在でも、在日米軍基地に麻薬が大量に輸入されて、それが密かに売られて流通していると思われます。

なおこの話は、高木瑞穂著の『覚醒剤アンダーグラウンド』に詳しく書かれているようです。)

元CIA工作員だった松本政喜は、著書『そこにCIAがいる』に、こう書いている。

(キャノン機関で働いていたウィリアム)光田の話によると、帝銀事件はキャノン機関がやった。

その目的は、日本円が欲しかったからだ。

当時はまだCIAの予算が少なく、(CIAの下に入った)キャノン機関は銀行ギャングを思いついた。
(※CIAはこの時、発足した直後である)

(キャノン機関の長である)ジャック・キャノンは、お得意の麻薬を応用して、配下のスパイ組織に下調査をやらせた上で、帝銀事件を行った。

(※ジャック・キャノンは、自らが麻薬の常習者であった)

ジャック・キャノンと(副官の)ビクター松井は、帝銀事件の前後はアリバイ作りのために、(キャノン機関の本部である)本郷ハウスを離れて、1週間ほど都内の某ハウスに隠れていた。

元大阪CICの要員だった新谷波夫は、週間文春の記事(下山事件他殺説の証人)でこう語っている。

「帝銀事件の2~3ヵ月前に、私は田中中尉(大阪CICのジョン・H・田中)の命令で、大阪の帝銀支店に発疹チフスの予防注射を射たせに行った。

(銀行で人々に注射し)途中でワクチンが足りなくなると、田中は『仕方ない、ビタミン注射でもよいだろう』と気のない返事をした。」

(※『そこにCIAがいる』からの抜粋はここまで)

平沢貞通については、十何万円もの大金をどこから入手したかが不明で、それが犯行を裏付ける証拠の1つになっていた。

実は私は、彼が大金を持っていた事情を知っている。

私は戦前に、非凡閣で発行していた『実話雑誌』に、いくつかの筆名で執筆していた。

非凡閣の社長の加藤雄策は、アヂマス、クモハタ、セントライトといった名馬の馬主として、若草牧場の所有者として知られていたが、B29の東京空襲で戦災死した。

私は戦後になってから、実話雑誌を再刊したが、経営と編集を兄・清美に任せた。

私は子供の頃は、北海道・小樽の叔父の許で育った。
兄・清美も、一時は小樽で新聞記者をしていた。

その頃に兄は、(小樽に住む)平沢貞通と知り合ったのかもしれない。

実話雑誌を清美が経営している事を知った平沢貞通は、「紙はいらないか」と持ちかけてきた。

当時は物不足の時代で、なおかつ刷るそばから本が売れたから、出版屋は闇市場の紙を買いあさっていた。

それで兄は、平沢貞通に紙を注文したのだが、期日通りに印刷所に入った。

支払ったカネは、27~28万円だった。

平沢貞通が帝銀事件で逮捕されたのは、それから間もなくだった。

裁判で紙の闇屋をしている事が出なかったのは、私には今もって不思議である。

秋田(※仮名)という、顔も姿も平沢貞通にそっくりの男の話を聞いたのは、貞通の無罪説が流布され、千葉の医者某の真犯人説が流れていた頃であった。

その後、松本清張の書いた『日本の黒い霧』を読んだら、帝銀事件の犯人について、毒薬を飲まされながら助かった吉田武次郎の供述が出ていた。

その供述には「犯人の男は、医者としてはちょっと手が武骨であった」とあり、私はハッとした。

話に聞いていた秋田は、職業がマッサージ師だったからだ。

それで調べたところ、秋田は戦前は華族や宮家に出入りし、ことに閑院宮・竹田宮の両家にしばしば出入りしていた。

しかし日本が敗戦して上流社会が没落すると、三菱系の菱華産業に勤め、ズルチンやサッカリンの闇売買をしつつ、重役たちの肩揉みをしていた。

そのうちにGHQの高官にも繋がりができて、ウィロビー少将からも可愛がられるようになった。

菱華産業で秋田と同僚だった岡田専吾は、「とにかく顔も姿も、平沢にそっくりだった」と証言した。

その妻・岡田清子も、秋田が犯人だと主張しており、こう証言している。

「秋田は平沢とそっくりで、しかも白衣姿は商売柄、板についていた。

それに秋田は、手品の名人で、手先が器用だった。

年齢も平沢に近くて、当時は54~55歳。

帝銀事件が起きると、私たち知人の前から姿を消した。

帝銀事件の犯人と思える男が、前年に別の銀行で似た犯行をもくろんだが、その時にあげた名前に井華鉱業があり、菱華産業と似ている。

秋田の手は骨太で武骨だった。」

私は秋田を探したが、最近になって16年前に中野で死んでいたことが分かった。

(※ここで抜粋している本は、1976年の刊行である)

前記したとおり、松本政喜は著書『そこにCIAがいる』で帝銀事件の犯人はキャノン機関だと述べた。

だが私は、キャノン機関よりもCICあたりの犯行と思っている。

元七三一部隊員で、戦後に一時期はアメリカ軍の施設で働いた崎山雄一は、こう話していた。

「GHQは、七三一部隊に資料を出させる一方で、薬物の実際の効果を知りたがっていた。

少量ながら試験薬をつくり、動物実験をしていた。」

上の崎山雄一の証言を見ると、帝銀事件は秋田を使った薬物効果の人体実験だったとも考えられる。

アメリカ軍が戦場で行ってきた事や、GHQ時代の凶悪な世相を思えば、人体実験はそれほど不思議ではない。

(2022年11月29~30日に作成)


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