(『独白』花田勝著から抜粋)
第二次大戦中、(相撲の)両国国技館は日本軍に接収されて、風船爆弾の製造所になりました。
多くの力士が徴兵されました。
戦地で亡くなった幕内力士も数多くいました。
敗戦後は、大相撲は1945年11月場所から再開されましたが、土俵にまく塩がなく、 爆撃で積もっていた白い灰を代わりに使ったそうです。
国民は困窮して相撲どころではなく、占領軍の米兵が物珍らしさで観に来ていました。
国技館の天井は、空襲で大きな穴が開いてました。
1945年11月場所は、占領軍の意向で、土俵が拡大されました。
「土俵が狭い。もっと大きくしたら、動きが派手になって面白くなる」と言われ、相撲協会は受け入れざるを得なかったのです。
これに引退して反対したのが、横綱の双葉山関でした。
彼は引退会見でこう言っています。
「興味本位で土俵を広くすれば、勝負が長引き興行的には面白くなる。
しかし相撲は、もともと土俵はなかった。
土俵が作られてからは、力士は狭い土俵で研究し、技を磨いた。
それが相撲道の第一歩ではなかったか。」
(2024年6月5日に作成)