タイトル第二次・満蒙独立運動

(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)

袁世凱が帝政を目指す運動を起こして、中国政府が混乱した時期に、日本では陸軍・参謀本部を中心にして満洲に軍事介入しようとする動きが出た。

1916年3月に、前年に「対華21ヵ条の要求」を中国政府に出した大隈重信・内閣は、日本の民間人が行う反袁世凱の謀略を黙許する方針を出した。

これにより、第一次・満蒙独立運動に大きく関わった川島浪速は、再び満蒙の独立運動を起こして、モンゴル人の馬賊バブジャブを仲間に引き入れた。

モンゴルでは、辛亥革命の混乱に乗じて外蒙古が独立宣言をし、内蒙古もそれに呼応した。

バブジャブは内蒙古からモンゴル独立運動に加わったが、外蒙古の独立を支援したロシアは、日本との関係悪化を恐れて内蒙古の独立は阻止した。

孤立したバブジャブは、日本と結んだのである。

バブジャブ軍と宗社党(清朝の再興を目指す政治結社)の連合軍が誕生し、それを指揮させるため日本陸軍・参謀本部は土井市之進・大佐を送り込んだ。

一方、川島浪速は旧清朝の皇族である憲奎(粛親王の息子)を奉じて、遼陽東方の山にこもって蜂起することになった。

憲奎軍に中国軍が気をとられている隙に、浪速の同志の青柳勝敏らがバブジャブ軍と合流し、満洲に侵攻して奉天城を落とす計画だった。

川島浪速はこの計画のために、鴨緑江の上流に持っている木材伐採をする会社の利権を担保にして、大倉組から借金をした。

当時、満洲では張作霖が台頭してきていた。

これを知る奉天総領事の矢田七太郎や、本郷房太郎・第十七師団長らは、「満蒙の独立運動を支援するよりも、張作霖を支援したほうが、中国への介入として効率が良い」と説いた。

これに説得された石井菊次郎・外相や田中義一・参謀長により、日本政府の方針は転換し、川島浪速らの蜂起計画は宙に浮いた。

張作霖の台頭に対して、宗社党と協力していた伊達順之助は2度も作霖の暗殺を企てたが、失敗に終わった。

1916年8月に、奉天省・鄭家屯で、張作霖軍とバブジャブ軍は戦った。(第二次・鄭家屯事件)

バブジャブ軍は、日本軍の監視下で2週間以内に内蒙古へ帰るのを条件に、張作霖軍と休戦協定を結んだ。

だが張作霖軍は、すぐに協定を破って攻撃をした。

バブジャブ軍は撤退したが、内蒙古の入口の林西城でバブジャブは戦死した。

1917年3月に粛親王の命令で、バブジャブ軍の残党が再編されてハイラルへ進軍した。

そして6月初旬にはホロンバイルで独立宣言を行った。

これに対し、ロシアと中国が日本政府に「参加している日本人を追放しろ」と要請したため、外務省と参謀本部は粛親王に圧力をかけ、ここにおいて第二次・満蒙独立運動は頓挫した。

(以下は『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

(※以下は中国側から見た第二次・満蒙独立運動である)

1916年7月に、モンゴルの巴布托布(パプチャップ)が反乱を起こした。

パプチャップは馬賊で、日露戦争の時には日本軍に買収されて働いた人である。

彼は宗社党の首領である粛親王と組んで、日本の関東軍から軍事援助を受けて蜂起した。

パプチャップの反乱は、東北地方(満洲)に満蒙帝国を建てる事が目的で、黒幕は日本の関東軍であった。

張作霖は、部下の呉俊陞に反乱の鎮圧を命じた。

呉俊陞の部下である馬占山も参戦した。

呉俊陞が負傷するほどの激戦となり、張作霖の援軍が到着してやっとパプチャップ軍を破った。

パプチャップ軍は長春の南の鄭家屯に逃げたが、関東軍は「満洲鉄道の沿線での戦闘や許さない」と干渉して、張作霖は進撃を止めた。

ところが1916年8月13日に、鄭家屯に駐在する日本軍が、張作霖軍と銃撃戦を起こし、日本軍に戦死者11名が出る事件が起きた。(鄭家屯事件)

作霖は話し合いでの解決を求め、日本人顧問の菊池武夫を介して談判をした。

作霖は関東軍の要求を受け入れて、事件に関わった自軍兵を処罰することで収まった。

この騒ぎの最中にパプチャップは逃げたが、「談判成立」で追撃を許された呉俊陞の軍が、熱河の林西で殲滅した。

(2021年6月1日に作成)


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