(以下は『物語 戦後文学史・中巻』本多秋五著から抜粋
この本は1966年3月の刊行である)
アメリカのトルーマン政権が打ち出したマーシャル・プランは、マーシャル元帥によって1947年6月に発表された。
このプランはアメリカの援助でヨーロッパを復興するものだが、共産主義の封じ込めが真の目的だった。
だから47年7月にソ連のモロトフ外相は、「マーシャル・プランはヨーロッパ諸国に対するアメリカの堪えがたい干渉である」と言明した。
マーシャル・プランが実際に動き出したのは1948年4月からだったが、それまでにソ連は防衛体制を固めて、チェコスロヴァキア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアなどとの間に「モロトフ・プラン」とも言われた通商条約を結んだ。
さらに47年10月に、各国の共産党の情報機関となる「コミンフォルム」を設立した。
コミンフォルムの目的は、ジュダーノフの報告にあった通り、「マーシャル・プランという奴隷化の試みと戦い、その計画を阻止するために闘うこと」にあった。
なおヨーロッパでは、1949年9月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が生まれ、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれて、ドイツは2つに分断された。
すでに48年に朝鮮は南北で2つの国に分断されており、49年には中華人民共和国が誕生した。
1950年1月にあったコミンフォルムの日本共産党批判は、上記の流れがあって起きた事件だ。
コミンフォルムから批判された時の日本共産党(以下は日共と略する)の狼狽ぶりは、敗戦直後にアメリカ軍を解放軍と受け取った事と共に、笑いものにされるネタとなっている。
しかしあれを笑う資格のある日本人は、そんなに多くないと私は思う。
アメリカ軍が日本に進駐してきた時、比較的めざめた人々には解放者と映ったし、それからしばらくアメリカ軍は民主化革命を進めた。
占領者(アメリカ軍)のエゴイズムは、ニ・ーストライキの頃から気付かれ始めたのである。
コミンフォルムの日共批判も、抜き打ち的なもので、驚いた日本人が多かったはずだ。
コミンフォルムに批判された後の日共は、醜態をさらした。
ありとあらゆる弱点・病所を露呈することになった。
文壇の醜態(対立)の初めは、1950年8月に出た、日共の影響下にある新日本文学会・中央グループの声明文、「党中央に巣くう右翼日和見主義の分派に対するわれわれの態度」であった。
ことの発端は、コミンフォルムから批判されたのをきっかけに、日共内部で分派闘争が起きたことにあった。
日共の主流派(所感派、徳田球一ら)は「1950年テーゼ草案」を発表し、それを無条件に支持するよう党員に押しつけ、支持しない者を「分派」と誹謗し、除名処分まで行った。
「1950年テーゼ草案」は、共産党に対する忠誠を試す踏み絵として用いられた。
この事は、井上光晴の『病める部分や、間宮茂輔の『党員作家』 や、大西巨人の『天路歴程』によって察知できる。
新日本文学・中央グループの声明が出た1950年8月頃は、日共の「国際派」と呼ばれる人々には次のグループが存在し、それぞれに機関紙を発行していた。
志賀義雄・宮本顕治らが組織した全国統一委員会、野田弥三郎・宇田川恵三らの日本共産党・国際主義者団、中西功の団結派、福本和夫の日本共産党・統一協議会。
1950年9月に北京の『人民日報』が、「九・三声明」(九・三社説)を発表し、日共の主流派と国際派の双方を批判しつつ、主流派を支持した。
このことで国際派の諸グループは震撼した。
そして国際派の中心だった宮本顕治らの「全国統一委員会」は解散した。
ところが同年末に再び結集し、51年に入って「全国統一会議」として再出発した。
そして51年4月の都知事選挙では、主流派は加藤勘十を推し、国際派は出隆を推すという、「2つの共産党」が現出した。
当時の私は、1950年6月に『アカハタ』がGHQによって停刊されていたため、日共内部で何が起きているのかさっぱり分からなかった。
1950年8月に上述のとおり、新日本文学会・中央グループの声明書が発表された。
これに対し翌9月に日本共産党・臨時中央指導部は、「新日本文学会・中央グループ内の一部分派主義者の声明書について」という批判文書を発表した。
上の2文書は、共に日共党員に向けた秘密文書だったから、新日本文学会の平メンバーである私は、見る機会がなかった。
日共の主流派(所感派)は1950年の秋に、武装した闘争を提起する、「共産主義者と愛国者の新しい任務、力には力をもってたたかえ」(内外評論1950年10月12日特別号)を発表した。
それまでは国際派が主流派を「日和見主義」と批判していたのだが、ここで一気に主流派が過激化した。
この方向転換は、劉少奇テーゼや、『北京・人民日報』の1950年7月17日の論文「武装した人民対武装した反革命は、中国だけの特質ではない」の影響であった。
1950年11月になって、「我々は、新日本文学会の一部の者が中央グループを名乗って配った反党的で攪乱的な声明書には、絶対反対の立場に立つ」との編集後記をつけた、『人民文学』の創刊号が現われた。
この時に私は初めて、共産党内の対立が文学運動に波及し、民主主義文学の陣営が2つに割れたことを知った。
話の筋をまとめると、まず新日本文学会において中央グループを名乗る人々が出て、声明書を出した。
これを許せないと考えた者が『人民文学』を創刊して、『新日本文学』に対抗した。
ここに文学運動の分派闘争が表面化した。
中央グループを自称する人たちは、日本共産党の主流派を正道から外れた分派と見なして、批判した。
もう一方では、『人民文学』の人々が、日共の主流派こそ真理を体現する存在と見て、中央グループこそ憎むべき分派主義者と説いた。
藤森成吉の小説『分派』(人民文学1951年1月号に収録)は、『人民文学』の創刊に至る事件の一端を描いている。
創刊当時の『人民文学』の編集委員は、藤森成吉、江馬修、豊田正子、島田政雄、栗栖継の5人であった。
また創刊号からの執筆者に、タカクラ・テルと、赤木健介(伊豆公夫)がいた。
さらに「人民文学の奥の院」と言われた、ぬやまひろし(西沢隆二)がいた。
中野重治は『新日本文学』の1951年1月号で、『人民文学』を発行する人民文学社は冬芽書房とつながりがあると指摘した。
また、『新日本文学』の1951年7月に載った、水野明善の「文化、文学戦線統一のために」を読むと、分派闘争の根は数年前からあったようだ。
1951年1月に宮本百合子が亡くなると、『人民文学』の51年3月号に彼女を批判する3通の投書が載った。
そこでは、「彼女は階級敵であり、帝国主義者の血まみれの手につながった」とか、「彼女はブルジョア文壇に寄食し、プチブル生活し続けるペテン師」と評していた。
上の投書は、宮本百合子の文学も人柄も知らない者が、狂信状態で書いたものだ。
しかしこの投書について『人民大学』の編集後記で、「宮本百合子の率直な批判であり、いかに大衆に受け入れがたいかを訴えている」と豊田正子が書いた。
これを見て『人民文学』を見限った人は多かったと思う。
当時の『人民文学』は、宮本顕治を国際派のボスと判断し、彼を新日本文学会の影のボスとしてマークしていた。
だからその妻・百合子を罵倒したのだろう。
『人民文学』には、野間宏が1951年2月号から参加し、岩上順一が51年7月号から参加し、徳永直が51年9・10合併号から参加した。
他にもサカイ・トクゾーや鹿地亘など、中国に深い人脈がある人々も参加した。
安部公房も52年5月号から参加した。
『人民文学』は、中国の影響が色濃かった。
日本でも人民革命が近いという考えが前提にあり、つい最近に中華人民共和国が誕生したのが大きくモノをいっていた。
新日本文学会も、政治の影響を受けた。
同会の創立当時の綱領は、第1条は「民主主義文学の創造とその普及」で、第2条は「人民大衆の創造的・文学的エネルギーの昂揚と結集」、第3条は「反動的な文学・文化との闘争」だった。
それが1952年3月の第6回大会で、次のように改訂された。
第1条 あらゆる文学者・芸術家と提携して、平和と民族独立のためにたたかう
第2条 人民大衆の創造的・文学的エネルギーを昂揚し結集し、民主主義文学の創造と普及のためにたたかう
改訂の要点は、それまでの第1条と第2条をまとめて第2条にし、第1条に「平和と独立の闘争」を置いたことだ。
文学の創造よりも平和と独立を前にしたのが、改訂の眼目であった。
元の第1条にある「民主主義文学の創造と普及」は、曖昧な方針だった。
おそらく「そんな事を言ったら三島由紀夫も川端康成も民主主義文学者ではないか。平和と独立の闘争を打ち出してこそ、具体的な方針となる」と考えたのだろう。
だが、平和と独立の闘争を第1条にした時、文学の自由な発想やふくらみを消すことにもなったと私は思う。
1951年8月にコミンフォルムが声明を出して、主流派をはっきり支持するや、国際派の諸グループは主流派に屈服する形をとって解散し、主流派に合流した。
『戦後日本共産党史』によると、宮本らのグループはいずれも51年8~10月の間に自己批判して、自らの組織を解散し、主流派に合流した。
だが中野重治らの新日本文学会・中央グループを自称する者たちは、1952年3月の同会・第6回大会の時になお、主流派に対して闘志満々だった。
新日本文学会は当時、全学連から来た武井昭夫や湯地朝雄、それに近い立場の大西巨人、菊池章一を擁して、国際派の唯一の牙城となった。
私は第6回大会の少し前、1月19、20日の中央委員会に出席したが、中野重治・書記長の更迭をもくろむ『人民文学』系のメンバーを向こうに回して、全学連系の新会員がましくし立てるのに驚いた。
第6回大会については、秋山清の『文学の自己批判』が詳しく書いているし、間宮茂輔の『党員作家』も書いている。
この大会で文字運動における内部闘争は峠をこして、以後は新日本文学会と人民文学の闘争は縮小した。
しかしこの大会で、全学連系を影響下におく花田清輝らが常任委員に選ばれ、窪川鶴次郎、壺井繁治、間宮茂輔ら旧プロレタリア文学出身の名士と対立した。
そして俗にいう「リアリズムとアヴァンギャルドの対立」なるものを生んだ。
その後の新日本文学会は、1953年7月4・5日の中央委員会ですったもんだがあり、54年7月1日の常任委員会で 『新日本文学』の編集長になっていた花田清輝が解任され、中野重治に替わる一幕があった。
ここで内部闘争は一段落した。
私はこの時期、新日本文学会の常任委員になっていたが、54年7月1日の常任委員会は欠席した。
もし出席していたら、花田解任の提案に反対票を投じていただろう。
この日は13名の常任委員のうち私など3人が欠席したが、中野書記長が提案した花田編集長交代について、賛成5人、反対5人だった。
賛成・反対が同数だったので、最後は議長の中野が投票に加わって賛成票を入れ、可決となったという。
54年7月1日の私の日記を読むと、欠席することを同じく常任委員である大西巨人に 電話で伝えたさい、「大西が信じがたいほどの尊大な返事をした」と書いている。
私が電話した時、すでに会議が始まっていて、大西はただならぬ空気を感じ、欠席すると告げた私のことを逃げたと受け取ったのだろう。
ちなみに大西は花田交代に反対票を入れた。
もし私が出席して反対票を入れていれば、反対が6票で花田編集長の交代はなかったはずだ。
私はこのたび日記を読み返すまで、大西の態度などすっかり忘れていた。
私たちは自分が経験したことの意味を理解しているとは限らない。
上手な回想とは、それの本当の意味を理解して、わが身に付けることだろう。
(2025年1月18日、5月8日に作成)