(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)
GHQのレッドパージは、労働者の人員整理(首切り)として始まり、日本共産党とその同調者を解雇していった。
とくに行政職員と教職員に関しては、GHQは「共産主義者ないしそのシンパを首切りの対象とする」と示唆し、各地で反共の宣伝が行われた。
吉田茂・内閣は1949年7月に、『公務員・公共企業体の職員に対するレッドパージの実施』を、閣議決定した。
同年9月には、全国教育長会議で赤い教員の追放が決議され、50年春にかけて小中高校の教職員1700人が追放された。
1949年7月以降は、GHQの民間情報教育局(CIE)の大学顧問に就任したW・E・イールズが、全国の大学で講演し、赤い教授の追放と、学生ストライキの禁止を説いた。
これに対し、日本学術会議や各大学の教授会、全学連などが反対運動を展開した。
そしてイールズの圧力で出た教授への辞職勧告が、各大学で取り消されていった。
イールズは講演できない状況に追い込まれ、1950年秋に帰国した。
1950年6月6日に、ダグラス・マッカーサー元帥は、吉田茂・首相に書簡を送り、日本共産党(日共)の中央委員24人の全員を公職追放にするよう命じた。
翌日には、日共の機関紙『アカハタ』の編集関係者17人も、追放となった。
日本の民主化を名目に始まった公職追放令は、公然と左翼の追放に使われるに至ったのである。
朝鮮戦争が1950年の6月下旬に始まると、日共幹部への逮捕状が出され、逮捕は下部党員や支持者にまで広がった。
なお日共は当時、所感派と国際派に分かれて内部対立しており、50年6月の公職追放令が出ると完全に分裂してしまった。
そして徳田球一らは武装闘争の道に進み、このため党勢は著しく後退することになった。
1950年7月28日には、言論機関(報道機関)もレッドパージの対象となった。
これにより解雇者が続出し、8月末までに50社で704人が解雇された。
50年8月には、電機産業の労働者でも2137人の解雇が通知された。
9月5日には、公務員のレッドパージを、吉田茂・内閣が正式に閣議決定した。
最終的に、レッドパージで解雇された労働者は、4万人に達した。
1950年の労働界の左派は、共産党系の「全日本産業別労働組合」(産別)と、共産党の方針を批判して分れた「新産別」が居た。
右派は「日本労働組合総同盟」(総同盟)が居た。
50年8月30日にGHQは、産別を主流とする全労連に対し、団体等規制令への違反として解散命令を出した。
これを受けて労働組合は分裂していった。
GHQは、反共の労働組合を育成する方針を採り、50年7月11日に総同盟など17組合を集めて、「日本労働組合総評議会」(総評)を結成させた。
レッドパージが行われた事で、日本のマスコミは萎縮し、権力への批判性を著しく失ってしまった。
さらにレッドパージは、労働組合の弱体化も招いた。
この結果、権力者や企業経営者の暴力を容認してしまう傾向が強まるという、負の遺産が残った。
(2020年6月23日に作成)
(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)
GHQの公職追放の対象が大きく変わったポイントが、松本治一郎の追放である。
治一郎は半生を部落解放に捧げた人物で、1946年1月に追放指定されたが、首相秘書官の福島慎太郎らが陳情したりして非該当になった。
その後、彼は参院の副議長となったが、48年9月に再び追放リストに入り、49年1月の総選挙の直後に再追放となった。
彼は右翼として追放されたが、実質的にはレッド・パージの第1号と云えよう。
GHQのGS(民政局)は、理想主義の民主化政策を行ったが、その結果として日本共産党と労働組合の力が増した。
米ソの対立が深まると、GHQは日本共産党を弾圧する方針を固めた。
文藝春秋34.6「日本の汚点 レッド・パージ」は述べている。
「レッド・パージ旋風が誰のアイディアであったかは掴めていない。
追放リストの作成者は明らかにされていない。
1950年夏から半年、全産業に吹きまくったレッド・パージは、手口において怪奇なものであった。」
日本では1948年3月に、全逓闘争が始まった。
これはその後の労働運動の先頭をなしたもので、各地にストライキが広がった。
この情勢から、公務員にスト権を与えてはならないという方針が出た。
GHQの公務員制度課長となったフーバーは、日本の公務員をアメリカのようなストライキ権のない存在にしようとした。
レーバー・セクションのキレン課長はこれに反対し、マッカーサーの前で8時間にわたる論争を展開した。
キレンは敗れて、悄然としてアメリカに帰国した。
キレンは帰国の4時間前に、全逓の幹部を呼んで演説した。その要旨は「これからの公務員は非常な難路に立つだろう」だった。
48年12月には公務員法が改定され、同時に公共企業体等の労働関係法が制定された。
さらに、国鉄と専売(公社)は団体交渉権を持つが、その他の国家公務員は団体交渉権すら持たない状態になった。
自治体関係の者は、政令201号によって縛られた。
レッド・パージは、それが「GHQの命令」である事を解雇者に告示し、「この命令は国内のあらゆる法令に先行する」と告げた。
この実例として、NHKの場合を書こう。
NHKは、46年10月にストを行っている。(※当時はまだ民放はない)
これは団体交渉権の確立と賃上げを求めたもので、新聞業界と共闘しようとしたが新聞界は全部脱落し、NHKだけがストに入った。
GHQのCIE(民間情報教育局)のラジオ課は、すぐに「ストを止めろ」と勧告してきた。
占領軍が前面に出て威かしたので、組合の全面的な敗北となった。
当時のNHKは、民主的な番組をしきりと出していた。
CIEのラジオ課から「天皇制について討論をやれ」と指示が来たりした。
こういう事が、アメリカが民主的だと錯覚した原因である。
ところがやがて、「討論会で共産党の発言を減らすように」とラジオ課は指示を始めた。
この右がかった新しい指示に組合は反発したが、49年春ごろに組合は2つに割れてしまい、第1組合(それまでの組合)から第2組合(新しい組合)にほとんど脱落していった。
8千人の組合が最後には百数十名になったが、残った全員がレッド・パージに引っかかったのである。
NHKのレッド・パージは、GHQが直接的に行った。
当時はラジオの影響力がとても強く、だから電波をGHQが管理していて、NHKの建物の一部も進駐軍放送という形で使っていた。
そのため解雇の通告はGHQ命令の形を取り、1950年7月25日の朝、該当者を集めて通告された。
NHKのパージ組の1人は証言する。
「パージになった日は、いきなり文書を読み上げられたわけです。
どういう事なんだと問うても、『とにかくそういう命令だ、マッカーサーの命令で拒むことはできないのだ』と言って説明から逃げてました。
大阪NHKの場合、黒人のMPが鉄砲を構えて『出て行け』と言った。」
レッド・パージの場合、解雇者は即時に職場や建物から退去を要求された。
マッカーサーの1950年6月6日、7日、26日、7月18日の指令および書簡では、「共産党は有害な団体で大衆の暴力行為を煽動している」として、日共中央委員会の全員を公職追放した。
さらにアカハタを「虚偽に満ちている」として、編集局員をパージし、アカハタの無期停刊を命じた。
各新聞社でもレッド・パージが行われたが、アカハタに対する(GHQの)解釈を援用したものである。
CIEは、各社の首脳を呼んで、「社内にいるコミュニストとその同調者を即時解雇せよ」と命じた。
これを受けて、各社は一斉に解雇通告を行ったのである。
体験者は次のように語る。
「これは組合にとって全く予想外であった。
会社側に説明を求めたが、『今は何も言えない』と突っぱねられた。
会社によっては、警官を待機させて腕力で摘み出したのであった。」
追放の迅速さに誰もが驚いたが、予め人名簿が作られていた。
共産党員は、団体等規制令によって党員であることを登録していたから、真先にやられた。
団規令は主に特審局(特別審査局)の管掌だから、レッド・パージは特審局の線からと思っていい。
レッド・パージのリスト作成をした特審局は、1947年に公職追放の資格審査機関として内閣調査室より変身したものだ。
追放指定はかなりいいかげんで、弟が同調者だからとか、資本論を持っていたからで追放された者もいた。
このような追放が全部、「占領軍の指示」という「憲法に先行する」絶対性の前に抵抗が出来なかったのである。
組合側は、概ね抵抗しなかった。
この理由は、当時の情勢を見なければならない。
下山事件、三鷹事件、松川事件が続けて起こり、これが労働組合のやった事だと宣伝されたため、組合は国民から孤立させられていた。
また、日本共産党がほとんど何もしなかったのも、反対闘争が盛り上がらなかった原因の1つである。
この当時、共産党は内部抗争をくり返し、自滅していた。
レッド・パージは国会でも争点になったが、大橋・法務総裁は「新聞社の共産主義者とその同調者の解雇は適切であると考える。政府はこの処置に全幅的に賛成する」と言明した。
こうしてレッド・パージは、公務員、教育界、国鉄などにも波及して行った。
レッド・パージは、マスコミ関係は745名、電気産業は2137名、石炭産業は2020名、化学工業は1346名などで、合計は1万869名に上った。(労働省発表)
この他にも、8月30日には全労連が共産主義的だとして解散指令を受けた。
解雇された者に対し、「内通者になれ」「転向して全てを話せ」と誘うケースは多かった。
こうして作られたスパイが、今日、特審局の後身である公安調査庁の情報網に含まれていなかったら幸いである。
追放された者はどうなったのか。
解雇された者には不当として提訴した者もいたが、各裁判所は申請を却下した。
レッド・パージは法律によるものではないので、いくら審理しても無駄だと考えたのだろう。
朝日新聞の小原、梶谷記者の場合は、稀有な例だ。
2人は不当解雇に対する裁判の係争を最高裁まで続け、遂に8年ののちに勝訴して復社した。
大抵は長い裁判に耐え切れず、途中で挫折している。
一度レッド・パージを受けた者は、再就職しても前歴がバレると必ず解雇された。
失業の果てに自殺した者もあるくらいである。
29歳の看護婦は、組合の役員だったがパージを受け、以後は病院を転々としなければならず、失意のままに服毒自殺してしまった。
日経連に所属する会社は、1949~50年の退職者に対しては特に調査が厳密である。
このため網の目をくぐる事は出来ないと言われている。
どこにも就職できないとなると、熱心な共産党員でも脱落していく。
当時は共産党は所感派と国際派に分裂していたから、下部党員はよけいに大変だった。
パージを受けた人達は、今では40~50歳くらいになっている。
だから今度は子供の就職に自分の経歴が響くのだ。
この悲惨に比べ、GHQ占領の当初に追放となった者達は、現在では完全に蘇生して、政界・財界・官界で活動している。
最後に、レッド・パージの真の指令者は、ペンタゴン(アメリカ国防総省)だったと云っておく。
(2019年7月14&20日に作成)