(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)
1945年9月30日の15時すぎに、大蔵次官・山際正道にGHQのESS(経済科学局)のキャップであるクレーマー大佐から電話がかかってきた。
「今夜20時に日本銀行へ監察に行く」というのである。
クレーマーは装甲車に兵士を乗せ、日銀に乗り込んできた。
そして日銀の当直者は、公電圧の技手1名をのぞいて帰宅を命じられた。
しかし日銀の首脳部は逆に全員が呼び出された。
それにしても装甲車を出動させて夜間に乗り込んできたのは、甚だしく異常だった。
この時、日銀内の各室にそれぞれ鍵がかかっているのを知ったクレーマーは、鍵を米軍にも渡すよう命じた。
この措置が、後にサンフランシスコ事件などのダイヤ持ち出しに繋がった。
鍵開けで苦闘したクレーマーは、「翌10月1日には朝から監察をやる」と云って一旦帰った。
翌日、何も知らない一般行員は出勤してきたが、入口に米兵がいて中に入るのを遮った。
こうして中央銀行の1日封鎖が断行された。
この日、渋沢敬三・日銀総裁が自ら先導して、クレーマーを1室ずつ案内したのである。
クレーマーは地下室の大金庫4つを見た時、目的地に着いた安堵を顔面に表わした。
敬三は次のように書いている。
「後から考えると、クレーマー大佐の査察の目的は、資金統合銀行の作為を防ぐことだったようだ。
統合銀行は終戦寸前に設立され、各金融機関の資金を統合して、軍需とインフレ抑制にあてるための日銀の別動隊であった。
僅か3ヵ月の活動だったが、多額の資金を軍需に供給した。
それを調べようとしたらしい。」
査察は16時半ころに終わり、それから全行員の入行が許された。
このクレーマー査察のあと米軍に、接収した貴金属を管理していたマレー大佐の汚職事件が起こった。
マレーは本国で軍事裁判にかけられ、10年の判決を受けた。
その犯罪容疑は、「日本から多数のダイヤを持ち出した」ことである。
伝えられるところによると、持ち出したのは10万カラットともいう。
ダイヤ鑑定人の松井英一は書いている。
「私は横浜の軍事裁判にかけられる事になった。
色んな人が喚問をうけて毎日通った。
最初に呼ばれたのは交易営団の雑貨部長をしておった福田さんです。
彼の証言によると、交易営団から米軍に供出ダイヤを渡す時に、袋に入れてあったものを、魔法ビン9つに入れて渡した。
ところが私たちが日銀で見た時は、ハトロン封筒から出てきたのです。
ですから、マレー大佐が盗んだとしたら、米軍に渡した魔法ビンからハトロン封筒に移された時でしょう。」
1956年5月19日に、青木斌(61)が大阪回生病院で死亡した。
彼は終戦後に、『隠退蔵物資等の処理委員会』でダイヤ摘発に協力した人である。
死亡前に大阪の近畿大学から「100万円を青木に恐喝された」と告訴され、56年5月14日に逮捕された。
16日に発病して近くの回生病院に入り、亡くなったのである。
この死には、今でもダイヤにまつわる色々な噂がある。
当時の新聞に載った妻・美代の話はこうである。
「主人は、近畿大学(学長は『隠退蔵物資等の処理委員会』の委員長代理だった世耕弘一)のことで10回近く大阪に行ってました。
主人の死因に不審があります。
病院の人の話によると、16日に医者から急性肺炎と診断されたのに、入院したのは18日です。
次に、私が公証人を通じて『荷物は何を持って行けばいいか』と連絡すると、『来なくてもいい』という返事でした。
おかげで死に目にも会わなかった。
死体には肩と腰に蒼黒い斑点があり、担当医者に面会を申し込んだが会ってくれなかった。
主人は検挙される前日、ダイヤに関する報奨金の書類を作ったばかりで、国会に提出しようとした矢先でした。」
この新聞記事では、美代は真相究明にのり出し、ダイヤをめぐる怪奇な情報が次の国会で追及される事になっている、と報じている。
大阪地検の別所・主任検事の話では、「検察庁としては、ダイヤ事件および中古エンジン事件に関係あると知っていたが、調べたのは近畿大学の恐喝に関してだけだ」という。
ずっと下って1959年9月のことだが、アメリカのサンフランシスコ空港で、日本人スチュワーデスが宝石密輸で逮捕された。
彼女は鞄の中に小粒ダイヤを4千個も持っており、すぐにFBIは調査官を東京に送った。
アメリカではダイヤの密輸が増加しており、しきりに調査中だったのだが、どうやら東京からの密輸らしいと判ったところに、このスチュワーデス事件があったのだ。
この事件は、調査の結果、取引ルートがいわゆる東京租界を云われる地帯であると判った。
以上の出来事が、どのように繋がっているかを書き進めたい。
日銀の地下金庫には、1960年現在、16万1283カラットのダイヤがある。
問題は、『以前からその量だったのか』である。
このダイヤの主体は、戦争中に日本国民が供出したもので、他の貴金属も含めて正式には「接収貴金属」と呼ばれている。
『接収貴金属の処理法』が国会で成立し、60年5月現在に処理審議会が大蔵省を中心に開かれ、間もなく日銀ダイヤは日の目を見るはずだ。
そもそも日本政府が国民からダイヤを買い上げたのは、(太平洋)戦争が苛烈になり、軍需省が工業ダイヤを必要としたからである。
政府は1944年7月22日に、軍需次官の通達としてこれを立法化した。
別名「ダイヤモンド買い上げ実施に関する件」ともいう。
この要旨は次の通りになる。
①
軍需省は、1944年8月15日から11月14日までの3ヵ月間に、一般家庭と業者から即金で買い上げる。
その業務は交易営団が行う。
②
買い上げは、指定の百貨店で行う。
このほかに、中央物資活用協会が巡回して買い上げる。
③
指輪や帯どめ等のダイヤ入り装飾品や、ダイヤ以外でも希望があれば買い取る。
④
買い上げ価格は、3カラットは3300円、2カラットは2700円、1カラットは2000円。
⑤
30分の1といった小カラットも買い上げる。
当時、「戦争に勝つためだ」という政府の言い分を信じて、多くの国民が供出した。
中には金をもらわずに献納した人もあったくらいである。
国民の熱心な供出により、期間は4ヵ月に伸ばされた。
期間終了の翌日には、軍需次官・竹内可吉は国民に感謝の談話を発表し、「ダイヤは目標の9倍、白金は2倍という大成果だ」と述べた。
しかし、すぐに日本が敗戦したため、接収ダイヤは各所に眠った。
この接収ダイヤに関する法律が初めて国会に提出されたのは1953年だが、この時はお流れとなった。
接収ダイヤなどの評価額は、730億円である。
その内訳は、金102トンで416億円、銀は2114トンで224億円、白金1トンで14億円、ダイヤ16万1千カラットで72億円などである。
ところが政府は、法律の実施にあたり問題があると云い出した。
次の3つである。
①
アメリカ占領軍は、接収貴金属の管理中に、その大部分を熔解または混合し、一部は本国に持ち帰って売却している
②
政府の意図は、この接収貴金属を売却し、特別会計に入れる狙いだが、どう使うかで調整を要する
③
戦後に米軍が接収した民間分の43億円は、詳細に調査して旧所有者に返還するが、戦時中に接収したものは関係書類も戦災で焼失したため、扱いが困難である
③の「関係書類の焼失」だが、本当に焼けて無いのであろうか。
『隠退蔵物資等の処理委員会』の委員長代理だった世耕弘一は、手記にこう書いている。
「供出ダイヤの数量は、国会で担当官吏は16万カラットそこそこだと云っている。
ところが、私はこの数字に承服できない。
私が内務政務次官として内務省にいた時分の資料に基づくと、65万カラットくらいである。
この証明として、買い上げは2億円くらいの見込みだったのが、9倍の実績となり、18億円以上の支出となっている。
この支出額によって割り出しても60万カラット以上の勘定になる。」
(特集文藝春秋 昭和31.2から)
18億円が買い上げの経費だが、軍需次官の通達に記された買い上げ価格を平均すると1カラットで1333円になる。
これで計算すると、18億円は138万4615カラットに上る。
しかし白金などの貴金属も買い上げているから、当時の資料で計算すると62万カラットほどの数量だったと思われる。
1946年5月以降、米軍は接収したダイヤから、各国に連合国物資ということで返還を行っている。
実際に渡したか分からないが、記録ではオランダ・イギリス・フランス・フィリピン・中国などに合計12万7千48カラットを渡している。
これと前記した日銀に残っている16万カラットを足すと、28万7千カラットになるが、鑑定人が米軍の委嘱で調べた時に25~26万カラットあったという話とほぼ近い数字だ。
日銀からダイヤを持ち出したマレー大佐は、10万カラットをくすねたと云われている。
マレー大佐は、接収した貴金属の管理官だったが、1947年春にアメリカに持ち帰ったダイヤは18カラット以上が520個あったと云われている。
これを摘発したのはG2下部のCICだったらしいが、数年後に開かれた日本側の行政監察特別委員会では、鑑定人の久米武夫が「大粒ダイヤが2つほどは日銀に返還されたと思う」と証言している。
520個のうち、返還分は「2つほど」なのだ。
さらに別に、ヤング大佐の事件がある。
カーネル・ヤングはESS(経済科学局)に所属し、日銀金庫の管理のキャップであった。
彼は帰国時に、サンフランシスコ空港で800万ドル相当のダイヤを持ちこみ、発見されて逮捕された。
軍用機で帰ったから普通は発見されないはずが、G2関係の通報によったらしい。
とにかく、相当な量が日銀から持ち出されたのは事実である。
日銀の金庫の管理は、第8軍アイケルバーガー中将の直轄する小隊があたっていた。
そのキャップがクレーマー大佐であり、ヤング大佐である。
クレーマーESS局長が汚職で捕まったあとを襲ったマーカットESS局長にも、「マーカット資産」と巷で呼ばれるほどの疑惑がある。
さて、世耕弘一の手記に戻るが、こう述べている。
「日銀にある現在の16.1万カラットのダイヤは、隠退蔵物資の摘発で私たちがあちこち追い廻しているうちに、最後に日銀に逃げ込んだと思っていただければ事情が分かると思う。
元は選別されて立派な袋に入って保管されていたダイヤが、大小が混合し、しかも砂まで混入している有様からも、ダイヤがあちこち歩き廻ったことが分かろう。」
戦時中に中央物資活用協会の業務部長だった青木正(のちに警察担当の国務大臣)は、国会で証言している。
「大蔵省の久保・外資局長に頼まれ、自宅に日銀からダイヤ入りの木箱16個と金の延べ棒25本を運び、車庫の地下室に埋めた。
しかし2週間後に米軍に発見されて、そっくり持ち去られた。」
この証言は、米軍に持ち去られたのではなく党に差し出したのではないかと、激しく追及される一幕もあった。
(1944年に)軍需省の行ったダイヤ買い上げは、各地で行われた。
その全てが日銀金庫に納められたとは思えない。
当時は空襲の危険があり、すでに本土決戦が叫ばれていたので、中央に集めるよりも各地ブロックごとに分けて貯蔵したと見るのが自然ではないか。
行政機構も当時は、北海道総監部、東北総監部、関東総監部、中部総監部、近畿総監部、中国総監部、四国総監部、西部総監部などに分かれていた。
一万田尚登の手記には、「1945年6月、私は名古屋支店長を命じられた。戦争も末期で、日本をいくつかのブロックに分け、各地区がさながら独立国としての能力を持つという時だった」(雑誌『財界』)とある。
だから戦後になり、米軍機関が地方の金融機関に手を伸ばし、摘発した貴金属などを持ち去った例は少なくなかろう。
そして同様なことは日本人もしたと見ていい。
現在の政界では、これらの財産が深く根を下ろすものさえある。(※児玉誉士夫と自民党の事を云っていると思われる)
軍需省のダイヤ買い上げが終了したのは、敗戦のわずか半年前である。
だからダイヤが軍需で使われたのは僅かだったはずだ。
関係者には敗戦の予想ができる者もいたはずで、謀略的に供出させて横取りしたとも考えられる。
世耕弘一は「国を挙げて国民が戦っているのに、その時にすでに計画的にダイヤや貴金属を誤魔化していた者がある。この人たちが戦後の第一人者となって各方面で活躍するなら、世の中はどうなるのだろう」と述べている。
戦後になって、世間に夥しいダイヤが出た事実がある。
東京第1陸軍造兵廠の3万カラットのダイヤが、発見された時には2200カラットになっていた事件もあった。
終戦後にフィリピンのバギオで、貴金属を隠匿するのはポツダム宣言に違反するとの「バギオ法令」が出て、日本政府は慌てて回収にかかった。
これが1945年9月14日の閣議決定「軍その他の保有する軍需用物資材の緊急処分に関する件」の陸軍通達である。
この2週間後の9月30日に、クレーマー大佐は日銀を急襲し査察した。
米軍の下で、ダイヤの再鑑定を行った者がいる。
そのうちの数名は、軍需省がダイヤ買い上げをした当時と同じ鑑定人だった。
またクレーマー大佐が汚職で捕まり、1947年5月に横浜の軍事裁判所で裁判を行ったが、この時にダイヤ供出台帳によらなければ分からない日本人までが召喚されて証言している。
つまり、日本政府が焼失したと云っている台帳は、アメリカに押収されていたのである。
これを裏返せば、アメリカ側は正確にダイヤの数量を知ることが出来たわけだ。
1945年3月に東京が空襲を受けて、銀座松屋にあるダイヤ鑑定室は移転して、桐生市の金善ビルに移った。
また、国民に供出させたダイヤの集積場の1つは、三井信託銀行の地下金庫だったが、前述した閣議決定の陸軍通達があると、交易営団は魔法ビン9つにダイヤを詰めて某所に隠した。
これは45年10月18日にCICのC大尉によって摘発をうけた。C大尉はこの時、1枚の接収書も日本側に出していない。
他にも、海軍は2万カラット以上のダイヤを44年に、栃木県那須の或る個人宅に埋め、これがCICに摘発され「黒磯事件」と呼ばれた。
この時も、接収書は出なかった。
さらに「佐竹事件」があり、これは佐竹金次・大佐が持っていたダイヤ1袋を売却する途中、仲介人がMPに逮捕され没収されたものだ。
没収されたダイヤはウヤムヤになってしまった。
ダイヤを着服した者どもにとっては、政府機関の『隠退蔵物資等の処理委員会』は厄介至極だった。
当時の法令には、摘発すると報奨金が出ることになっていた。
ある策動が成功し、47年4月に同委員会の副委員長である世耕弘一は罷免され、摘発活動が中止になってしまった。
世耕弘一によると、全国で500億円の隠匿物(1960年時点で1.5兆円の価値となる)があり、別の筋では軍関係のリストを見ると数千億円(1960年では10~20兆円)あると計算できた。
ちなみに処理委員会の委員長は石橋湛山だった。
隠匿物資の密売は戦後史の1ページである。
表に出た事件も多いが、ヤミで処理されたのはその何十倍だろう。
例えば、ある有名な食品会社に関連した莫大な麻薬をCICが押収した事件や、CIDに摘発された用紙事件もある。
ところで、だいぶ前に書いた青木斌は、世耕弘一の片腕となって隠匿物の摘発をした男である。
そして彼は、発見した16万カラットのダイヤの報奨金を求めたのである。
彼は報奨金として21億円を要求したのだが、それは摘発したら時価の1割をもらえる事になっていて、1割ではなく5分の報奨金を請求したのであった。
青木斌が発見したダイヤこそ、日銀金庫のダイヤである。
日銀にダイヤがある事は、日本政府の者も少数しか知らなかった。
だから陽の下に引っ張り出した功績は大きい。
彼はダイヤのブローカーに潜入し、そのルートの出所が日銀である事を知った。
しかし、この発見を喜ばない政治の怪物がいた。
そして斌は恐喝事件に問われて大阪府警に留置され、発病して回生病院で急死したが、死体は「肩と腰に蒼黒い斑点があった」のである。
当時の日本には、戦争中にフィリピンから日本軍が持って来たダイヤなど、外国から来たものもあった。
こうしたものは、何割かは米軍が接収と称して強奪し、残りは日本の政党に流れて政治資金に利用された。
そしてその残りが、ときどき市場に出たり、前述したスチュワーデスを使った密輸となったり、ダイヤを散りばめた装飾品となっている。
敗戦直後、GHQの要人に対して「貴婦人グループ」の接待があった。
女たちはいずれも名門の婦人ばかりだったが、この接待の費用もダイヤが使われたと云われている。
また、日航機「もく星」号が墜落した時、ただ1人の女性客だった小原院陽子の死体の周囲には沢山のダイヤが散らばっていて、その収容を米軍が秘密裏に行った事もある。
週刊誌に出た、日本から追放されたシャタックという外人も、ダイヤや貴金属が絡んでいるが出所は同一と見ていいのではないか。
日銀総裁や大蔵大臣を歴任した一万田尚登の手記には、こうある。
「支那事変の時代に、戦争準備の1つであるが、日銀の金準備を増強するために、民間より条件付きで買い上げた貴金属類があった。
これを占領軍が来る前に元の持ち主に返すことになったが、空襲や疎開で行方不明となっていて、返還が間に合わず半分ほどを占領軍に押さえられた。」
即ち、日銀金庫には支那事変の当時から貴金属が集められていた。
ここで考えたいのは、占領軍が押さえた膨大な貴金属はどうなったかだ。
日本における諜報や謀略工作に役立てたと見ていいのではないか。
日本にあった貴金属は、戦時中に東南アジアなどから日本軍が奪ってきたものが主体をなし、中心は金塊であった。
これを押さえなければ日本を経済的に支配できないと、GHQは考えたのであろう。
しかし、金塊などを持ち出しても、カネに換えなければならない。
ここに、諜報・謀略機関がマフィアなどと手を握る理由がある。
東京租界を舞台にして国際密輸団が繁昌していると云われる所以は、この辺にある。
講和条約の発効後、GHQは消滅したが、彼らの握っていた資産は返還されるわけはない。
そのカネが秘密裏に凍結にしたのが、「マーカット資産(M資金)」であり、「C資産」「K資産」である。
日銀を押さえた占領軍は、日銀本館の1室にダイヤ鑑定人を呼び、半年もかかってダイヤの再鑑定を行った。
松井英一の著書『宝石・貴金属の選び方買い方』には、こんな話が出ている。
「1946年4月ごろです。
進駐軍から、日銀にダイヤがあるから整理せよとの命令を受けた。
久米武夫が主任で、私、城谷、巽の4人です。
それにアメリカ側から地質学者のヘンダーソンとポーシャッポが任命されてきた。
最初、進駐軍はダイヤと貴金属について、国の財産であるから報告して出せと指令した。
そのときに交易営団が集めていた物が日銀に預けてあると分かり、進駐軍に接収されたのです。
これの整理を我々は命じられた。
任命を受けた際に、手を上げて誓約させられ、妻にも語らぬことを誓わされました。
そして顔写真と両手の指紋も取られました。
我々は日銀の地下2階へ行き、管理人のマレー大佐は各将校の立ち会いの下に、ハトロン封筒から大佐みずから封を切ってダイヤをがらがら出して、山のごとくテーブルに積んだわけです。
後にも先にも見ることの出来ない光景でした。
明治以来の蓄積されたダイヤです。
あとで分かったのですが、25~26万カラットあったのです。
ところが鑑定は1つ1つをピンセットでつまんで虫眼鏡で見るのですから、地下室では暗くて見ちゃいられません。
そこで交渉して3階の一室を開けてもらったのです。
鑑定は1人の将校が監視し、我々にはMPの監督者が1人ずつ付いて、部屋の外にもMPが付いて番をしていました。
5月ごろに始まって、10月ごろに終わりましたが、朝8時から夕方4時までやりました。
1番大きいダイヤは南方から買い付けたもので、52.75カラットでした。
我々の監督をしていたマレー大佐は、夏の休暇で本国に帰るときにダイヤを持ち帰ったようです。
しかしマレー大佐は日本に帰ってくると、また我々の監督をしてましたから、その時は汚職事件はちっとも知らなかった。
仕事がすべて終わったのは10月末ごろで、6ヵ月間に及びました。
それから1~2年が経ち、日銀のダイヤが無くなっていたと分かったのです。
25~26万カラットあったものが、16万カラットに減ってました。
ところが48年の7月頃に、横浜の米軍司令部から呼び出しをうけ、我々日本人4人は出頭しました。
ダイヤを見せられて『覚えはないか』と訊くのですが、私が戦時中に交易営団で鑑定している時に見かけた珍しいダイヤがあったのです。
あの頃を思い出すと、しょっちゅうそういう取り調べがあり、自分が罪人になったような嫌な毎日でした。」
GHQの要所にいたハリー・エマースンの記録によると、こうである。
「円をドルに換えるのが非合法と宣言されるまで、米軍の将校は毎月、アメリカに彼らの俸給を超過すること800ドルの送金をしていた。
会計局のハロルド・ルース大佐は、この超過はヤミ市場の利得金だと見ていた。
ある日本の皇族は、アメリカ人と組んで外国煙草を輸入する手筈をし、それをヤミに流して儲けて、そのカネで日本の鉄鋼業を支配しようと目論んだ。
この計画は最後の瞬間に失敗したが、GHQの下位の承認を得ていた。
昭和電工の事件で、何十億円という汚れたカネがバラ撒かれた事が分かった時には、アメリカ人までが賄賂の授受を囁き合った。
エドワード・マレー大佐は、日銀で保管を任されていたダイヤを横領した嫌疑をうけ、刑務所入りをした。
2名の米軍少佐が持ち去った200万ドル以上の値打ちのある金とダイヤの事件は、1952年8月に議会で調査することになった。
こうした事件は占領軍の信頼をひどく傷つけたが、多くの日本人はこの事実を知らなかった。」
1954年2月2日に、衆院の委員会で自由党の鈴木仙八が、「世評によると、マーカット資金というのが約800億円あると伝えられている。これが鉄道会館や造船界に流れているのではないか」と発言している。
こうしたM資金、K資金、C資金が実在するならば、米軍やアメリカの諜報・謀略機関が運営していると想像できる。
最後におまけの話になるが、インド独立の志士といわれたチャンドラ・ボースの莫大な宝石・貴金属も行方不明になっている。
ボースは1945年8月17日に、サイゴン空港を出発した。
翌日の正午に台北に着き、給油をした。
そこから九州の雁ノ巣飛行場へ出発したが、同乗者は四手井綱正・中将や滝沢少佐らだった。
ところが離陸して20秒で落下し、ボースや四手井中将らは亡くなった。
行方不明になったトランク2つの宝石やダイヤから見て、飛行場の勤務者がやったと考えられる。
この事件を目撃した元日映の特派員・吉野宗一は書いている。
「ボースの持っていたトランク2個の宝石・黄金は、独立運動のためインド全国民から献納されたものだった。
それは後で石油缶2つに入れ替えられている。」
また日印友の会の理事・田中正明は書いている。
「インド民衆はボースの死を信じない。
その死のいきさつに幾多の疑問があるからだ。
ボースと同乗した副官のハビブラマン大佐はかすり傷で助かっている。
ハビブラマンの証言や帰国後の言動が、さらに疑惑を深めた。
事故の翌日に台北に来た副総帥のアイヤーは、ボースの遺体を見せてもらえなかったとも伝えられ、さらにボースの遺品も残されていない。
遺骨は大型トランク2個(宝石)と共に、酒井中佐と林田少尉が裁量して、東京の高倉盛雄・中佐に渡された。
そこから在日インド独立連盟・東京支部長ムルティに渡されたというが、確証はない。
ムルティ兄弟はその後、豪華な生活を送っていたが、ドル買い・密貿易などで数回事件を起こした。」
(2019年8月19~20日に作成)