日米の新安保条約

(『日米同盟はいかに作られたか』吉次公介著から抜粋)

鳩山一郎が、日本の国連加盟を花道として首相の座を降りると、自民党ではその後継をめぐって石橋湛山、岸信介、石井光次郎が出馬して総裁選挙が行われた。

この1956年12月14日の総裁選では、石橋湛山が辛勝した。

だが肺炎を患った石橋・新首相は、臥床してしまい57年2月末に内閣総辞職を決めた。

後を襲ったのは、石橋内閣の外相であり、先の総裁選で2位だった岸信介だった。

2月25日に岸信介は首相に就任し、全閣僚を再任して政権を発足させた。

「昭和の妖怪」とも称される岸信介とは、いかなる人物なのか。

彼は農商務省に就職して官僚になると、革新官僚として鳴らし、満州国で辣腕をふるった。

1941年に東条英機の内閣が発足すると、商工大臣として入閣し、戦争体制を率いた。

このため日本が敗戦して米軍に占領されると、岸は戦争犯罪人として巣鴨プリズンに収監された。

ところが米ソの冷戦が始まり、アメリカが占領方針を変えたため、東京裁判は打ち切りとなり、岸ら戦犯は1948年11月に釈放された。

その後、岸信介は公職追放となるが、日本の独立と共に追放解除となり、政界に復帰した。

岸信介は、吉田茂が首相のとき「対米追随の路線」を激しく口撃していた。

だが彼は、反米的だったわけではない。

巣鴨プリズンから釈放された後は、在日アメリカ大使館と積極的に接触し、アメリカ側から親米なのを高く評価されるようになった。

(公開されたアメリカ公文書や証言から、岸信介は釈放後にCIA経由でアメリカ政府から指示を受けるようになり、カネなど様々な支援を受けて首相になった事が明らかになっています)

1957年6月に岸信介・首相は、訪米してアイゼンハワー大統領と会談した。

この会談にあたり、信介は2つの布石を打った。

1つは、国防会議で「防衛力整備計画」を決定した事で、これは鳩山政権が決めた「防衛6ヵ年計画」と内容に大差なかったが、閣議決定した戦後初の防衛計画だった。

在日アメリカ大使館は、「この計画は防衛6ヵ年計画とさほど変わらないが、政府の公式な承認を受けている点が重要だ」と報告している。

もう1つの布石は、対東南アジアの外交であった。

信介は東南アジアを訪問したのだが、すでにアメリカ政府はアジアにおける日本の役割の拡大に期待していた。

岸=アイゼンハワー会談の直前、国務省は「極東におけるアメリカの政策」という文書で、「日本はアジアのリーダーとなる資質を具えている。共に働く関係を発展させたい」との方針を示していた。

信介の東南アジア外交の金看板は、「東南アジア開発基金」の構想だった。

これは、コロンボ・プランに加盟している18ヵ国に台湾を加えて構成メンバーとし、その国々に融資を行うことを主旨としていた。

信介によれば、構想の目的はこうである。

「米国を金の主人とし、米国から資金を引き出して東南アジアにばら撒く。米国が直接やれば民族感情を刺激するから、同じアジアの日本を通じて行う所がミソ。」

だが、アメリカの態度は冷淡であった。

アメリカは日本が甘い汁を吸うことを警戒し、未だにアジアで根強い太平洋戦争に起因する反日感情も懸念した。

なお岸政権は、東南アジア外交でインドネシア賠償問題(太平洋戦争でインドネシアを破壊したことへの賠償金の問題)を解決する成果をあげた。

1957年11月にインドネシアと、賠償金2.2億ドル、経済協力4億ドル、借款2億ドルで結着したのだ。

(この賠償については、こちらの記事を読むとよく分かります)

訪米した岸信介は、1957年6月19日のアイゼンハワー大統領との会談で、日米安保条約の見直しを求めた。

だがアイゼンハワーは、「安保改定のためには一層の防衛力増強が必要である」と返事した。

ダレス国務長官も日本再軍備の促進を求め、「日本の努力は他の自由諸国に比べて大きくない。アメリカ国内では日本への不満が広がっている」と脅した。

実のところ、この訪米で信介が持っていった構想は、「安保条約はそのままにして、覚書などで運用面の改善を図る」という控え目なものに過ぎなかった。

安保改定では成果がなかったが、信介は在日米軍の大幅撤退というお土産を手にした。

岸政権は安保改定に慎重だったが、1957年2月に駐日大使として着任していたダグラス・マッカーサー2世が安保改定で動き始めた。

そのきっかけは、57年1月に群馬県の相馬ヶ原・米軍演習場で、薬莢拾いをしていた日本人女性をウィリアム・ジラード三等兵が射殺する事件(ジラード事件)が発生し、日本国民を憤慨させた事だ。

そして58年1月の沖縄・那覇市長選挙で、反米の兼次佐一が当選した。

アメリカ政府は、対日政策の見直しに乗り出さざるをえず、「日米関係の安定のために安保改定が欠かせない」と新安保条約の草案をダレスに送付した。

米軍部はアメリカに有利な現在の安保条約に固執していたが、マッカーサー大使は「日米の双務性を担保するために日本が果たすべき貢献は、海外派兵ではなく、米軍基地の提供である」と説得した。

結局、マッカーサーの進言をワシントンは受け入れた。

58年9月にダレスは、藤山愛一郎・外相との会談で「安保改定の交渉に応じる」と明言した。

ここで指摘しておかなければならないのは、アメリカが安保改定に応じたのは、岸政権の防衛政策に満足したからではなかった事である。

岸政権は防衛力の増強に特段の力を入れてなかった。

その後、1年以上の交渉を経て、1960年1月に新安保条約が結ばれた。

新条約では「米軍の日本防衛義務」が明記され、条約に期限が設けられ、日本国内での内乱鎮圧に米軍が出動できることを定めた「内乱条項」が削除された。

そして日米行政協定も改定され、日米地位協定に生まれ変わった。

条約とは別に、「事前協議制度」の覚書も交わされた。

これは、在日米軍の重要な変更や出動時には、アメリカ政府が事前に日本政府と協議することを定めたものだ。

この制度は、日米の対等性の目玉とされた。

実のところ、新安保条約は旧安保の化粧直しにすぎなかったが、問題点が少し是正されたのも確かであった。

日米安保の改定では、それに反対する日本社会党、労働組合総評議会(総評)、全学連などが一般国民も巻き込んで、大規模な「安保闘争(本質的には日米安保条約の廃止を求める運動)」を展開した。

社会党は、「安保改定は、アメリカの戦争に巻き込まれる危険が増す」と論じた。

安保闘争に拍車をかけたのが、国会における岸首相の強硬姿勢であった。

岸信介は「1960年6月に予定されるドワイト・アイゼンハワー大統領の来日までに、新安保条約の批准を済ませたい」との思いに駆られた。
そして、特別委員会の質疑応答を打ち切り、国会の会期延長を自民党単独で強行採決した。

社会党の猛反発で国会が空転する中、新安保条約は衆院を通過し、参院へと送られた。

条約は、参院に送られて30日が経過すれば、可決されなくても自動的に承認される事になっている。

信介は、ドワイトの来日までに自動承認されるよう国会を運営したのだ。

だが、この強引さは「民主主義の破壊である」と批判を招き、デモを拡大させた。

6月10日に学生らが、ドワイト・アイゼンハワーに先んじて来日したジェイムズ・ハガチー大統領秘書の車を取り囲み、ハガチーは米軍のヘリコプターで救出されるという「ハガチー事件」が起きた。

その5日後には、全学連が国会に突入し、その時に大学生・樺美智子が死亡する「樺事件」も起きた。

ドワイトの安全を保障できないとの判断から、岸信介はドワイトの来日中止を求めた。

こうして新安保条約が批准された後、混乱の責任をとって岸信介・首相は辞任した。

近年に明らかにされたが、この安保改定時には、事前協議制度に関して日米間で密約が交わされていた。

その第1は、「核兵器の持ち込み」に関するものである。

核兵器を搭載した米軍艦が日本に寄港する場合、事前協議の対象になるはずだったが、「事前協議なく寄港していい」とする密約をしていた。

第2は「朝鮮半島の有事」に関するものである。

朝鮮半島で有事があった際は、事前協議を経ることなく在日米軍基地から米軍が出動していい、というものだ。

これらの密約により、日米対等の目玉とされた「事前協議制度」は形骸化していた。

つまり対等性は、見せかけだったと言える。

(2019年7月23日に作成)


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