(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
1928年8月に、アメリカ国務長官のフランク・ケロッグとフランス外相のアリスティード・ブリアンの提唱から、国際的な不戦条約が結ばれた。
これは提唱者の名から「ブリアン=ケロッグ条約」、あるいは調印地にちなんで「パリ不戦条約」と言われる。
日本も入った15ヵ国がパリで署名し、後に63ヵ国が調印した。
この条約は、戦争を非とし、戦争の放棄を宣言している。
ただし、自衛権に基づく戦争と、制裁のための戦争は、合法とした。
この不戦条約は、第一次世界大戦の反省と教訓から生まれた。
第一次大戦では、戦闘機・戦車・潜水艦・毒ガスなど、大量の殺人をする兵器が次々に発明・開発されて、戦死者は2000万人に上った。
そして国民が総動員される総力戦となった結果、戦死者の半数の1000万人が非戦闘員だった。
だから戦争を違法化して、再発を止めようとする動きが強まったのである。
パリ不戦条約は、後に国連憲章に受け継がれ、日本国憲法の第9条はさらに理念を進めたものである。
しかし当時の日本は、パリ不戦条約に加盟はしたが、内容を理解していなかった。
日本が進めた満州事変や日中戦争は、明確な条約違反であった。
1929年7月には、「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)も結ばれた。
この条約は、捕虜の保護を国際法として確立したものだ。
現行の条約である「1949年ジョネーブ第3条約」は、これを改正したものである。
日本は調印したものの、軍部の反対で批准しなかった。
それでもアメリカとイギリスに対しては「尊重する」と声明した。
日本の軍部が反対したのは、「条約に加盟したら、日本軍の兵士が進んで投降し、捕虜になるのを選ぶのではないか」と懸念したからである。
日本軍では後に、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ」(戦陣訓、1941年1月)として、「捕虜になるよりも死ね」と強制される事になる。
このため、膨大な将兵が玉砕や自決に追い込まれた。
日本軍にあった「捕虜になるな」という思想は、日中戦争では「捕虜をつくるな」という作戦方針に繋がった。
日本はハーグ陸戦条約に加盟していて、そこでは「捕虜は人道をもって取り扱わるべし」と定めていたが、これに違反して中国軍の投降兵や捕虜を虐殺した。
日本軍による「中国兵の虐殺」と、「追いつめられた日本兵の自決や玉砕」は、「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)という教えの、一枚のコインの両面である。
日本軍は、政府がアメリカやイギリスに対しては「ジュネーブ条約を尊重する」と声明した事もあって、中国人とは区別して、米英の投降兵や捕虜は集団殺害しなかった。
それでも敗戦後の軍事裁判で、多くの日本軍将兵が捕虜虐待で有罪となった。
(2020年5月4日に作成)