タイトル治安維持法と三・一五の大弾圧

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

日本の山東出兵が始まった時(1927年)は、まだ戦争・出兵に反対するのが可能だった。

吉野作造や石橋湛山は、日本軍の山東出兵を批判する論説を書いている。

無産政党と労働組合も、「支那から手を引け」とのスローガンで社会運動を行った。

(※無産政党とは、「無産階級(プロレタリアート)の政党」という意味である。

無産階級とは、雇用される労働者や、土地を持ってない小作人など、資産のない(少ない)人々を指す。)

当時の無産政党には、社会民衆党と日本労農党・労働農民党があった。

非合法だった日本共産党は、労働農民党を通して活動していた。

これらの政党は、中国の国民革命を支持していた。

田中義一・内閣が、第1次・山東出兵に動き出した時、無産政党は共同で反対運動をした。

この「支那への非干渉」の運動は広がりを見せ、1927年5月31日には「対支の非干渉・全国同盟」が結成された。

しかし蒋介石の四・一ニの反共クーデター(国共合作の破綻)が起きると、その影響で、蒋介石の南京政府を支持する社会民衆党と、蒋介石を激しく批判する日本労農党・労働農民党とに分かれてしまった。

1925年に日本で、25歳以上の男子に一律に選挙権を与える、「普通選挙法」が公布された。

これは「大正デモクラシー」と言われる大衆運動の成果だった。

この新しい選挙法で1928年2月に衆院選が行われたが、無産政党から8人が当選し、政府が激しい弾圧をしたにもかかわらず労働農民党が2人を当選させた。

これは田中義一・内閣に衝撃を与え、3月15日に同内閣は共産党員と同調者の1568人を一斉に検挙し、徳田球一ら488人を治安維持法への違反で起訴した。

これを「三・一五事件」という。

さらに4月10日には、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟が、共産党の外郭団体として、治安警察法で解散させられた。

(治安警察法は、1900年に公布された法で、政党を監視し、社会運動を取り締まった。

この法は、治安維持法と共に人権を弾圧したが、1945年10月にGHQの命令で廃止された。)

田中義一・内閣は、この弾圧をした後に、第2次と第3次の山東出兵へと進んでいったのである。

「治安維持法」は、1925年4月に男子普通選挙法とセットで制定された。

この法は、国体の変革(天皇制の打倒)と私有財産の否認(共産主義)を目的とする結社を、禁止するものである。

治安維持法を制定したのは、憲政会・政友会・革新倶楽部のいわゆる護憲三派の連立内閣で、首相は加藤高明だった。

高明は、「対華21ヵ条の要求」を中国に強制した時に、外相だった人物である。

三・一五の大弾圧を行った田中義一・内閣は、28年6月に国会の反対を押し切って、天皇の緊急勅令として、治安維持法を改定し、即日施行という非常手段をとった。

この改定で、最高刑が死刑となり、「目的遂行罪」と「未遂罪」が加えられた。

「目的遂行罪」は、共産党員への手助けをしたと見られただけで犯罪となった。

「未遂罪」は、天皇制への反対や共産思想を考えただけでも犯罪とされ、共産主義の本を持っているだけで逮捕される事になった。

この改定に伴って、内務省に直轄する「特別高等警察(特高)」が拡充され、全県の警察部に特別高等課が設置された。

特高が残虐な拷問をした事は、よく知られている。

治安維持法の「国体の変革」という概念は、極めて曖昧であった。

そのため次第に拡大解釈されて、日中戦争への総動員体制が強まると、国策すなわち戦争に反対する者が治安維持法で検挙されるようになった。

治安維持法は、やがて「天皇の統帥権」とセットになって暴走し、共産党を壊滅させた後は、政党政治・議会政治をも崩壊させることになる。

だが治安維持法の危険性について、政治家も国民も認識が欠如していた。

政治家たちは共産党弾圧の法として支持ないしは黙認をしたのだが、後には自らに襲い掛かってきたのである。

治安維持法は、1945年10月にGHQの命令で廃止された。

(2020年4月8日に作成)


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